第十三話 白い鳥
担がれて西に向かった。
吉備武彦の背中に。——走ってきた男が、人の背中に乗っている。情けない。情けないが——足が動かない。動かないものは動かない。
「重くないか」
「軽いですよ。——走る男は肉がない。骨と筋だけです」
「褒めているのか」
「事実を述べています」
体が——燃えていた。
外は冷えているのに中が熱い。力が体の中で回っている。出す場所がない。草薙剣がない。走れない。——出す場所がない力が、体を内側から焼いている。
焼津で草を焼いた火と同じ火だ。あのときは外に出た。剣を通して。——今は中にある。中で燃えている。
「……熱い」
「熱がありますね。——額が焼けている」
「力が——出せない。剣がなくて。走れなくて。体の中で——」
「分かります。——しかし出せません。このまま運びます。大和まで」
「大和まで——持つか」
「…………」
「持つかと聞いている」
「……分かりません」
吉備武彦が——初めて「分かりません」と言った。いつも何か言う男が。口の減らない男が。——分からないと。
二日歩いた。——吉備武彦が。
俺は背中の上で揺れていた。歩く振動で。——走る振動とは違う。遅い。穏やかだ。弟橘媛が歩いていたのは——こういう速さだったのかもしれない。走る俺の隣を歩いていた女の速さ。
見えていたのだろうか。——弟橘媛には。走る俺が、こんなふうに見えていたのだろうか。背中が小さくて。肉がなくて。骨と筋だけで。——止まれない体が走り続けている姿が。
美しいと言った。——あの女は。走る姿が美しいと。
今の俺は——美しいか。担がれて。足が動かなくて。体が燃えていて。——美しくないだろう。
能煩野。
伊勢に近い野。——広い草原。風が吹いている。西から。大和の方角から。
ここで——吉備武彦が止まった。
「降ろしてくれ」
「まだ歩けます——」
「降ろしてくれ。——地面に足をつけたい」
「…………」
「頼む」
降ろされた。地面に。
足が——地面に触れた。草の上に。
温かくもなかった。冷たくもなかった。——ただの地面だった。初代の王は足の裏で道を聞いたと帳簿にある。俺には聞こえない。聞こえない足で——地面を踏んでいる。
立てなかった。——座った。草の上に。
止まった。——ここで。
「……大和は——どっちだ」
「西です。——あの山の向こう」
西を見た。——青い山が見える。盆地を囲む山。あの山の向こうに宮がある。父がいる。
近い。——近いのに着けない。足が動かない。
「近いな」
「近い。——あと一日歩けば」
「一日——」
「担ぎます。——もう一日」
「…………」
「担ぎます。あと一日——」
「吉備」
「はい」
「……もういい」
「…………」
「もういい。——ここでいい」
吉備武彦が——黙った。
口の減らない男が。常軌を逸していますと言い続けた男が。何度も何度も走って追いかけてきた男が。
黙った。
「お前に——頼みがある」
「何でも」
「叔母上に——伝えてくれ。帰れなかった、と」
「自分で——」
「伝えてくれ。『走って走って、帰れなかった。でも泣けるようになった。叔母上のおかげで』と」
「…………」
「美夜受比売に——伝えてくれ。草薙剣はそのまま預かってくれ、と。帰る理由にするつもりだったが——帰れなかった。剣はあの庭に。風の通る庭に。置いておいてくれ、と」
「…………」
「弟橘媛には——」
「…………」
「伝えなくていい。——あの女には、もう伝わっている。海の底で聞こえているだろう。俺の足が止まったことが」
「最後に——一つ聞いていいですか」
「何だ」
「走って——良かったですか」
「…………」
「十五で宮を出て。西に走って。東に走って。名前を敵にもらって。友を裏切って。妻を海に沈めて。足が止まって。——走って、良かったですか」
「…………」
「聞いています」
「分からない」
「…………」
「走って良かったかは——分からない。止まれなかっただけだ。良いも悪いもない。止まれない体で——止まれないまま走った。それだけだ」
「…………」
「ただ——」
「ただ?」
「走っている間に会えた人がいた。クマソの兄に名前をもらった。出雲建に泳ぎを教わった。叔母上に泣いていいと言われた。美夜受比売に足が止まった。弟橘媛に見ていると言われた」
「…………」
「お前に——常軌を逸していると言われた」
「……はい」
「走らなければ会えなかった。——止まっていたら誰にも会えなかった。走って良かったかは分からないが——走らなければ会えなかった。それは確かだ」
風が吹いた。——西から。大和の方角から。
温かい風だった。——体が冷えているから温かく感じるのか。本当に温かいのか。分からない。
歌が——出てきた。
走っている間は歌えなかった。歌うと足が遅くなるから。息を歌に使うと走れなくなるから。——走れなくなったから、歌える。
倭は——国のまほろば。
たたなづく——青垣。
山籠れる——倭し、うるわし。
大和は美しい国だ。——見たことがほとんどない国だ。通過しただけの国だ。座ったことがない国だ。
帰りたかった。——あの山の向こうに。
帰れなかった。
もう一つ歌った。
命の——全けむ人は。
畳薦——平群の山の。
熊白檮が葉を——髻華に挿せ。
その子。
命がまだある者は——山の樫の葉を髪に挿せ。生きているうちに。
「……生きている者は——生きているうちに。楽しめるうちに。走れるうちに。——走っておけ」
「…………」
「お前は走れ。——吉備。まだ走れるだろう。走れるうちに走れ。止まってからでは——遅い」
「……はい」
「止まってから帰りたくなる。——走っているときは帰りたいと思わない。止まったら——帰りたくてたまらなくなる。走れるうちに帰れ。帰れるうちに帰る場所に帰れ」
目を閉じた。
目を閉じた。——長く。
風が頬に当たっている。草の匂いがする。虫が鳴いている。——遠くで鳥が鳴いている。
全部聞こえる。——初めてだ。走っているときは風しか聞こえなかった。止まったら——全部聞こえる。虫の音。鳥の音。草の音。風の音。
止まると——聞こえる。初代の王は聞こえる男だったと帳簿にある。聞こえるから止まっていた。止まっていたから聞こえた。——止まることと聞こえることは同じだったのかもしれない。
走っていた俺には聞こえなかった。止まった今——聞こえる。
遅い。——全部遅い。何もかも遅い。
目を——開けた。
空が広かった。青かった。雲が——高い。伊吹山の雲とは違う。高くて白い雲。
体が——軽かった。
軽い。——足が動かなかったはずなのに。体が燃えていたはずなのに。
軽い。
何も持っていない軽さ。剣を置いたときより軽い。衣を脱いだときより軽い。——体を脱いだ軽さ。
見えた。——下に。
自分が横たわっている。草の上に。目を閉じて。——小さかった。走り続けた体が止まって横たわっている。
吉備武彦が——隣に座っていた。俺の手を握っていた。握ったまま——泣いていた。口の減らない男が。何も言わずに泣いていた。
兵が周りにいた。二十人。——いや、東国で減った者もいる。残った者たちが。膝をついていた。
飛んでいた。
白い。——体が白い。腕ではない。翼だ。白い翼。
鳥だ。——俺は鳥になっている。
飛んだ。
走るのとは——違った。足が地面を蹴らなくていい。足場が要らない。風が体を持ち上げてくれる。
軽い。——走っていたときは重かった。行けと言われる方角に走る足は重かった。帰りたいのに帰れない体は重かった。——飛ぶ体は軽い。方角がない。上下も左右もない。
どこにでも行ける。
大和の上を飛んだ。
青い山が見えた。盆地が見えた。——上から見ると小さかった。こんなに小さな場所に帰りたかったのか。こんなに近かったのに帰れなかったのか。
畝傍山が見えた。橿原宮が見えた。——初代が建てた宮。父がいる宮。
降りなかった。——降りたかったが降りなかった。降りる体がない。鳥には足がある。しかし降りる足ではない。止まる足ではない。
伊勢に飛んだ。
叔母の宮。屋根が見えた。——降りた。屋根の端に。白い鳥が一羽。
叔母が——出てきた。見上げた。
「……小碓」
分かった。——叔母には分かった。
「帰ってきたのですね」
鳴いた。——鳥の声で。人の言葉ではない。しかし叔母には届いたらしい。
「走らなくていいと言ったのに。——走って走って。飛んでしまいましたね」
叔母が——泣いた。空を見上げて。
「泣けるようになったのですか。——飛んでからでは遅いのですよ」
飛んだ。——尾張に。
美夜受比売の屋敷の上を飛んだ。庭に布が干してあった。白い布。風に揺れていた。——いつも通りに。誰が来ても来なくても。
降りなかった。——降りたらまた止まってしまう。止まったら——もう飛べなくなる。
布が——風にはためいていた。
走水の海の上を飛んだ。
水面が光っていた。静かだった。——弟橘媛が沈んだ海。
ここにいます、と言った女がいる海の上を——飛んだ。
降りたかった。——海に。弟橘媛のいる海に。降りたら会えるか。会えないだろう。鳥は海に沈めない。浮いてしまう。——白い鳥は浮いてしまう。
飛んだ。飛んだ。飛んだ。
どこにでも行ける。——どこにでも行けるということは、どこにも着かないということだ。
走っているときは——着けた。遅くても。足が重くても。地面を踏んでいれば——いつか着いた。
飛ぶと——着けない。地面がないから。足場がないから。出雲建が教えてくれた水の掴み方では——空は掴めない。
帰りたかった。——帰れなかった。
走って帰れなかった。飛んでも帰れなかった。
どこかで——消えた。
白い鳥が空に溶けた。——どこに行ったかは、誰も知らない。
草薙剣は——尾張に残った。
美夜受比売が預かったまま。風の通る庭の奥の部屋に。——やがてその場所に社が建つ。剣を守る社が。熱田と呼ばれる場所に。
走る男は帰れなかった。飛んでも着けなかった。——しかし剣は着いた。置かれた場所に。動かない。飛ばない。——ただ、ある。
剣だけが——根を張った。
走って、走って、走り続けて。
最後に——飛んだ。白い鳥になって。
飛べば——どこにでもいられる。どこにでもいるということは——どこにもいないということだ。
帰りたかった。——帰れなかった。
それだけの話だ。——それだけの、話だ。
日本武尊——了




