第十二話 伊吹山
登った。
一人で。素手で。剣なし。
麓に吉備武彦を残した。兵も。
「待っていろ。——俺が降りてこなかったら」
「降りてきてください」
「降りてこなかったら——尾張に戻って、美夜受比売に伝えてくれ。剣はそのまま預かってくれと」
「そんな伝言は——持ちたくない」
「持ってくれ。——頼む」
「…………」
「もう一つ。伊勢の叔母上に。——帰れなかった、と」
「帰ってきてください。——自分で言ってください」
「……ああ。帰る。帰るが——万が一だ」
「万が一は——いつも来ますね。あなたの場合」
登り始めた。
伊吹山は——見た目より険しかった。麓は草原だが、中腹から岩が増える。道はない。獣道すらない。——この山は人が登る山ではない。
体が——重かった。
草薙剣を置いてきた。力の居場所がない。体の中に力が溜まっている。走って少しは出したが——まだ溜まっている。溜まった力が体を押している。内側から。
走れば出る。剣を振れば出る。——どちらもない。素手で。歩いて。力が体の中で暴れている。
兄を壊したときと——同じだ。力がありすぎて、出す場所がなくて、触れたものが壊れた。
今は——触れるものがない。自分の体だけだ。力が自分の体を押している。内側から。
中腹を過ぎた。
霧が出てきた。白い霧。——冷たかった。夏なのに。山の上だけ季節が違う。
霧の中を歩いた。——見えない。三歩先が見えない。音もない。虫もいない。鳥もいない。——静かだった。
静かすぎる。
走水の海が荒れる前も静かだった。——嵐の前は静かになる。静かさは穏やかさではない。溜めだ。何かが溜まっている。
出た。
霧の中から。——白い影。大きい。
猪だった。
白い毛。目が赤い。角がない——猪だから。しかし牙が長い。牛ほどの体。地面を蹴る蹄が石を砕いている。
道を塞いでいた。——俺を見ていた。赤い目で。
「お前が——山の神か」
答えなかった。——口を開いた。牙が見えた。
突進してきた。
速かった。——東国の熊より速い。地面を蹴る力が違う。猪は前にしか走れない。前にしか走れないものは——前に全力で走る。横に逸れない。ぶれない。真っ直ぐ。
かわした。——左に跳んだ。猪が横を通り過ぎた。風圧で体が押された。重い。速い。
振り返った。猪も振り返った。——速い。猪の切り返しが速い。体が大きいのに方向転換が速い。
二度目の突進。——かわした。右に。今度は地面を転がった。石に背中をぶつけた。痛い。
「……速い」
三度目。——もう一度来た。正面から。
今度は——かわさなかった。
受けた。——素手で。
猪の額に手を当てた。押し返そうとした。——力がある。俺には。溜まっている力が。
滑った。——足が。
山の石が——濡れていた。霧で。石の表面が水の膜で覆われている。
足が——滑った。踏ん張れない。力がある。しかし足場がない。出雲建が教えてくれた——「足場がなくても進む方法がある。水を掴むんだ」。水の上ではそうかもしれない。濡れた石の上では——掴むものがない。
押し負けた。——猪の体重に。押されて後ろに転がった。
猪が通り過ぎた。——蹄が俺の腕をかすめた。皮が裂けた。血が出た。
立ち上がった。——まだだ。まだ終わっていない。
猪が振り返った。——四度目の突進。
待った。——素手で構えた。今度は滑らない。石の上ではなく——土の上に移動した。土なら踏み込める。
来た。——正面から。全速で。
掴んだ。——猪の牙を。両手で。左右の牙を。
止まった。——一瞬。猪の突進を——止めた。峠の男に教わった。殴るな。止めろ。掴んで止めろ。
止めた。
——しかし。
力がありすぎた。
止めた瞬間に——体の中の力が爆発した。溜まっていた力が。剣がないから出す場所がなくて。止めた衝撃で——体の中で弾けた。
手が——開いた。牙を離した。力が体の中を逆流した。腕から胸へ。胸から足へ。足が——
猪が——消えた。
霧の中に。一瞬で。いなくなった。殺したのではない。消えた。——最初からいなかったかのように。
代わりに——霧が濃くなった。
雹が降ってきた。
氷の粒。夏なのに。空から。顔に当たった。腕に当たった。背中に当たった。——冷たかった。体が冷えていく。
溜まっていた力が——冷えていく。体の中で暴れていた力が、雹に叩かれて冷えていく。火を水で消すように。
足が——動かなくなった。
初めてだった。
生まれてからずっと止まれなかった足が。走り続けた足が。座ることを知らなかった足が。ざわつき続けた足が。
止まった。
——止まった。
足が止まるとはこういうことか。——知らなかった。足が動かないということを。動かそうとして動かないということを。命令が届かないということを。
体が倒れた。——冷たい地面に。濡れた石の上に。雹が降り続けている。
空を見た。——灰色だった。雲が低い。雹が顔に当たる。冷たい。
熱かった。——体の中が。体の外は冷たいのに中が熱い。力が暴走している。出す場所がなくて。剣がなくて。——体の中で力が燃えている。草薙剣で草を焼いたときと同じ熱。しかし今度は——外ではなく内で燃えている。
草薙剣があれば——振って出せた。力を外に。剣を通して。
ない。——置いてきた。美夜受比売のもとに。帰る理由として。
帰る理由が——体を殺しかけている。
「……馬鹿だな」
声に出した。自分に。
剣を持ってくればよかった。回り道すればよかった。吉備武彦が言った通りだ。無謀だった。常軌を逸していたのではなく——ただの馬鹿だった。
止まれない男が止まりたくて山に登った。力を出しに来たのではない。——止まれるかどうか確かめに来たのだ。止まれない体が止まれるかどうか。
止まった。——しかし自分で止まったのではない。止められた。山に。雹に。——俺が止まったのではない。止まらされた。
這った。——下に。山を降りる方に。
足が動かない。腕で。膝で。地面を掴んで。——石で手が切れた。血が出た。構わない。降りなければ死ぬ。
降りなければ——帰れない。叔母に。美夜受比売に。吉備武彦に。——帰れない。
帰りたい。——初めて、本気で思った。帰りたい。走っているときは帰りたいと思わなかった。走っていれば着くから。走れなくなったら——帰りたいと思う。着けないから。着けないと分かったから。
這って。転がって。膝で。肘で。——どのくらいかかったか分からない。
麓が——見えた。木の間から。光が差している。
吉備武彦が——走ってきた。
「——! 生きている——!」
「……生きている」
「足が——」
「動かない」
「何があった——」
「負けた」
「…………」
「初めて——負けた。猪に。雹に。山に。——俺の力に。全部に負けた」
吉備武彦が俺を担いだ。背中に。——軽い、と思っただろう。走る男の体は軽い。走ることに要らない肉がついていないから。
「……常軌を逸した馬鹿です」
「知っている」
「剣を持っていかなかったのが——」
「知っている。——全部知っている。全部俺が悪い」
「…………」
「帰る。——帰りたい」
「帰りましょう。——担いで行きます」
「走れるか。俺を担いで」
「走れません。歩きます。——常軌の範囲内の速度で」
「……ありがとう」
「初めて聞きました。——あなたの口から。その言葉」
「…………」
「弱ると人間になりますね。——本当に」
〈第十二話・了〉




