光ある未来への一歩
11
颯爽と回廊を歩いていく
ゆりの背中は、
疑問を投げかける隙を与えない。
その彼女の後を、心依架は
黙って付いていく。
同じような景色と、同じような扉。
さっき通ったのではと思うくらい、
変わり映えがしない。
まるで、迷宮だ。
なのに彼女は、行く先を把握しているのか
迷いもなく潜り抜け、歩いていく。
こんな所で置いていかれたら、と
考えると、恐ろしい。
遅れないように、彼女との距離を
一定に保つ。
―ホント、お城っぽいよね。
外観は普通の建物みたいだったのに。
叔父さまって、アンティーク好きなのかな。
勝手に想像しながら、
回廊に施されている内装を眺める。
所有区域前の門とか、
この施設前の門とかも、だが。
どこか古めかしくて、
現実を遮断しているような。
時が、止まっているように思える。
答えをもらえないと分かってはいるが、
聞かずにはいられない。
「・・・・・・ゆりさん。
結構な数の扉がありますけど・・・・・・
どのくらい部屋があるんですか?」
「・・・・・・把握していません。
申し訳ありません。」
把握していたら、答えてくれたのだろうか。
白夜は、知っているのかも。
後で、聞いてみよ。
「それなのに、よく迷わないですね。」
「“sanctuary”の行き先は、その都度
『烏』さま伝いで教えられます。」
聞いた素振りは、なかったけど。
「『一員』として迎える儀式は、
そこで行われます。
私も最初、訪れました。」
儀式。何か、宗教っぽい。
「宗教だと思われて、
帰られる方もいらっしゃいます。
・・・・・・去る者追わず、ですね。」
自分が感じた事に、彼女は
すぐに答えをくれる。
白夜の様に、お預けされないのは有難い。
「縁がなかったという事で
その方たちの、『ここ』に関する記憶を
抹消することにはなりますが。」
「・・・・・・えっ?」
―デジタル処理するみたいな言い方。
そんな事、できるわけがないのに。
・・・・・・まさか、できたり、するの?
「得体の知れないものに対して、最初から
素直に受け入れるというのは難しいです。
むしろそれが、正しい反応だと思います。」
「・・・・・・」
―そう、だよね。
白夜の事なんて、最初は
ヤバいホストとしか思わなかった。
「嘘を見抜く人ではない限り、ですけど。」
彼女の背中は、
愉快そうに揺れている。
誰かを思い浮かべて、笑っているような。
「そんな人、実際いるとか
言わないですよね?」
「ふふっ・・・・・・
事実は小説より奇なり、ですよ。
心依架さん。」
彼女の言い分からすると、
イエスということになる。
「私の知り合いには、
特異な力を持った人たちが多いです。
彼らは、悲惨な過去で心に傷を負っても尚
生きなければならない事情を抱えていた。
力に、手を伸ばさないわけには
いかなかったのです。」
鈴が、悲しげに響く。
彼女が発する声音は時々、その色が窺える。
それが染み渡り、探求心を落ち着かせた。
彼女自身も、その一人なのではと
思ったからだ。
結構、歩いただろうか。
ゆりは、ようやく
とある扉の前で足を止めた。
「・・・・・・ここです。心依架さん。」
こちらを振り返って
真っ直ぐ見据えてくる彼女は、先程
響かせていた悲しさの色を、纏ってはいない。
「後に、蔵野と白夜さんも訪れます。
中で待っていましょう。」
ドォォォンッ・・・・・・
爆発音と、僅かな地響きが伝わる。
“sanctuary”に向かって回廊を歩いていた
二人は、それで足を止めた。
「・・・・・・今の、は・・・・・・」
それに、心当たりがない。
目を見開く白夜に対し、蔵野は
遠くを見据えるように立ち尽くしている。
この爆音の正体を、少なくとも
把握しているのだろうか。
そう思いながら、彼に言葉を掛けた。
「・・・・・・何か、ご承知ですか?」
視線を動かすことなく、告げられる。
「・・・・・・彼が、手榴弾を使ったようだ。」
“彼”、とは。恐らく。
「物理的に燃やし尽くす事は可能だが、
要因には届かない。急ごうか。」
再び蔵野は、歩き出す。
声音は穏やかだが、緊迫感が伝わる。
並ぶようにして、白夜も付いていく。
「物理的に燃やし尽くす事を、可能に
できるわけですね?」
状況を見たわけではないが、
調査に向かっている彼らの存在を知っている。
だが、それについては皆無だ。
「彼の思考を知り尽くしている『ジーン』は
彼の装備品を一部、すり替えておいた。
自爆する事象を読んでいた
『小百合』が、事前に
話を通していたからだ。」
「では・・・・・・」
「枯渇する成分を含んだ、特殊な手榴弾。
沈黙させるには、十分の致死量だ。」
気になるワードがある。
「自爆、と仰いましたが・・・・・・
彼は無事なのですか?」
問い掛けに彼は、こちらを一瞥した。
すぐに進行方向へ視線を戻したが、
瞳に浮かぶ灯りは
確かな明るさを放っている。
「全ては、紙一重で成り立つ。
誰一人、欠けてはならない。」
叔父が発した言葉に、答えはない。
だが、それで十分だった。
「・・・・・・はい。」
惨劇を、無念を。
多くを見据えてきた彼は、
世界の隅々まで注意深く見渡し、
絡み合った糸を解すように
穏やかな風を纏って、今の道を歩んでいる。
彼が指し示した方向に、
光が灯らないことなど。
今まで、目にしたことはない。
*
焼ける匂い。
耳奥に残るノイズ。
この時点で、何かがおかしい事に気づく。
身体に纏わりつく、温もり。
これを手に入れて、間もない。
「ふざけるのは顔だけにしろ。」
くぐもった声が、胸元から響いた。
「ヒーローになったつもりなわけ?
笑わせないでよ。」
顔を俯かせると、刺すような視線と
ぶつかった。
憤る、彼女の目。
これは、何度も目にしている。
だが、頬に流れるものは。
少なくとも、正気な彼女では
一度も見たことがない。
「・・・・・・なんや・・・・・・?
どない、なったんや・・・・・・?」
「私を置いて死ぬなんて、許さないから。
もう、そんなのうんざりなんだよ。」
知りたい答えは、返ってこない。
只々彼女は、咎めるように
自分を睨みつける。
「置き去りなんて、絶対に許さない。」
怒涛の波にのまれる、深い哀愁。
相対するものが紛れて混じり合い、
涙となって溢れている。
その訴える瞳を。その頼りない光を。
最近まで、傍で見守っていた。
そうや。
これが、消えることは、ないんや。
「もしかして・・・・・・あんさん、か?」
問い掛けるが、彼女は何も答えない。
「・・・・・・あんさん、なんやな・・・・・・」
勝手に納得するなと言われたら
それまでやけど、な。
今の状況は、全く分からない。
だけど、その温もりを抱きしめる。
これは、現実や。
俺は、生きとんのか。
ホンマに、何が起こったんや。
木の幹に寄り掛かるようにして、
座らせられていたようだ。
身体に空いていた傷穴が圧迫され
包帯で巻かれ、止血されている。
眩暈はするが、失血による血圧低下は
若干軽減されていた。
意識も何とか、保てている。
完璧な、応急処置。
それを、こいつが?
「これ、あんさんがやったんか?」
「ここから早く離脱しないと、
助けた意味ないだろ?焼け死ぬよ?」
言われて、焦げ臭い匂いが鼻を突いた。
辺りを見渡す。
樹海の闇が、煙と炎によって揺らめいて
真っ赤に染まりつつある。
手榴弾の爆発によって?
燃え広がる程の威力、なかったはずやで?
「どないなっとんのや・・・・・・」
「早く。」
由梨は乱暴に涙を拭って胸元から離れ、
俺の腕を引っ張る。
その勢いで立ち上がり、駆け出した。
ふらついたが、彼女が腕を引っ張って
先導してくれている為、何とか
踏み出すことができた。
ヤツは?
ヤツは、どうなった?
「あいつ、どうなったんや?!」
「私らを追う余裕なんてないさ!
苦しみ悶えてる!」
額に上げられていたゴーグルを装着して
見回すが、彼女の言うような光景は
目に入ってこない。
こいつには、感じられるのか。
「何や分からんけど、助かったわ!
おおきに!」
抱きしめ足りひんわ。
「燃え広がらせたん、あんさんやろ?」
「は?何もしてない。
あんたの手榴弾のせいでしょ?」
手榴弾。
そうか。それか。
先生に、やられたのかもしれん。
流石や。俺のこと、お見通しやな。
助かったわ。おおきに。
せやけど、いっこだけ
腑に落ちんとこがある。
爆撃を、どうやって回避したんや?
憶えとる限りでは、由梨の姿は
見当たらんかったのに。
分からへん。
・・・・・・素直に、喜んでもええんか?
まだ、生きとんこと。
こいつの熱を、感じられることを。
*
この部屋に入ってから、
ゆりとの会話は途絶えている。
彼女に促されてソファーに座ったものの、
落ち着くはずがない。
何畳あるのか。かなり広い。
床が、黒い大理石。何となく、
白夜の部屋を連想させる。
だだっ広い空間に、
高そうな本革ソファーとガラステーブルだけ。
ここは一体、何の部屋なんだろう。
撮りたいが、スマホは禁止である。
うずうずする気持ちを抑え、
目のフィルターで光景を焼きつかせる。
心依架と並んで腰を下ろしている彼女は、
一点を見つめて微動もしない。
綺麗に伸びた背中と、凛とした横顔。
被写体として、彼女は十分
魅力のある素材だと思う。
この施設を出たら、撮らせてもらおうかな。
できたら、叔父さまとともに。
カチャン、と、扉が開く音が響いた。
彼女は、スッと立ち上がる。
それに倣い心依架も腰を上げると、
部屋に入ってくる二人の姿を目に捉えた。
「待たせてしまったね。すまない。」
蔵野が自然と浮かべる微笑みは、
優雅としか言い様がない。
それに応えようと、笑顔になる直前で
歩みを止めない白夜に
がばっと抱きしめられた。
「うわっ!ちょっ・・・・・・」
「はぁーっ・・・・・・癒される・・・・・・」
この場、この状況で
いきなりハグされると思わなかったので、
かなり動揺してしまう。
「お、お疲れさま・・・・・・」
労いの言葉しか、浮かばない。
「なに、部屋着かわいい。いつ買ったの?」
「こ、この間、だけど・・・・・・」
「似合う。うん。ありがとう。
いつもの倍、癒された。
もうちょっとチャージさせて。」
離れるどころか、さらに
ぎゅーっとされる。
「えっ。く、空気読んで?」
「読んでるよ?ここは、感動の再会でしょ?
ハグして当然だと思うけど。」
「いや、毎日してるっしょ・・・・・・」
「珍しい。照れてる?かわいい。」
じゃれ合う二人を見て、蔵野とゆりは
笑顔で見守っている。
恥ずかしさと動揺で、顔が熱い。
でも、なんというか、このハグだけで
何もかも吹き飛んでしまった。
自分のチョロさ加減に、呆れてしまう。
「ゆりさん。ここまでの案内、
ありがとうございました。」
彼女は微笑み、会釈をする。
「心依架さんが、とても
聞き分けが良かったので。」
「そうでしょ?聡いんですよ。」
「ふふっ。ええ。」
なぜか、褒められてるし。
「改めて会おうと言っておきながら、
なかなか機会がなくて申し訳ない。」
まだハグされた状態で
そう声を掛けられ、心依架は慌てて
白夜を引き剥がす。
「い、いえ、そんな!
いつでも大丈夫です!」
「白夜に今度、席を設けさせるよ。」
まだ彼は、
ハグが名残惜しそうな顔をしている。
そんな彼を横目に、笑顔を浮かべた。
「はい!楽しみにしてます!」
「忙しなくてすまないが、
あまり時間が残されていない。
・・・・・・とりあえず皆、
ソファーへ座ろうか。」
蔵野の促しは強くないのに、不思議と
素直に従わせる力を持っている。
二人ずつ、向かい合うように
ソファーへと腰を下ろした。
蔵野とゆり、心依架と白夜、
という並びである。
「・・・・・・ゆりから、
『我々』の事は聞いているね?」
穏やかな声音なのに、厳かに響くのは
この部屋のせいだろうか。
ソファーの背に身を預けることなく、
姿勢を正して心依架は頷いた。
「君を『一員』として迎え入れる理由は、
これから踏み込む事象へ
安全に、かつ最善に進める為だ。
・・・・・・白夜のパートナーとしても。
承諾してもらえるか?」
白夜のパートナー。
その響きに、鼓動の波が高まる。
いかなる時も。寄り添う事。
まるで、教会で愛を宣言するような。
そう捉えてしまう。
「・・・・・・はい。
彼と一緒なら、何も怖くありません。」
だから、はっきり言葉を紡いだ。
彼が横で、どんな表情で
自分を見つめているのか。
それを確かめるのは気恥ずかしいので、
視線を向けなかった。
「・・・・・・心得た。
君の心に、偽りはない。
『我々』の存在を理解してもらえた事、
心から感謝する。」
蔵野は、ふわりと腕を上げて
右手を差し伸べる。
「『一員』としての名前を一つ、
決めてもらいたい。そして、
僕の手を取ってもらえるか。
それで、儀式は完了する。」
色々な形を想像していたので、正直
拍子抜けした。
『名前』というのは、俗にいう
コードネームみたいなものかな。
一気に、組織っぽくなるけど。
しかも、握手するだけで
儀式は終わるという。
差し伸べられた手は、繊細で綺麗だ。
それながら大きくて、しっかりしている。
白夜の手と、とてもよく似ていた。
「『名前』とともに、『何者』であるか。
名乗ることがルールとなる。」
『名前』と、『何者』か。
急に言われても、思いつかない。
ただ、浮かんだ名前は、一つある。
「・・・・・・『御影』、で。」
名前を零すと、隣にいる
彼からの視線を強く感じた。
いや。白夜ではなく、“彼の方”からなのか。
「・・・・・・その名は、君の
心理の記憶に深く刻まれている。
影響力が、強く働いてしまうが。」
「問題ありません。」
白夜から、紡がれる。
「自分が仲介します。」
「承知した。・・・・・・
『何者』であるか、決めかねるようだね。」
察してもらえて、素直に頷く。
「そのまま、『月の方』でいいのでは?」
「・・・・・・そうだね。特別枠として、設けよう。」
『月の方』。
“御影”は、そう呼ばれていた。
確かに、それでいいのかもしれない。
真っ直ぐ向けられる双眸は、
自分の顔が映り込むほどに澄んでいる。
吸い込まれるように
心依架は視線を合わせて、
差し伸べられた蔵野の手を柔らかく掴んだ。
「・・・・・・『月の方』、『御影』。
『Migratory Bards』へ、ようこそ。
君の参加を、心より歓迎する。」
空間に、違和感を覚えた。
その瞬間、
握手した蔵野の姿、
その隣で見守っていたゆりの姿、
自分の傍に寄り添っていた白夜の姿が、
どこにも見当たらなくなった。
代わりに、向かい合わせて
腰を下ろしている、その人物。
彼に、大いに見覚えがあった。
『ふぉふぉ。
しばらくぶりじゃのぅ、お嬢さん。』
「えっ・・・・・・」
『またお会いできて光栄じゃ。
本来なら恵吾に任せるところじゃが、
儂自ら立ち合いをいたしたく、参上した。
・・・・・・貴女様を是非、拝謁したい。』
和装に身を包む、白髪と立派な白髭の紳士。
それに顔全体が覆われて、表情が窺えない。
最初に出会ったあの時は、
“小さくてかわいいおじいちゃん”という
印象でしかなかったが、今は違う。
纏う雰囲気が、骨董品のように重厚だ。
迂闊には、触れてはならないくらいに。
『心理の記憶を取り戻した貴女様には、
儂の纏うものが
ご理解いただけておるようじゃ。』
―「私を敬う必要なんて、ないわ。
私の存在は、もう誰も知らない。
私は今、心依架なのだから。」―
するりと、言霊が漏れる。
和装の紳士の出現と、
“御影”が出てくるという事は。
この空間は今、
“常世”か“間”のいずれかである。
『そうであっても、儂にとっては
頭を上げられぬお方なのです。
・・・・・・その尊き御力と稀有な美しさを、
敬うのは当然。老いぼれの戯言だと、
一笑してくだされば本望じゃ。』
―「・・・・・・老いぼれだなんて。
貴方ほどの猛者を、私は見たことがないわ。
卑下しすぎよ。」―
『ふぉふぉ。勿体なきお言葉。
恐悦至極に存ずる。』
彼は、深々と頭を下げる。
それに対し、“御影”は
礼節を遮るように言葉を投げた。
―「頭を上げてくださらないかしら。
・・・・・・今、悠長に話している場合じゃなくて?
もうそこまで、焦げ臭い匂いが
迫っているわ。」―
・・・・・・焦げ臭い、匂い?
『・・・・・・流石は、最高峰の月のお方。
既に状況を、ご承知なされておる。』
ゆるりと頭を上げた彼は、低く
しわがれた声を響かせ、紡いでいく。
『“黒い風”の所業により生み出された、
異形の樹木。それが、根を通して
樹海の隅々まで蔓延らせておる。
“例の花”を操り、その蜜を吸った鳥に
種子を運ばせ、覆い尽くそうとしておった。
・・・・・・この火の手は、やむを得ずの策。
“現”に蔓延ろうとしておったものを
断ち切る為でもあるが、
新たな道を切り開く為でもある。』
・・・・・・火の手って、もしかして。
樹海のどこかが今、火事ってこと?
だとしたら、周辺に住んでいる人たちが
気づかないわけがない。
―「新たな道・・・・・・そう。
『易者』は、先を見据えているのね。」―
そう呟いた“御影”には、
火の手の意図が見えているのかもしれない。
『貴女様の聡明さには、感服いたすところ。
・・・・・・儂らが希うのは、泰平の世。
姿形を変えても、その意志は変わらぬ。
連鎖の一族が心根に持つもの。』
―「・・・・・・ええ。
貴方たちが繋げてきたものは、
明るい道を築いている。だからこそ、
私は寄り添いたい。」―
『・・・・・・百夜へのお力添え、儂らへの配慮、
深く感謝いたしまする。』
―「あぁ・・・・・・だから、
必要ないと言っているのに。
それで、私は何をしたらいいのかしら?」―
度々、深々と頭を下げる和装の紳士に、
“御影”は呆れている様子である。
『形を焼き尽くせたとしても、意念は根深く
またすぐに再生してしまう。
・・・・・・百夜とともに、それを
制していただきたい。』
答えは、決まっている。
“御影”も多分、同じ意見だ。
―「ええ。勿論、そのつもりよ。
・・・・・・でも、おかしな話ね。
領土は狭くなったけれど、
聖域である樹海には
邪な風など、寸分たりとも
通り抜けることはなかったはず。
その上根付いて、
ここまで広がってしまったのは
なぜなのかしら・・・・・・」―
『・・・・・・時の流れとともに、
森羅万象に対する意識、敬う人々の心が
遠のいてしまった故の・・・・・・
成れの果てだと見解しております。』
―「・・・・・・残念な事ね。でも、これを機に皆
気づくことがあると思うわ。
遠のいて、初めて理解することも。」―
『おっしゃる通り。
光ある新たな道へ踏み込むには、
古き良きものを心に留め
改めることが必須。・・・・・・それを、
我々は指し示しておりまする。』
―「心得ました。
ごゆるりとまた、お話したいわ。」―
『是非とも。恐れ入る。
・・・・・御手を、
拝借してもよいですかな?』
差し伸べられる、年輪が深く刻まれた手。
それに応え、“御影”は
ふわりと腕を上げて手を乗せた。
触れた部分から、小さな光が漏れる。
彼の手が離れ、手の平に現れたのは
見覚えのあるものだった。
『百夜と架け橋になっているものですな。
それに、異形の樹木を封印する鍵が
施されておりまする。どうするのかは、
貴女様がよくご存知のはず。
儂は、扱い方を存じませぬ。』
―「ふふっ・・・・・・
ええ。ありがとう。
有難く頂戴するわ。」―
スマホの“心”は、自分の手を包むように
眩い光に溢れた後、消えてしまった。
それと同時に、和装の紳士の姿も
見当たらなくなる。
「・・・・・・儀式は、滞りなく完了した。」
視界に飛び込む、穏やかな蔵野の顔。
それによって、しっかりと意識が定まる。
心依架の手を取っていたのを
丁寧に引くと、彼は視線を白夜へ向けた。
「後は、よろしく頼む。僕たちは
諸々の対応に回る。」
「はい。」
ソファーから腰を上げた
彼の後を追うように、ゆりも立ち上がる。
「・・・・・・それでは、失礼する。
君たちの繋がりを、心より祝福するよ。」
浮かべた優雅な微笑みは、
和やかな空気を生んだ。
それが、穏やかな風となって心に吹き込む。
颯爽と部屋から去っていく二人を、
心依架と白夜は静かに見送った。
ほんの少しだけ、沈黙が訪れる。
小さく息をつく音が、彼から漏れた。
「・・・・・・お腹空いたなぁ。」
ともに零れた本音の言葉が、妙に
笑いを誘ってしまう。
「ご飯、作ってる。帰ったら食べよ。」
「えっ。ホント?嬉しすぎるぅ。」
「美味しいか分かんないけど。」
「ふふふ。そんなこと言って。
美味しいに決まってるでしょ?」
視線が交わると、引力が働いてしまう。
心依架は頭を、白夜の肩に乗せる。
「・・・・・・儀式の時、
おじいちゃんに会ったよ。」
彼は応えるように、彼女の肩に腕を回した。
「初代から、鍵を受け取ったんだね。」
「うん・・・・・・鍵っていっても、
“心”だったんだけど。
異形の樹木ってのを、封印する鍵が
どうとか言ってた。」
異形の樹木というのは、何なのか。
それと、“御影”が言っていた
“焦げ臭い匂い”。
今、何が起こって迫っているのか。
正直、どうすればいいのか分からない。
「・・・・・・大丈夫。
どうするべきか、“彼女”が教えてくれる。」
囁くように紡がれる彼の声は、自分へ
とても心地好く響いていく。
「異形の樹木というのは、
例の花を操っていた要因なんだ。
それを、ようやく見つけたんだよ。」
それは、ゆりから聞いていたので
何となく分かる。
「樹海を調査してくれていた仲間がいてね。
彼らが、それを枯渇することに
導いてくれた。物理的に。
自分たちは、その根元を断つ。」
「根元は・・・・・・
“常世”に繋がっているってことだよね。」
「その通り。今から、“間”を介して
“常世”へ向かう。」
じっと、彼を見つめる。
それを、真っ直ぐに返される。
こんなに間近で見つめ合うことが、
照れずに自然とできるようになった。
「・・・・・・
“ここ”って、どんな所なの?」
それだけは、聞いておこうと思った。
「“常世”に最も近い、神聖な場所。
心得のない者が踏み込むと、
迷い込んで正気ではいられなくなる。」
「・・・・・・」
そんなに怖い場所だとは、
思っていなかったが。
「ふふふ。君は、大丈夫だよ。」
「“御影”の、お陰だよね。」
「それもあるけど、君自身が強いから。」
髪を梳くように、撫でられる。
これは、前触れ。やっと分かった。
くすっと、笑いを漏らす。
「こんな、だだっ広い部屋で膝枕とか
VIPすぎっしょ。」
彼も、ふんわり笑う。
「最初で最後になると思うよ。
だから、心ゆくまで堪能しよう。」
「堪能するのは、白夜っしょ。」
「ふふふ。そうだねぇ。」
「ずるいし。」
「身を任せられるのは、君だけだよ。」
その言葉に、不覚にもドキッとした。
「ほ、ホントかなぁ~?」
「分かってるでしょ?」
「分かんないし。」
「じゃあ帰ったら、たっぷり教えてあげる。」
それは、別の意味でもヤバい。
「い、いいから早く膝枕して?」
彼の、真っ直ぐな眼差しが
胸を貫いていく。
さっきまで、ふんわり微笑んでいたのに
真剣な表情に変わっていた。
瞳のレンズに浮かぶ自分の顔は、
とろけそうになるのを我慢している。
「・・・・・・万全を期している。
みんな、傍にいるから。
安心して、身を任せてほしい。」
言葉に籠められた、彼の配慮。
“白夜”としてではなく、
“百夜”として告げられていると、自覚する。
この時を迎えるまで。彼は入念に、
抜かりのないよう準備してきたのだろう。
それに、応えられたら。
何も聞かずとも、傍に寄り添えたら。
どれだけ、幸せだろうか。
「うん、分かった。」
とびっきりの笑顔で、そう答えた。
自然に重ねる口づけの後、
柔らかい温かさが膝上に乗る。
この瞬間は、いつも狂おしくなる。
見下ろした先に、
見上げる彼の双眸を捉える。
自分だけの、特別な視界。
瞼が下りていくまでを、
見届ける事はできなかった。
強烈な眠気に、誘われる。
いつもなら、真っ白な空間が広がっている。
飛び込んできたのは、入り混じる真紅。
そして、何かが焼ける匂い。
「“間”を保てる時間は、限られている。」
自分と肩を並べて立つ、白夜の発言。
それに目を向けると同時に、
心依架の手の平から光の粒が発生する。
『緊急事態モードなので、挨拶は省きます。
ご了承ください。』
スマホに成形された“心”が、告げていく。
『和装の紳士様により、
特殊容量区域をお預かりしています。』
「ありがとう。使い方は、
彼女に合わせようと思う。」
『はい。そのように
カスタマイズいたします。
お任せください。』
空間は、安定していない。
それをピリピリと、肌で感じ取った。
あまり、時間は掛けられない。
それだけは分かった。
「早く行こう。」
そう呼び掛けると、彼は微笑んで
ふわりと手を差し伸べる。
「君の得意技を、披露してもらおうかな。」
大好きな、彼の手。
触れる度に鼓動が高鳴るって、
かなりの重傷だよね。
「得意技って・・・・・・なんだろ。」
そして、誤魔化すように
とぼけたフリをする。
「ふふふ。無意識でやってるでしょ?」
確かに今、うずうずしている。
『それでは、
“常世”への出入り口を確保します。
・・・・・・心依架様。
管理人様のバックアップと
白夜様の仲介により、“御影”様の月の力が
干渉なく発揮できる状態です。
思う存分、撮影できます。』
撮影と聞いて、思わず笑ってしまった。
「撮りまくっていいってことっしょ?」
「できれば異形の樹木を、ね。」
得意技かどうかは、分からないけど。
「それなら、できそう。」
「動きが早くて定まらないのが、難点かも。
その対処は、晴さんたちに
お願いしてる。
危険が及ぶ可能性も含めて。
君は、撮るのに集中してほしい。」
「・・・・・・了解。」
ベストショットを狙え、って事だよね。
「心置きなく、どうぞ。」
―「感謝するわ。」―
するりと、“御影”の声が漏れる。
―「記念に後で、
貴方も撮りたいのだけれど。」―
【我を印するのは不可能だ。】
白夜の口が、裂けている。
―「そういう意味じゃないわ。
瞬間を収めるのよ。」―
【解せぬ。】
―「私も一緒に撮りたいの。
“心”。お願いするわね。」―
『はい。“御影”様。』
【全くもって、解せぬわ。】
“彼の方”と“御影”の、記念撮影。
いいかも。
二人の和やかな空気を割るように、
荒れた風が、前方から吹く。
焼けた匂いと、纏わりつく熱。
その方向へ一歩ずつ歩く度、
何かの悲鳴が聞こえてきそうだった。
何かが、苦しみ悶えている。
それを、しっかりと見据えた。
真っ赤な炎が、樹木を覆い
焼き尽くそうとしている。
ヒュオォォォォ・・・・・・と、
聞き慣れない音が、微かに鼓膜を震わせた。
一先ず、試しに撮ってみようと考える。
踊り狂う炎に向かって、心依架は
“心”を翳して、ぱしゃりと撮った。
『撮れた画像は、ご確認しやすいように
一定時間、空中に展開します。』
画面から光の粒が立ち昇り、目の前に
縦横30センチの枠が生まれる。
それが、モニターとなって
映像が浮かび上がった。
特に何も、映り込んではいない。
ヒュオンッ、と鋭い風が
すぐ側を通り抜ける。
「・・・・・・?!」
ぼとぼとぼと、と目の前で
何かが地面に落ちた。
「ごぶさた。みぃちゃん。」
白夜と心依架が並んで立っている
その後方で、声が掛けられる。
「マナさん!」
思わず振り向いて、笑顔になった。
彼は立派な刀を両手に構えて、
炎が上がる前方を見据えている。
「かなり、カオスだな。
気を抜くとヤバい。」
「お手数おかけします。」
「二人とも、俺のことは気にせず
専念してくれ。とりあえず攻撃は
全力で防ぐ。」
そう告げた後に、彼は刀を振り抜く。
鋭い風は、自分たちを斬ることなく
炎に向かって吹き抜けた。
先程は、その一振りだった事を把握する。
ぼとぼとぼと、と再び
何かが落ちた。
湾曲した、樹木の枝のような。
先端が鋭く尖っている。
「異形の樹木は、錯乱状態ですね。」
「見境ないな。話も通じない。」
「何とか、動きを
止められたらいいけど・・・・・・」
『全容が確認できない事には、難しいな。』
優しく柔らかい声音と
涼やかな低い声音が、風に乗って耳に届く。
その方向へ目を向けると、
拳銃を両手に持つ晴と
彼女の頭に手を乗せる朋也の姿を捉えた。
緊迫している状況だが、二人の出現も
心が躍るくらい嬉しくて、安堵を覚える。
―「動きを止めて、
姿を目視できればいいという事かしら。」―
“御影”が零した言葉に、皆が注目する。
「お願いできますか?」
有無を聞かず申し出た白夜に、
“彼女”は微笑んだ。
―「造作ないこと。炙り出しましょう。」―
スマホを翳した先は、
学が斬り落とした樹木の枝。
ぱしゃりと、シャッターを切る。
空中展開するモニターに
映し出されたと同時に、光の粒が溢れて
枝を包み込んだ。
―「主の元へ行きなさい。」―
それは、ふわりと浮かび上がって
炎の方へと向かっていく。
行った先を、すかさず“彼女”は
ぱしゃりとシャッターを切った。
オォォォォ・・・・・・と、
苦しみ悶える声が、強く響き渡る。
高さは、3メートルくらいだろうか。
太い幹に施された、彫刻のような。
明らかに顔だと分かる模様が、
うごめいて揺れている。
“御影”によって還された枝は、それに繋がって
再び心依架たちへ矛先を向ける。
「エグっ」
一言発して学は、鋭く刀を振り抜いた。
ぼとぼとぼと、と、繰り返しのように
地面へ還る。
だが先程と違うのは、
映し出された異形の樹木の姿が
消えることなく、留まっている事である。
「心依架ちゃん、すごい。」
『お陰で、何とかなりそうだ。』
“御影”は、拳銃を構える彼女と
目標を見据える彼に向けて、スマホを翳す。
―「あなたたちの方が、素晴らしいわ。
ここまでの共鳴を可能にするなんて。」―
ぱしゃりと、シャッター音が鳴る。
―「及ばずながら、後押しするわね。」―
果敢な二人を帯状に囲んでいる、
絡み合う糸のようなもの。
それが何なのか分からないが、
“彼女”が放った光の粒は
それへ向かっていくと、螺旋になって
包み込んでいく。
「わっ」
『これは、驚いたな。』
今二人が見据える視界には、
何が映っているのだろう。
「朋也っ。今なら、連射出来そう!」
『ああ。容易い。』
何もかも、カッコよすぎるんだけど。
ドォンッ!
ドォンッ!
ドォンッ!
激しい銃声が、響き渡った。
ウォォォォン・・・・・・!
異形の樹木は、遠吠えのように啼いた後
瞼を閉じて、脱力した。
心依架達を狙い定めていた枝も、
だらりと落ちる。
勢いあった炎も徐々に、弱まっていった。
「・・・・・・効果あり、かな?」
恐る恐る、晴が尋ねる。
『沈静したように見えるが・・・・・・
油断できない。』
注意深く、朋也は告げる。
「みぃちゃん。
俺にも光の粒、欲しいかも。」
学は刀を構えたまま、投げかける。
―「ふふっ。あなたには必要ないと思うわ。
御仁のお弟子さん。」―
“御影”は、可笑しそうに受け答える。
「そんなぁ。頼むよぉ。
キラキラしたやつ、ください。」
『これ。恐れ多い。』
そしていつの間にか、学の側に
和装の紳士が立っていた。
『流石は“御影”様。使いこなしておられる。』
―「御仁の錬成が申し分ないからよ。
・・・・・・これから、どうしようかしら。」―
『百夜。お前の見解は、どうじゃ?』
先程から彼は、何も言葉を発していない。
静かに状況を見守り、
異形の樹木を真っ直ぐに見据えている。
皆が注目する中、白夜は
その問い掛けで口を開いた。
「・・・・・・樹木と、話ができればと。
危険が伴いますが。」
『・・・・・・うむ。』
彼の視線が、自分に向く。
大きな双眸に浮かぶ、深い青の光。
それに囚われ、視線を外す事は赦されない。
それは、“彼女”を捉えるものではなく。
明らかに、自分を呼び起こすものだ。
「心依架。」
名前を紡がれたのが、証拠である。
後頭部に手を添えられて、引き寄せられた。
眼差しに射抜かれて、鼓動が騒ぎ出す。
「・・・・・・何?どうしたの?」
聞いても、答えは返ってこない。
「・・・・・・“心”。意識レベルは?」
なぜか、“彼女”へ問いが投げられる。
『40付近を一定に保っています。
“御影”様との同期は問題ありません。』
「・・・・・・分かった。ありがとう。」
触れていた彼の手が、手隙の方の手を包む。
「このまま、手を繋いでいてもいい?」
そうお願いされたのが不自然で、
首を傾げる。
いつもなら、触れるのに
断りを入れることはない。
「別に、いいけど・・・・・・」
その配慮は、何かを
意図しているからなのだろうか。
「・・・・・・樹木の“声”には、恐らく
強い洗脳作用が働く。
現に例の花は、それによって操られ
繁殖力を高めてしまったと考えている。」
「それで・・・・・・今から、どうするの?」
「樹木の“声”を実際、聞こうと思う。
・・・・・・立証するためにも。」
危険な架け橋。
ゆりが言っていたのは、
この事なのかもしれない。
白夜は、皆の顔を見渡して告げる。
「自分と心依架以外は、それぞれの“間”で
待機をお願いします。
何が起こるか分かりません。」
「・・・・・・二人だけで、大丈夫なのか?」
ぽつりと、学から懸念が零れる。
それに対し、彼は揺るぎなく答えた。
「逆に、二人の方が
想定外に対処しやすいと思います。
それに、マナさんたちが安全な場所で
見守っていてくれた方が、
こちらとしても動きやすい。」
『従おう。』
率先して、朋也が応える。
『俺たちができる事は、ここまでだ。
足手まといになる。』
「・・・・・・うん。そうだね。」
続くように、晴は相槌を打つ。
「必要だと思ったら、いつでも呼んでね。
傍にいるから。」
「はい。ありがとうございます。」
彼女と目が合う。
浮かべた優しい微笑みは、束の間だが
緊張の糸を解してくれた。
緩やかな風とともに、二人の姿は消える。
「・・・・・・いつでもぶった斬れるように、
構えとくよ。遠慮なく呼んでくれよな。」
「心強いです。」
『晴どのたちが放った弾により
著しく攻撃性を失っておるが、
油断大敵じゃ。心せよ。』
「はい。お力添え、大変感謝いたします。」
窺い知ることできないが、
こちらに向ける彼の目は
きっと、穏やかだ。
『・・・・・・それでは、心のままに。』
学と和装の紳士の姿も、消え去る。
見えなくても、彼らは傍にいる。
それが分かっているから、乗り切れる。
残ったのは、繋がっている彼の手の温もりと
目の前で沈黙する、異形の樹木の姿。
そして、焼かれて炭と化した樹海の木々。
この光景が“現”と繋がっているならば、今
どんな状況になっているのだろう。
「・・・・・・“御影”様。自分の申し出を、
聞き入れてもらえますか?」
白夜が名前を紡いだと同時に、
意識も“彼女”が前に出る。
―「・・・・・・ええ。あなたの考えている事は、
分かっているわ。」―
自分には正直、分からない。
彼が、何を頼もうとしているのか。
―「私と繋げた以上、影響があるから
心配しているのでしょう?
・・・・・・大丈夫よ。問題ないわ。」―
彼の懐に、“彼女”は身を預ける。
―「あなたが見込みなく、
危険だと分かっている事を
頼むわけがない。」―
「・・・・・・恐れ入ります。」
応えるように、腕が回された。
―「・・・・・・ふふっ。“あの人”、出てきたいのを
我慢しているのではなくて?」―
「ふふふ、そうですね。
ご理解なされての事だと察します。」
―「そう。嬉しいわ・・・・・・
受け入れてもらえて。」―
二人の会話が読めず、自分も
聞きたいのを我慢している。
―「・・・・・・“心”。
預けている子を、ここへ。」―
『承知いたしました。“御影”様。』
手にしていた“心”の画面から、
光の粒が溢れる。
ふわりと空中に浮かんで現れたのは、
シャボン玉のような膜に覆われた
一輪の、深い藍色の花。
瑞々しく保たれているそれは、“彼女”へ
うやうやしく挨拶をするように
花びらを開かせた。
『ご機嫌麗しく存じます。“月の方”。』
―「あなたの美しさには敵わないわ。」―
『御恩は忘れません。
何なりとお申し付けください。』
―「・・・・・・ありがとう。
あなたたちの、稀有で素晴らしい力を
私に是非貸してもらいたいの。」―
『はい。是非とも。』
健気な花へ向ける“彼女”の眼差しは、
愛でるように優しい。
―「・・・・・・あなたたちを狂わせた、
“世界を埋め尽くせ”という声。
その主が、目の前にいるの。」―
『・・・・・・左様でございますか。』
―「私は、“その声”を今一度聞きたい。
語り掛けてもらえないかしら。」―
心依架は、そう頼んだ“彼女”の意図が
分からなかった。
洗脳作用が強く働く、と彼に聞いた。
“その声”を聞くのは、かなり危険なのでは。
『・・・・・・貴女様が、ご所望とあれば。
お考えあっての事だと存じます。』
―「ええ。・・・・・・誓うわ。
もう二度と、意のままにはさせない。」―
操られるかもしれないという、恐怖。
それを押しのけてまで
花は、“御影”の頼みを受け入れた。
経緯を、白夜は傍で静かに
見守っている。
“―「私と繋げた以上、影響があるから
心配しているのでしょう?」―”
この言い分から考えると、
花が正気を保っているのは、
“御影”に保護されているから。
“彼女”と、繋がっているからなのだと。
その状態で、花が“その声”を聞いて
万が一洗脳作用が及んでしまったら。
何が起こるか分からない。
少なくとも、最悪な状況になるのでは。
それが過り、不安が生まれた。
しかしすぐに彼の、
自分を握る手が強くなる。
温もりを通り越して、熱い。
彼の、命そのものが
注がれているような感覚だった。
懸念を掻き消す、灯火。
それを一身に受けて、安堵に変わる。
花を包んだシャボン玉は、ふわりと
“彼女”の元から離れて、沈黙している
異形の樹木の前まで飛んでいく。
気配に気づいたのか、重く閉ざされていた瞼が
ゆっくりと上がった。
『・・・・・・あなたは何故、
私たちを脅かすのですか?』
花は、問う。
『世界を覆い尽くせと、強く願うのは何故?』
真っ直ぐに投げられた疑問に対し、
異形の樹木は見据えたままで
何も口を開かない。
それが、とても不気味に思えた。
『私たちを操り、世界を変えようとしたのは
強い意念があっての事だと。
根元がないとは思えません。
・・・・・・良ければ、私に
吐き出してくださいませんか。』
花の説得は、とても親身である。
この心優しさが、果たして
異形の樹木へ届くのか。
注意深く、様子を窺う。
静寂を保っていたそれは、
ようやく口を開いた。
『・・・・・・不要なものが、多すぎる。
排除する為に、お前たちの力を欲した。
世界を、美しい姿に。
私に命を吹き込んだ【彼】が
そう願う限り、従う。
【彼】は私の、創造主だから。』
思ったよりも、穏やかな声音だった。
『その方は、何処に。』
『・・・・・・【風】の行方など、分からない。
それ以上は、知らない。』
『会いたいとは、思わないのですか?』
『それを問うのは、何故だ?
【彼】の願いを伝える為に、私は存在する。
果たされれば、何も望まない。』
『・・・・・・虚しいとは、思わないのですか?』
『何も、思わない。
私の存在意義が・・・・・・
【消えることはない。】
語尾が耳に入った途端、背筋に
悪寒が走った。
【お前たちの力は素晴らしいと、
何度も言っているではないか。
身を任せればよいのだ。
その力で、“世界を変えたい”とは
思わないか?】
声音が、明らかに変わっている。
重低音なのは、“彼の方”と似ていた。
だが、こうも不快を覚えるのはなぜか。
“世界を変えたいとは、思わないか。”
そのフレーズと波動が、全身を覆う。
【・・・・・・くっくっくっ。何と、まぁ。
お前と繋がっているのは、
“最高峰のお方”ではないか。素晴らしい。】
舌舐めずりされたような感覚だった。
【待っていた甲斐があったというもの。
花よ。“そのお方”を、こちらへ
お連れしてもらえないか。】
彼の熱が注がれていなければ、
呑まれて凍えてしまいそうだ。
『・・・・・・いや、です・・・・・・
あなたには・・・・・・触れさせません。』
花は、ぶるぶると震えている。
必死に、自分を守ろうとしている。
【独占するつもりか。・・・・・・無理もない。
“月の方”から湧き上がる養分は、
極上であろう。だが、お前だけに留めるのは
身に余るのではないのか。】
“私にも、その素晴らしき光を。”
声として紡がれていないが、
波動となって押し寄せてくる。
【さぁ。私の元へ。
・・・・・・この、醜く悪しき世界を
変えようではないか。】
【醜く悪しき世界・・・・・・
お前には、そう映るのか。】
被さる、重低音。
発せられた方向へ目を向けると、
彼の口が裂けていた。
【我の声を模倣し、
弱きものを操るお前自身が、
目を曇らせているのでないのか。】
“彼”は、怒っている。
重低音の紡ぎは、びりびりと鼓膜を震わせ
胸に響いていく。
【おぉ・・・・・・これは、何たる奇遇。
偉大な力を持ち、世界を統べる貴方に
謁見が叶うとは。】
異形の樹木の顔が、歪む。
この上ない喜びだと、言わんばかりに。
【私はその、貴方の偉大な力を
掌握するべく、長年追いかけてきた。
出来れば、意念あるうちにと考えていたが
・・・・・・邪魔だてが多くて、思うように
歩を進められなかった。
ようやく・・・・・・ここまで・・・・・・】
【不届き千万!】
一喝。
その一喝で、不快な波動を
かき消してしまった。
【お前ごときが、我を掌握しようと?
どのような思考で、そうなるのだ?
虫唾が走る。】
だが、一喝されても尚
それは、恍惚の表情を浮かべている。
【“世界を統べるもの”と、“月の方”・・・・・・
同時に出逢えるとは。くっくっくっ・・・・・・
森羅万象は、私に味方しているようだ。】
異形の樹木から、ぶわっと
黒く染まった風が発生する。
“お二方、私と共有しましょう。”
そんな不快な声とともにやってきた
それは、衝撃波に近い。
その風は、うねるように取り巻いて
意識を奪い去ろうとする。
『意識レベル、お二人とも低下しています!
お気を確かに!』
“彼女”の声が、遠い。
執拗に纏ってくる黒い風は、
繋いでいる彼の手を引き剥がそうとする。
「・・・・・・びゃくやっ・・・・・・」
心依架は彼の名を呼び、必死で掴む。
―この手を、放したらダメだ。
“彼の方”は?“彼”なら、こんな風、
さっきみたいに一瞬で
吹き飛ばせるっしょっ・・・・・・?
そう思うが、“彼”の声は紡がれない。
必死にしがみつく中、白夜の顔を見るが
口が裂けていない。
苦悶の表情を浮かべている。
―このままでは、彼と離れてしまう。
そんなの、イヤだ。
・・・・・・“御影”っ。助けてっ。
呼び掛けるが、“彼女”の声も返ってこない。
【くっくっくっ・・・・・・
そう。身を委ねればよい。
溢れる力を、思いのままに。】
ざらざらと、それは鼓膜を撫でる。
―イヤっ・・・・・・!
“心”っ・・・・・・!!
頼みの綱は今、“彼女”だ。
自分たちの、架け橋。
自分自身。
―溢れる力なんて、そんなのいらないっ!!
彼と、無事に帰って、
日常を過ごすだけなんだからっ・・・・・・!!
邪魔なんて、させないっ!!
「・・・・・・“心”っ・・・・・・
シークレットモード、発動っ・・・・・・」
白夜の声が、紡がれる。
途端に、視界がホワイトアウトした。
ここは、どこだろう。
白い。白くて、静かだ。
寄り添っていた白夜は、どこ?
彼と引き離そうとした、黒い風は?
“彼の方”は?
“御影”は?
おじいちゃん。マナさん。
晴さん、朋也さん。
いたら返事してください。
・・・・・・
誰も、いないの?
静かすぎて、寂しいよ。
・・・・・・?
遠くに、何か見える。
誰かが、自分に向かって
ゆっくり歩いてくる。
良かった。誰か、いた。
向こうも、自分がいるのに気づいたのかも。
・・・・・・女の子、かな?
周りに溶け込みそうな、白いワンピース。
背中くらいまで伸びた、サラサラな黒髪。
近づいてくると、背が小さいのが分かる。
小学生、かな。かわいい。
何かを、抱えている。
・・・・・・花束?
でも、野原とかで摘んだようなやつだ。
1メートルくらいまで来て、足を止める。
『・・・・・・おねえさん。
わたしのお父さんを、知りませんか?
ずっと、さがしています・・・・・・
ずっと、見つからないの・・・・・・』
・・・・・・ずっと、ここで?
確かに、ここは真っ白で、何もない。
寂しかっただろうな。
だけど、自分を見上げてくる
女の子の表情からは、何も読み取れない。
『いっしょに、さがしてもらえませんか・・・・・・?』
今、自分も迷子なんだけど。
でも、どうしたらいいのか分かんないし。
このまま、何もしないよりは、いいのかも。
「いいよ。一緒に探そう。」
そう言ったら、無表情だった女の子は
めっちゃ嬉しそうに笑った。
『ありがとうございます!』
なんだ。かわいいじゃん。
「お父さんって、どんな人?」
『とっっってもカッコいいです!
やさしくて、いつもえがおです!』
あはは。
「大好きなんだ?」
『はい!とっっっても!』
「お母さんは、どこにいるの?
はぐれちゃった?」
『お母さんは・・・・・・いません。』
・・・・・・
亡くなったってことかな?
詳しく聞かない方がいいかも。
『ずっと、お父さんと二人です。
・・・・・・
わたしが、びょう気なので
いつもいっしょにいてくれます。
今日は、げん気だったので
大すきな公えんに、いっしょに出かけて
お花つんで・・・・・・』
そこで、表情が曇る。
『気づいたら、いませんでした・・・・・・』
「・・・・・・そっか・・・・・・」
『お父さんに、あげたいのに・・・・・・』
お花摘むの夢中になって、
はぐれちゃった的なカンジ、かな。
・・・・・・でも、待って。よく考えよ。
ここはまだ、“常世”?
“間”っぽい気もするけど・・・・・・
こんな白い所、現実にない。
・・・・・・ってことは、この子は。
「・・・・・・お名前、何ていうの?」
『さくらいあまねです。』
・・・・・・さくらい、あまね?
「お父さんの、お名前は?」
『さくらいかなめといいます。』
・・・・・・!
「・・・・・・お父さんって、学者さん?」
『はい!おねえさん、
お父さんを知っていますか?』
・・・・・・知っているも、何も・・・・・・
ちょ、なに、この状況。
えっ。待って。パニックになりそう。
・・・・・・落ち着けっ、心依架っ。
これ、もしかして、今・・・・・・
自分、かなりヤバいとこに踏み込んでない?
『・・・・・・おねえさん?』
「えっと、うん。知ってるかも。」
『ほんとですか?!』
とにかく、よく分かんないけど、
これは今、何かのミッションが遂行されてる。
そう考えたほうがいい。
「・・・・・・あまねちゃん、ずっと
お父さんを探してるんだ?」
『・・・・・・はい。ずっと、さがしています。』
「じゃあ・・・・・・
めっちゃ、会いたいよね。」
『はい。とっっっても会いたいです。』
・・・・・・
自分が聞いて知ってる
佐倉井 要っていう人物と、
この子が知っている
佐倉井 要っていう父親は、
別人のように違うのかもしれない。
“『とっっってもカッコいいです!
やさしくて、いつもえがおです!』”
この子は、病気だって言ってた。
父親なら、ずっと寄り添って
支えたいって思うのは、自然だと思う。
自分の父親も、それはあった。
小さい頃限定だけど。
一回だけ、自分が熱出して寝込んだ時、
仕事早退して帰ってきた事がある。
ママがいるにも関わらず。
でもそれ以来は多分、
ママに言われたのか分からないけど
自分が寝込んだ時、仕事早退してまで
飛んで帰ってくることはなかった。
帰って傍にいたいって思ってたのは
違いない。だって、帰った途端
べったり傍にいたし。
・・・・・・あの時は、パパも、
パパだったんだな。きっと。
『・・・・・・おねえさん?』
「あぁ、ごめんね。」
何か、余計なこと思い出しちゃった。
別にもう、いいんだけどさ。
手に持ってた“心”が、なくなってる。
呼んだら、来てくれるかな。
“彼女”に聞けば、何とかしてくれるかも。
「・・・・・・“心”。」
上に向けた手の平から、
光の粒が溢れ出てくる。
良かった。来てくれそう。
『はい。心依架様。』
『わぁっ・・・・・・!きれいっ・・・・・・!』
だよね。驚くよね。
『おねえさん、まほうつかいですか?!
カッコいいっ!!』
「あはっ」
『きれいなおようふくだし・・・・・・
そっか、おねえさん
おひめさまなの?いいなぁっ』
「お姫さま・・・・・・」
あぁ。白夜。会いたいな。
「・・・・・・あまねちゃん。今から探してみるね。」
『はい!よろしくお願いします!
おひめさま!』
そんなに、目を輝かせて。
見つかんなかったら、どうしよう。
「・・・・・・“心”。この子のお父さん、
佐倉井 要さんがいる場所、分かる?」
『少々お待ちください。検索いたします。』
検索、できるの?
“彼女”は、自分の手から離れて
浮かび上がる。
それに、あまねちゃんは
さらに目をキラキラさせた。
『・・・・・・シークレットモードの為、
外部からの干渉は遮断されます。
佐倉井 弥様との同期により、
アーカイブの閲覧が可能です。
該当する項目が、1件あります。』
・・・・・・
そういえば、この場所に来る前
白夜が、その言葉を言ってた気がする。
「アーカイブの閲覧・・・・・・
ってことは、実際に
この場所にはいないってこと?」
『はい。正確なデータを提示できませんが、
佐倉井 要様は数十年前に
亡くなられています。』
「・・・・・・?」
どういう事?
そうなると全然、辻褄が合わないけど。
自分たちの知ってるその人って、
一体何だったの?
『・・・・・・お父さん、いないのですか?』
うぅ。どうしよう。
さっきまで、
あんなに嬉しそうだったのに。
輝いていた目が曇って、泣きそう。
『ご安心ください。
アーカイブから呼び起こし、
上書き保存が可能です。』
「・・・・・・えっ?」
よく分かんないけど。
上書き保存って、何?
『お父様に、お会いになりますか?』
その質問で、また
あまねちゃんの目に光が生まれた。
『会えるのですか?!』
『はい。』
『会いたいです!』
『心依架様。ご指示をお願いします。』
『おひめさま!おねがいします!』
えぇっ。
さっぱり、分かんないよぉ。
・・・・・・でも、
会えるってことなら・・・・・・
「・・・・・・“心”っ、よろしくっ。」
ここは、乗らないとダメっしょ。
『任せてください。少々お待ちを。』
光の粒が、画面から大量に溢れ出てきた。
あまりの眩しさに、目を閉じてしまう。
『・・・・・・お父さん!』
喜び溢れた声が、響く。
ゆっくり瞼を上げると、あまねちゃんは
現れた誰かに抱きついていた。
『どこに行ってたのっ?
ずっっっと、さがしてたんだよっ?』
『あぁ・・・・・・すまなかった。
よく頑張ったね。』
あまねちゃんを、しゃがんで包み込む
その人は、とても優しい笑顔を浮かべている。
・・・・・・この人が。何で。
一体何が彼を、狂わせてしまったのだろう。
『お父さん!きれいなおひめさまが
たすけてくれたの!すごかったんだよ?!』
彼の目が、自分へ向けられる。
ちょっと、緊張。
『弥と付き合ってもらって、ありがとう。』
とても優しくて、柔らかい笑顔。
そして丁寧に、お辞儀まで。
「い、いえ・・・・・・」
『良ければまた、この子に
会いにきてもらえないか?
こんなに喜んで嬉しそうなのは、
入院して初めてで・・・・・・』
「・・・・・・」
この頃、あまねちゃんは入院していて
この人は、付き添っていた。
恐らくだけど、あまねちゃんが生きている時
この人は、普通のパパだったんだ。
狂ったように、研究一筋ではなかった。
狂わせたのは、やっぱり・・・・・・
あまねちゃんが、亡くなってからだと思う。
「はい。会いにいきます。」
『良かったね。弥。』
『うん!・・・あっ、お父さん!これ!』
彼女が大事そうに抱えていた野草と花が、
無事に渡される。
それを受け取った彼は、
ホントにいい笑顔で。
『いつもありがとう。』
『えへへっ』
今何となく、二人を撮りたい気分。
「・・・・・・良ければ、
二人を撮らせてもらっても構いませんか?
自分、撮るのが趣味で。」
『撮る、というのは・・・・・・えっ。
それ、カメラなのか?驚いた・・・・・・
素晴らしい物を持っているね。』
『しゃべるんだよぉ!』
『えっ?!それはすごい!』
「あ、あははは・・・・・・」
スマホがなかった時代、なのかな。
だよね。多分。
『是非、お願いしたい。
焼き増ししてもらう事は、できるかね?』
「焼き増し?・・・・・・えっと、はい。」
アナログ時代、エモい。
『宝物にするよ。ありがとう。』
・・・・・・
なんか、いいな。こういうの。
「じゃあ、撮りますね。」
『弥。お姫様に向けて、
とびっきりの笑顔だよ。』
『はーい!』
この瞬間が現実で、留まることはないけど。
せめて、この時だけは。
二人を、幸せにしてあげたい。
ぱしゃり。
撮った瞬間、
とびっきりの笑顔を浮かべる二人の身体から
大量に、光の粒が溢れ出した。
『うわぁぁ~いっ!きらきら~っ!』
『これは、素晴らしい・・・・・・!』
やるじゃん。“心”。
『お父さん!楽しいね!』
『はははっ。そうだね。』
ぱしゃり。
わっ。とってもいいの撮れた。
これは、確実に保存っしょ。
『さぁ。名残惜しいけど、体に障るから
もうそろそろ帰ろうか。』
『えーっ?・・・・・・はーい。』
二人は手を繋いで、並んで歩いていく。
『おひめさま!バイバイ!またね!』
『素敵な時間を、ありがとう。』
大きく手を振るあまねちゃんと、
柔らかな笑顔で会釈する要さん。
とても、幸せそう。
姿が見えなくなるまで、手を振り返した。
「・・・・・・これで、良かったんだよね・・・・・・」
ほっこりしただけなんだけど。
これから、どうなるんだろ。
目が覚めたら、日常が待ってるんだよね。
白夜と一緒に、過ごせるんだよね。
自分も、早く帰りたいな・・・・・・
こんこんこん。
とある医局を訪ねる
そのノックは、少し慌ただしい。
「どうぞ。」
なので、医局の主は
躊躇いなく返事をして、迎え入れた。
「先生。火の手は何とか無事に、
消し止められたようです。」
「・・・・・・そう。良かった。」
綺麗なマッシュボブの黒髪が、
少し乱れている。
緊急に、ここへ知らせに来たのだろう。
「それと・・・・・・二人が、戻りました。」
戻ってきた。
その言葉に、彼女は頬を緩ませる。
「それが、一番良い知らせね。」
彼女は、椅子から立ち上がった。
―長いようで、短い。
ここまで来るのに、様々な困難があった。
同時に、かけがえのない出逢いと別れ、
そして固い絆が生まれた。
その上で。
新たな道が、築かれようとしている。
また、思いも寄らない苦難の波に
呑み込まれる事になるだろう。
しかし。
それも、光ある未来への一歩。
乗り越えてこそ、見渡せる景色がある。
忙しい事は、有難いことね。
過去の闇に浸る、暇もないから。
・・・・・・
身体が動かなくなるまで。
この目が、見通せる限りは。
しっかり、働かせてもらうわ。




