光差す方向への指針
10
午後2時を迎えたと同時に、
官房長官による異例の緊急会見は行われた。
国中、いや、世界中から注目を浴びたのは
言うまでもない。
数年前に明るみとなった
財団法人『Lotus』の非人道的な活動内容。
そして、代表である理事長逮捕のニュースは
世間に衝撃を与え、反響を呼んだ。
冒頭は、この事件を踏まえて始まった。
彼らが残した、拭いきれない負の連鎖。
バイオテクノロジーの権威・“佐倉井 要”が
発端になったという事実。
そして、数十年前に起こった
“連続神隠し事件”の要因。
とある研究の為に、年端も行かない命が
奪われ続け、実験と実施が
繰り返されていたのだという。
“人を培養土にする植物”。
長年にわたる様々な犠牲は、皮肉にも
研究の裏付けに導いてしまったのだ、と。
今まで公開に至らなかったのは、
結論に辿り着かず掴めない事実が
皆を混乱させ、誤った知識で判断しかねないと
危惧していた為である。
未だ誰も、“佐倉井 要”が見渡していた領域に
辿り着いていないという、現実。
それは包み隠さず、告げられた。
今我々ができるのは、
その植物の脅威を抑制する薬で
対応するしかないという事。
そして万が一、その種子と
発芽した者を発見した場合には、
決して触らず、速やかに警察へ報告する事。
開花しなければ人体に問題はないと、
はっきり明言した。
一通りの、官房長官の話が終わった後
様々な質疑が投げ込まれた。
皆が最も聞きたかった事は、
“国の所有区域”との関係だったに違いない。
故人のせいにして、実験を繰り返していたのは
国自身なのではないか。
抑制する薬を作成できたのは
その背景があって、
関連性が深いのではないか。
樹海の植物なのではないのか。
今すぐ開放して、調査すべきではないのか。
投げ込まれる意見に対し、官房長官は
“国の所有区域”との関係はないと
強い口調で突き放した。
全ては、“佐倉井 要”から始まっている、と。
バイオテクノロジーを持って生み出した、
人為的植物なのだと。
大きな混乱の中、緊急会見は
30分で打ち切られた。
心依架は、帰宅途中の電車内で
それを確認した。
一番気になったのは、
“常世”という世界が存在する事実が
告げられなかったところだ。
白夜の口癖ではないが、
“言葉にするのが難しい”からなのか。
確かに、“あの世界”を説明するのは
無理難題だとは思う。
実際に行ってみないと分からないだろうし、
信じる事はできないだろう。
でも。
元々は、“あの世界”で存在する植物なのだと。
どう具現化したのか
自分の頭では理解できないが、
それと繋がっているという事を
告げる必要が、あったのではないのか。
隠さなければならない事情が
あったとはいえ、“あの世界”をなくして
事実を語れないのでは、と。
すっきりしないまま、マンションへ帰宅した。
「ただいまー。」
白夜がまだ帰宅していないのは
分かっているが、玄関先で迎えてくれる
フィカス・アルティシマに向けて
呼び掛ける。
滲んだ汗をハンドタオルで拭き取り、
心依架は真っ直ぐリビングへ向かった。
肩に掛けている、結構な量の食材で
パンパンになったエコバッグを、
カウンターキッチンのテーブルに置く。
そしてすぐに、エアコンを点けた。
今日は早めに仕事が終わったので、
自分が晩御飯を作ろうと思い立ったのだ。
今朝出掛ける前に、彼から
帰りは遅くなると言われているのもあった。
いつもは、彼の方が先に
帰宅していることが多い。
だから自然と、彼が用意してくれている。
有難い事なのだが、自分の料理の腕前が
上がらない原因になっているような。
―まよごんからのおススメ料理動画に、
めっちゃ美味しそうなやつあったんだよね。
茄子と豚肉の甘辛炒めと、
山芋とオクラのネバネバサラダ。
これに、レタスと根菜がたっぷり入った
豆腐のお味噌汁。
料理初心者にとっては、手頃で
満足感が得られるレシピ。
これで、彼に“美味い”と言わせよう。
意気揚々と、念入りに手を洗う。
―疲れて帰ってくるだろうから、
温めてすぐ食べれるように作っておこう。
どのくらい遅くなるのか分からないが、
明日は仕事が休みなので
食べずに待っていようと考えていた。
お腹空いて、どうしても我慢できなかったら
真世心の兄・渉が試作したパンを
貰っている。それを食べようと思った。
ネーミングは考え中で、とりあえず
“ブルーベリージャムの絹どけサンド”
と、なっている。
とある農家さんがこだわり抜いて作った、
大粒ブルーベリー。
それを直接卸せるように、拝み倒したらしい。
甘みと酸味がバランスよく、
本来の甘酸っぱさが引き立つように
程よく煮詰めてジャムに。
それを、極限まで低音で焼成した
ほろりと解ける白パンに挟んでいる。
―もう、聞くだけで美味しそう。
白パンの形は丸くて、自分の手の平くらい。
とっても、ふわもちしっとりなのが分かる。
結構ジャムの量は多いけど、
しっかり受け止めている。
食べ進める後ろから漏れないようにと、
半分だけ切っているところ。
渉の細やかな心遣いが、表れている。
―まよごん兄さんの良さも、
コメントしちゃおう。
晩御飯を作り終えた後、心依架は
バスルームに向かいシャワーを浴びた。
夏場は、湯船に浸からない。
疲れが取れるとは思う。でも、
代謝が良すぎるのか汗が止まらなくなる。
洗い流してスッキリした後
リビングに戻り、ソファーに腰を下ろして
ひと息ついた。
白夜がいない時は、ここを占領できる。
足を伸ばし、寝転んでスマホを扱い出す。
彼からの連絡は、まだない。
もう、21時を過ぎている。
しばらく寛いでいたが、流石に空腹すぎて
ソファーから起き上がった。
冷蔵庫から、作っておいた
アイスティーのボトルを取り出して
グラスに注ぐと、
カウンターテーブルの上に置いていた
ブルーベリージャムの絹どけサンドへ、
手を伸ばす。
―遅いなぁー・・・・・・
今夜は、前例にないくらい帰りが遅い。
服装も、どちらかというと
綺麗めな格好だったような。スーツだった。
―カッコいいから撮っちゃったけど。
今考えると、ホストっぽかったかな・・・・・・
副業、始めたわけじゃないよね。
実を言うと、家計に関する事は全て
彼が受け持っている。
勿論自分の稼ぎを渡そうとしたが、
それを一切受け取らないのだ。
日用品、食費においても、同じである。
今回の晩御飯に関しては、
自分のポケットマネーから出しているが。
“今まで通り、穂香さんを支えてあげて。”
その言葉通り、稼ぎの三分の二を
穂香に渡している。今まで通りだ。
でも、もし、結婚ってなったら・・・・・・
このままでは流石に、厳しいのではと思う。
―だとしたら、朝から出勤しないだろうし。
・・・・・・
昨日の件もあるし、多分本業だよね。
ソファーに戻り、冷たいアイスティーで
潤わせた後、パンを口に運ぶ。
「うまぁっ」
―口に出ちゃうくらい、美味しい。
店頭に並んだら、イチオシにしよう。
感じたままの言葉を
コメントできるようになったのは、
調べて覚えていった成果かもしれない。
―これ、アイスティーに
めっちゃ合うじゃん。
それも、付け加えとこ。
従業員イチオシとして、ラインナップには
コメントを付けている。
これがあるのとないのでは、売れ行きが違う。
コメントも作って、新商品は準備万端。
晩ご飯も無事美味しいのができたし。
喜ぶか分からないけど、
通販で見つけて購入した
可愛めの部屋着を着ている。
―自分で癒されてほしい、なんて
ちょっと攻めすぎかもだけど・・・・・・
笑顔になってくれたらいいなって。
疲れすぎて、スルーされるかもだけど。
その時は、機嫌悪くならずに
たくさん労ってあげよう。
そう、思っているけど・・・・・・
―・・・・・・・遅すぎっしょ。
もう、22時だ。遅くなるとは聞いていたけど、
一報くらいしてもいいのでは。
連絡なく帰りが遅い夫の、主婦の気持ち。
少し分かる気がする。
ママも、こんな気持ちだったのかな。
流石に、浮気はないと思うけど。
・・・・・・思いたい。
―・・・・・・連絡してみよっかな。
連絡するのは、別にいいよね。
メールではなく、通話を試みた。
すると、コール音ではなく
電源が入っていないか、圏外の為
お繋ぎできませんという声が返ってくる。
これには、不安になった。
圏外というのは、予想していなかった。
スマホの故障?
電源を切っている?
―・・・・・・えっ。何で繋がらないの?
通話に出られない状態というのなら、
まだ分かる。でも、圏外というのは・・・・・・
―・・・・・・大丈夫、だよね?
繋がらないというのは、今までにない。
念の為、栞にも連絡を試みた。
同様に、電源が入っていないか圏外の為
お繋ぎできませんという言葉。
二人とも、同じだ。
事故・・・・・・とか、考えたくない。
でも、同じ状態だという事は
二人とも、同じ場所にいる可能性が高い。
揃って圏外とか、あり得ない。
急に、居ても立っても居られなくなる。
このまま、寛いでいていいのか。
でも、どうしたらいいのか分からない。
心依架は、ソファーから立ち上がる。
―考えたくはないけど、可能性として
ないとも言えない。
事故か、圏外の場所にいるか、
電源を切っているか・・・・・・
自分の知らない事情が、二人にはある。
入り込めない領域というか。
仕事上だとはいえ、絆は固い。
男女だし、気持ちが芽生えたり、とか・・・・・・
こんな疑い方、したくない。
そういう目で見てしまう自分は、ホントに
経験不足だし、見極める力が
足りないのだと思う。
そう思うのは、これが初めてじゃない。
その度、勘違いだったという罪悪感が
ハンパなく押し寄せる。
でも例え、そうじゃないとしても。
このまま何も知らないっていうのは、嫌だ。
秘密事項だというのなら、尚更。
知りたい気持ちを抑えてきた分、
溢れて歯止めが効かない。
「・・・・・・でも、
どうしようもないじゃん・・・・・・」
彼が手掛けるプロジェクト。
彼が所属する組織。
それを共にする、彼女との関係。
詳しい事情を知らないという状態が、
少しずつ、受け入れられなくなっている。
「・・・・・・ホント、やだ・・・・・・」
自分が嫌になる。
嫉妬からくるものだって、分かっている。
どうして自分は、こうなのか。
全部自分に向かせないと、
気が済まないのか。それって、重いってば。
分かっているのに。
ソファーに、沈み込む。
自分の物差しで、人を判断するなんて。
“言葉にするのは難しい”という、彼の言葉は
その先入観が邪魔をするからだ。
本人にしか、分からないのに。
通じ合っていると、傍にいる時は
実感できても、少しでも離れたら
不安になるのって、どうにもならないのか。
ホント、やだ。
「・・・・・・今日の内に、帰ってくるかな・・・・・・」
ごろんと、仰向けになる。
「帰ってくると、いいな・・・・・・」
―このリビングには、色彩がない。
彼が好きな色は、黒。
自分が好きな有彩色は、まだ
どこにも置かれていない。
一つずつ、増えていくといいな。
「白夜・・・・・・」
―どんな時でも。どんな事があっても。
彼の心に、少しでも
自分の色は、置かれているのかな・・・・・・
*
何や、“あれ”は。
今見とるもんは、異常やで。
特殊ゴーグルで見えとるもんかて、
こんなもんが、こんな所に生えとんのは
・・・・・・
ほぼ条件反射で、先に歩いていた
由梨の腕を引っ張った。
抱き留めて、木の影に隠れる。
「・・・・・・何?
一体、どうしたってわけ?」
こいつは、気づいとらんみたいや。
変な風ってのも、吹いとらんのか。
「・・・・・・ちょっと、黙っとき。」
これ以上近づいたら、マズい気がする。
“あれ”に視線を向けて黙り込む俺を、
由梨は黙って見つめている。
調査に出掛ける前。貪るように、
こいつの温もりを味わった。
思った通りやった。中毒性、あるわ。
あれだけ味わったのに、もう飢えとる。
罪な女やで。ホンマ。
「・・・・・・無事に帰ったら、ご褒美もらうで。」
「・・・・・・は?」
やっとの思いで、手に入れたんや。
まだまだ足りひんわ。
「無事に帰れたらの話やけどな。」
このまま、引き下がれんやろ。
先生が探してたもん、きっと、“あれ”や。
「・・・・・・何か、見つけたってこと?」
「あぁ。ヤバい。」
「スコープで確認する。」
「二時の方向や。」
由梨は手際よく、背中に装備していた
ライフルを外して、構える。
「・・・・・・確かに、ヤバいね。」
「急所、あるんやろか。」
「切り倒すか、燃やせばいいんじゃない?」
正論やな。採用や。
久しぶりに、ヒリヒリするわ。
*
“選ばれし生贄”。
狂気としか言い様がないその名誉は、
生まれた時から既に始まっていた。
自分の意思と関係なく。
家柄。血筋。恐らく全てを備えていたが、
“それ”のせいで、何もかも無意味に思えた。
生きる事も。感情も。
与えられた、自分の名前さえも。
無くても良かったのではと思う。
生きる意味はない。
どうせ、死ぬのだから。
唯一、全てを忘れられる時間があった。
綺麗に咲き誇る、桜。
瑞々しい、新緑。鮮やかな紅葉。
真っ白な雪化粧を纏う、木々たち。
眺めていると、溶け込んだ。
語り掛けてくる彼らは、朗らかで。
話していると、とても癒された。
その中、囁かれる“彼の方”の事を知った。
“彼の方”は、かなり恐ろしいお方だ。
どんなものも、全て飲み込んでしまう。
“月”を好んで喰らうのは、
世界を統べる力を生み出す為だと。
飲み込まれた者は、森羅万象に組み込まれず
永遠に、“彼の方”の一部となって生きるらしい。
皆恐れ、震えながら教えてくれた。
でも自分は、違う捉え方だった。
もう自分という魂は、跡形も無くなる。
人としての感情を抱かずに済む。
何も考えず永遠に、
“彼”の一部として生きられる。
それって、素晴らしい事なのでは。
そんな風に考えていた事を、
誰にも打ち明けなかった。
狂っている。憐れだ、という目でしか
見られないから。
皆、生きるのに必死なのは
何故なのだろう。
そう思うことが既に、
おかしいのかもしれない。
きっと自分は、何かが足りないのだ。
選ばれたのが、自分で良かった。
“現”に存在する方が、苦痛だった。
争いが絶えない場所で生きるしかないなら、
もう消えてしまいたいと。
心底から、思っていた。
適齢とされる歳が来て、自分は
“彼の方”の化身とされる獣に
差し出された。
痛みは、無かった。あっという間に、
“彼の方”がいる“常世”へ辿り着いた。
何も映らない、暗闇。
“彼の方”の領域なのだと分かって、
すぐ飲み込まれるのだと思い込んでいた。
でも、いくら待てど
“彼”は、自分を飲み込もうとしない。
【面白い】としか、言わない。
弄んでいるのか。それにしては、
自分を大切に扱ってくれる。
温かく包み、自分の中に宿る“月”を
喰らうものの、微量だった。
意念を、しっかり保てる程に。
分からない。
生まれて初めて、疑問を抱いた。
『どうして、私を飲み込まないの?』
素直に聞いた。
【お前は、生かす方が面白い。】
答えは、首を傾げるものだった。
『どこが、面白いの?』
【お前は恐れを知らぬ。常人なら、
持って生まれる感情が、疎い。】
『・・・・・・だって、貴方は優しいし
怖いとは思わないわ。』
そう言葉を返すと、決まって
ふわふわな黒い毛玉の身体を揺らした。
【そう勘違いする箇所も、面白い。】
暇つぶしに、自分の反応を楽しんでいる。
当時は、そうとしか考えていなかった。
ふわふわに揺れる姿は、可愛いとしか。
聞いていた様子とは、全く違う。
“彼”と、どのくらい過ごしたか分からない。
時間という概念もなく、ただ共に
“常世”を散歩していた。
自分が好きな自然を、眺める日々。
“彼”と他愛ない話をして、笑って。
“現”の喧騒から離れた、
静かで穏やかな空間。
ずっとこのままでいいと
思えるくらいに、幸せだった。
“彼”は温かく、穏やかで優しい。
恐ろしいなんて、少しも思わなかった。
姿形が人と、かけ離れているからなのか。
“全てを飲み込む”というのは誇張で、
理由なく飲み込む事なんて、ない。
自分の中に灯る、温かい光。
ずっと、一緒にいたいと思う気持ち。
これが愛なのだろうか、と。
“彼”に、飲み込まれたい。
永遠に、一部でいられるなら。
その願いは、強くなった。
【御影。】
ある時、“彼”が
私の名前を呼んで包んだ。
【お前は、もう一度
人として生きるべきだ。】
その意見に対し、首を横に振った。
『それって、貴方を忘れて
“現”に戻るということでしょう?
そんなの嫌よ。』
【我の事は、忘れてよいのだ。】
『どうして?なぜ、そんな事を言うの?』
忘れていいなんて、思わない。
離れたくない。
【我もお前と共に、眠りにつく。
誰一人、我の生贄として脅かす事は
もう、ない。
我の事を忘れ、平穏な世の中が来るまで
・・・・・・お前も眠れ。】
『嫌っ。貴方を、忘れたくないっ』
【お前は、生きるのだ。御影。】
『嫌っ!戻りたくないっ!』
貴方と一緒に、いたい。
離れるなんて、嫌。
全身全霊で訴えると、“彼”は
大きな口(?)を閉じた。
駄々っ子になるのも、初めてだった。
ないものねだりをするのは、
最初で最後だったと思う。
顔とも分からない黒い毛玉を
しばらく見つめていると、ようやく
重く響く声を紡いだ。
【我がしている事は、気まぐれだ。
我儘でしかない。
・・・・・・お前がいなくとも、これからも
飢えを満たす為に、月を喰らう。】
我儘なのは、私よ。
【我に人の感情というものは、ないのだ。】
嘘。
月を喰らう以上、感情は流れてくる。
それは共に、一部となる。
貴方が人間らしいのは、それがあるから。
そう言葉に紡ごうと思ったが、止めた。
自分の中に生まれた愛は、どうなるのか。
飲み込んで、一部になれば
その想いも届くのだろうか。
そうだとしたら、尚更飲み込まれたい。
貴方の中で、永遠に自分の愛が
残るということだ。
こいねがう。一縷だとしても。
【・・・・・・そうだ。御影。
最期に、膝枕というものをしたい。】
最期なんて、言わないで。
『黒い毛玉じゃ、できないわ。』
精一杯の強がりな言葉を、ぶつけた。
【・・・・・・成程。人同士限定なのだな。】
少し残念そう。
それが、笑いを誘った。
笑っている場合じゃないのに。
【何を、笑っておる?】
怒らせようと思ったのに。
『ふふふっ・・・・・・
どうして、膝枕がしたいの?』
最期に強請るものが、膝枕なんて。
【これを施した女たちの記憶は、
相手に優しい感情を抱いておる。
恐らく、母性、というものなのだろう。
どの様なものか・・・・・・味わいたい。】
母性。確かに、それは
当たっているのかもしれない。
『・・・・・・貴方って、小さくなれるのかしら。
私の膝上に、乗るくらいまで。』
【・・・・・・自由自在だ。】
大きな毛玉が、
みるみるうちに小さくなる。
ふわりと彼は、自分の膝上に乗った。
不思議な事に、それが
堪らなく愛おしく思えたのだ。
『・・・・・・こうして、
見下ろしながら愛でるの。』
撫でるように、毛玉に触れた。
温かい。
この温かさは、“彼”そのもの。
この温かさが、とても愛おしい。
【・・・・・・うむ。悪くない。】
『・・・・・・』
【・・・・・・お前の笑顔は、我に
安らぎと和みを与える。
それを味わえて、眺められるのは・・・・・・
何とも、良きものだ。
もっと早く、強請るべきであった。】
このまま、ずっと、
こうしていられたらいいのに。
【・・・・・・良い眠りにつけそうだ。】
『・・・・・・』
涙が、溢れた。
受け入れたくない。
このまま目を閉じたら、
貴方を忘れているなんて。
傍に、いないなんて。
“彼”を忘れて生きるなんて・・・・・・
私には、耐えられない。
“彼”は、私を還した。
もう一度、人として生きる事を・・・・・・
人としての幸せを、噛み締めさせる為に。
こうして、また。
“彼”を思い出して傍にいられるのは、
百夜のお陰。あなたのお陰。
感謝しているわ。心依架。
今度は私が、あなたを助ける番。
百夜は、私とよく似ている。
自分を、消したがっている。
それは、生まれ育った環境、
取り囲む者たちが彼を抑えつけ、
彼自身を認めなかった背景がある。
だから、“彼”を
“受け入れたがっていた”。
受け入れれば、自分の存在が保てると。
他者になる事で、
生きなければならないという使命感を
抱き続けられ、皆の役に立てる、と。
そして、“選ばれし生贄”への罪滅ぼし。
一族の汚点を拭いたいという、切なる願い。
それが、揺るぎない原動力になっていた。
結果、私を目覚めさせて
“彼”の元へと導いた。
自ら犠牲になる事で、
存在価値を見出そうとしていた。
そんなもの、必要ないというのに。
命があるというだけでも、
素晴らしいというのに。
彼は、あなたと一緒にいる事で。
やっと少しだけ、自分自身と
向き合う事ができている。
彼の全てを、包んであげて。
あなたがいるから、彼は
進むことができるのよ。
確かめ合えなくても。
深く刻まれた想いが、教えてくれる。
曇った心が、晴れ渡っていくから。
ゆっくりと、心依架は瞼を上げた。
いつの間にか、ソファーで
寝落ちしていたらしい。
頬が、濡れている。
涙が、溢れていた。
「・・・・・・“御影”・・・・・・」
“彼女”の身の上に、起こった事。
それを、教えてくれたんだ。
しくしくと痛む、胸の奥。
きっとこれは、“彼女”が抱えているもの。
自分という存在を、認めてもらえず。
告げたところで、
理解してもらえるわけもなく。
消えた方がいい。
消えてしまいたいと、思うしかなくて。
それが、白夜と似ている、と。
“彼女”は、そう言った。
「・・・・・・白夜・・・・・・」
百夜という名前を遠ざけるのは。
彼にとって、唯一の
防衛だったんだと思う。
それが、何となく分かっているから
自分は、“白夜”と呼び続けるんだ。
今、自分に必要なのは。
彼を、真っ直ぐに想う時間。
それが、きっと。
彼を、笑顔にさせる事に繋がる。
スマホで、時刻を確認した。
0時を迎えようとしている。
涙を拭い、小さく息をついて
立ち上がった直後。
ピーンポーン、という音が響いた。
ビクッと、心依架は身体を震わせる。
―びっくりしたっ・・・・・・
えっ・・・・・・?
白夜だったら、鍵持ってるし
鳴らさず入ってくるよ、ね?
・・・・・・えっ。誰、だろ。
こんな時間に、訪ねてくるなんて。
訪問者は今まで、栞しか会っていない。
多分彼と一緒にいるだろうし、
わざわざ鳴らすわけがない。
だとしたら。誰なのか。
戸惑う中、再度
ピーンポーンと鳴った。
―・・・・・・ママ、かな?
・・・・・・違うか。ママだったら、
スマホで連絡してくるだろうし。
・・・・・・ちょっと、怖いけど。
出るしかないっしょ。
こんな時間に訪ねてくるっていう事は。
白夜に緊急で会いたいか、
緊急の用事があるのかもしれない。
自分が知らない、彼の親しい人とか。
伝言くらいなら、引き受けられる。
「・・・・・・はい。」
緊張しながら、インターホンに出た。
モニターから窺えたのは、
見ず知らずの、女性。
切れ長な目元は、誰かに似ている気がした。
《こんな時間に急な訪問、不躾で
申し訳ありません。前もって、
お伺いできれば良かったのですが・・・・・・》
告げる口調は、凛として淀まない。
《私は、白夜さんの叔父にあたる
蔵野 恵吾の部下で、
佐川 ゆりと申します。》
―叔父さまの、部下・・・・・・?
しかも、“させん”という
読み方が珍しい名字。
目を見開くことしか、できなかった。
《どうか、開けてもらえますか?》
開けるも何も。
その名前を出されて、無理とは言えない。
ドアチェーンを外し、
迎え入れるように大きく開けた。
吹き込む、爽やかなシトラスの香り。
玄関に置いているフレグランスと、
相性が良い気がする。
ゆりは、中に入ろうとはせず
丁寧にお辞儀をした。
吸い込まれるように目が合うと、
彼女は微笑みを浮かべる。
「・・・・・・初めまして、心依架さん。
あなたの事は、彼からよく
伺っています。」
―そう。目元が、マナさんと似てる。
妹がいるというのは、聞いていた。
ただ、蔵野の部下だとは
知る由もなかったのだ。
栞とは違うタイプの、美人。
一見、普通のパンツスーツ姿に
ナチュラルメイクだけど、洗練されている。
「あの、一体、何が・・・・・・」
あまりにも、突然すぎる。
何があってここへ来たのか、分からない。
しかも白夜が、自分の事を
彼女によく話していたというのは。
「唐突かもしれませんが、これから一緒に
付いてきてもらえますか?
・・・・・・話は、その時に。」
普通なら、躊躇うところだ。
しかし、彼が不在という事と
このタイミングで訪ねてきたという事に、
緊急性が高い気がした。
彼女の口調は穏やかだが、
有無を言わせない迫力がある。
もしかしたら、白夜が帰ってこないのは
本当に何か、あったのではないだろうか。
「あの・・・・・・
ゆりさんって、呼んでもいいですか?」
「はい。構いません。」
「彼に、何かあったんですか?」
「・・・・・・会議の為、
あなたを迎えに行けない状態なのです。
穐枝さんも、同席していまして。」
事故とかでは、なかった。
それを聞いて、ほっとした。
ただ、彼女が自分に対して敬語なのは
ちょっと落ち着かない。
「・・・・・・会議って、プロジェクトの?」
「はい。長引いているようです。
もうそろそろ、終わると思います。
本当は、蔵野が出向く予定だったのですが
同じ会議に出席しておりまして
・・・・・・代理として、私が。
度重なる御無礼を、お詫び致します。」
本当に、丁寧すぎる。
初対面とはいえ、自分に敬語を使われるのは
違和感がある。
「そんな、えっと・・・・・・
敬語じゃなくて、いいですよ?」
そう伝えると、彼女は顔を綻ばせた。
笑顔が、とても素敵な人である。
「ふふっ。落ち着かないかもしれませんが、
慣れていただけると幸いです。」
その理由に、首を傾げた。
曲げない礼儀正しさは、どうして。
気にはなったが、
“蔵野が出向く予定だった”と言われた事を
思い出して、話を切り替える。
「・・・・・・蔵野さんが、何で自分を?」
「彼だけではなく、一同、あなたを
お迎えしたいと思っております。」
「一同・・・・・・?」
ゆりは、静かに頷いた。
心依架は詳しく尋ねようとしたが、止める。
ここで、立ち話をしている場合じゃないかも。
わざわざ彼女が
ここへ出向いたという事は、
時間が限られているのかもしれない。
迷っている暇は、ない。
―とにかく、白夜がいる所へ
行けるって事だよね。
それは、とても有難い事だった。
今すぐにでも彼を、包んであげたい。
「えっと、あの、すぐ準備します。
リビングで、お待ちいただけますか?」
「いえ、ここで待ちます。
・・・・・・着替えず、
そのままでよろしいと思いますよ。」
微笑みながら、告げられた。
「とても可愛いですから。
きっと、喜ばれると思います。」
「えっ・・・・・・?」
今着ている、可愛めの部屋着。
それを纏った自分の意図を、
彼女に見抜かれている気がした。
それが恥ずかしくて戸惑っていると、
更に彼女は微笑む。
「是非そのままで、行きましょう。」
背中を押されたような。
彼女の物腰は柔らかいが、
どことなく芯の強さを感じる。
真っ直ぐ綺麗に伸びた姿勢は、
それを表しているように思えた。
ゆりと共にマンションのエントランスを抜けて
外に出ると、迎えるように
白い乗用車が停まっていた。
運転席には誰かが座っていたが、彼女は
何も言わずに後部座席のドアを開ける。
「どうぞ。」
促されて、素直に乗り込んだ。
続いて彼女も乗り込んで
ドアを閉めると、運転手は
何も言葉を発さず振り向かずに、会釈をする。
腰まである真っ直ぐ綺麗な、飴色の髪。
雰囲気からして、女性のようだった。
車は、緩やかに発進する。
「これから向かう場所、見聞きする事、全てが
受け入れ難い内容だとは思いますが
承知の上で、お伝えいたします。」
車内というのは、密室性がある。
外観から隔たれた空間と
真っ直ぐ向けられるゆりの眼差しに、
心依架は緊張感を覚えた。
「今から向かう場所は、私たちの組織
『Migratory Bards』の本拠地です。
会議が行われている場所は、
その敷地内にあります。」
「・・・・・・
『Migratory Bards』・・・・・・?」
聞き慣れない単語で、思わず口にする。
「簡単に言えば、国の隠密組織。
日常を暮らす人たちの目に触れず、
動く者たちの総称です。
様々な形で存在する為、
はっきりは申し上げられませんが・・・・・・
蔵野は、その組織を総括しています。」
想像していた範囲を、遥かに超えていた。
彼から、国に関わる組織だとは
多少聞いていたが、
そんなに直結しているとは思わなかった。
「白夜さんは、ご存知の通り
とあるプロジェクトの筆頭である上に、
自ら動いて調査をしていました。
穐枝さんも、その一人です。
・・・・・・プロジェクトの内容も、
ご存知ですよね。」
頷く事しか、できない。
「彼らは、重大な決断を下そうとしています。
それに、国側が頷くか・・・・・・
今、その瀬戸際だと思います。
決断に至ったのは、
例の花の、狂い咲きしていた要因が
明らかになった為です。」
「えっ?」
それは、一言も聞いていなかった。
「原因が、分かったんですか?」
「はい。明らかになってまだ
間もない事と、会議中という事もあって
恐らく彼は、あなたに知らせる事が
できなかったと思います。
どうか、ご了承ください。」
誤解を招かないように、という
気持ちが伝わる。
ゆりの言い分に隙はないが、先程から
少し引っ掛かっている事がある。
これから起こる出来事のように、
話しているような。
しかもそれが、
決定しているというように淀まない。
自分の心中を察したのか、彼女は
詫びるように頭を下げた。
「・・・・・・私が何者であるか、
告げずに申し上げました。
理解していただけるという頭が
ありましたので・・・・・・」
「い、いえ、その・・・・・・
謝らないでください。」
低姿勢な上に
意味が分からず詫びられても、困ってしまう。
「私は、未来を読む事ができます。」
「・・・・・・えっ?」
「幾多の道を、見通す事ができるのです。
・・・・・・この力は、生まれつきで。
ここでは、『易者』として動いています。」
未来を、“読む”。
未来を、“見る”、ともいうのか。
どちらにしても、掴めない。
「幾多の道がある中、最善を導く事。
それが信条だと、ある時まで
歩んできました。
ですが、個人の色は様々で、
最善だと思っていても
その人にとっては違う事があります。
・・・・・・命が、かかっていても。」
目を伏せがちで紡ぐ彼女の言葉は、
本音のように響いた。
その様子を、心依架は黙って見つめる。
彼女が見据えて歩いてきた人生は、多分。
悲しい事ばかりだったのかもしれない。
「それでも、その人にとっては
悔いがないという事も、知りました。
ようやく理解できて、
今の道を歩み続けています。」
素敵な微笑みができるのは、
それを乗り越えたからなのかな。
彼女の笑顔に、陰りはなかった。
運転手と車は、
後部座席にいる二人の邪魔をしないように
静かである。
「・・・・・・すみません。話が逸れました。
あなたを迎え入れようと決めたのは、
狂い咲きの要因が明らかになってからです。
・・・・・・危ない架け橋を渡る事に、
なると思います。」
真剣な表情で告げる彼女を、
真っ直ぐに見据える。
「白夜の傍にいられるなら、
何があっても大丈夫です。」
―強がっているわけではなく。
本心から、そう思う。
心依架の眼差しと紡いだ言葉を受け止め、
ゆりは頷いた。
「あなたの意思に応え、最善を尽くします。」
―手を取り合えるなら。
どんな事も、乗り越えられる。
車が走り続けること、約10分。
辿り着いた先は、心依架にとって
意外な場所だった。
生い茂った樹海を囲む、コンクリートの壁。
そして、周りの近代的な外観とは
アンバランスな、大きい鉄の門。
過去に、側を通ろうとしたことはあるが
飛び交う噂のせいで、
近寄る事を諦めた記憶がある。
国の、所有区域目前だ。
深夜だからなのか、
厳重なセキュリティが作動しているのか、
生き物の体温を感じる気配がない。
「降りましょう。」
車窓から眺めたまま動かない心依架を
促すように、ゆりは声を掛ける。
「会議って・・・・・・その・・・・・・」
樹海の中で行われている、とは
言いませんよね?
目で訴えると、彼女は真面目に頷いた。
「組織の本拠地は、樹海の中にあります。
・・・・・・ですが、
普通に踏み入れても、辿り着きません。」
言われている事が、既によく分からない。
「『家』の者だけに、門は開きます。
道しるべも。」
先に車から降りる彼女を
戸惑いながら目で追っていると、
空気のように佇む運転手に気づく。
会釈をしたら、飴色の髪が揺れた。
ドアを開け、外に出ると
幾分涼しい風が舞い込んだ。
降りてドアを閉めると、車は
静かに発進する。
LEDの灯りが、遠ざかっていった。
無機質なコンクリートの壁と
錆びた鉄の門は、暗闇の中で見ると
威圧しているように思える。
電灯もなく、静けさしか漂わない所で
一体、どうするのか。
ゆりの行方を目で追っていると、彼女は
大きな鉄の門の前まで歩いていき、立ち止まる。
腕が上がり、手が門に触れた。
いや、それで開くわけが・・・・・・
と見守っていると、
ぎいぃぃぃ・・・・・・と音を立てて
重々しく、ゆっくり開いていく。
その光景に、心依架は目を丸くさせた。
監視カメラらしきものも、守衛らしき人も
見当たらないのに。
「『家』まで、少し歩きます。」
開いた先に広がる、黒い塊と化した樹々。
その中へ向かって、ゆりは歩いていく。
驚いている暇はない。
離れるのはとても怖かったので、
すぐさま彼女の側に付いていった。
完全に中へ入ると、門はひとりでに
閉まっていく。
それにも、理解が追い付かない。
見たところ普通の、アナログな鉄の門だ。
「・・・・・・腕を掴んでいても、いいですよ。」
微笑みながら片腕を差し出され、一瞬
本気で掴もうとするが、止める。
「・・・・・・大丈夫、です。」
相手が白夜なら、
言われなくても掴んでいる。
変なところで、人見知りモードが発生した。
「いつでも遠慮なく、どうぞ。」
これから起こる事への前触れのように、
彼女は告げる。
いやいや。いくらなんでも、
初対面の人の腕を・・・・・・
「『烏』さま。よろしくお願いします。」
凛と、声が張られた。
するとその後、ズズズズ・・・・・・と
地鳴りが響いてくる。
目の前の草原に、割れ目が。
「・・・ひ、ひゃぁぁぁっ!」
裂け目が広がっていく様は、
夜という暗闇が作用して大きな口に見えた。
叫んで、ゆりの片腕へすがりつく。
ふふっと、彼女から
笑いの息が小さく漏れた。
「なっ、何なんですかっ、これっ?」
肝試しは、得意じゃないってば!
「道のりは、地下道になります。
・・・・・・最近まで、例の花が猛威を振るい、
それに操られた者たちが出現して
大変危険でした。
ですが、白夜さんとあなたのお陰で、
平穏が保たれるようになりました。
感謝いたします。」
何かした覚えも心当たりも、ないけど。
それよりも、地面が裂けて出現した階段を
下りる勇気は、到底湧かなかった。
「・・・・・・こ、
ここを通っていくんですか?」
「意外と中は、明るいですよ。
照明がありますから。
少し、湿気が強いのはありますけど。
安全だと思います。」
「ガチで言ってます?」
「例え何か出現したとしても、
全力でお護りいたします。」
「・・・・・・」
掴んでしまった彼女の腕を放す事は、
できそうにない。
「・・・・・・
このままでも、いいですか?」
「はい。勿論です。」
動じない彼女は、めっちゃカッコいい。
背丈は自分の方が高い為、
少し前屈みである。
彼女の綺麗に伸びた姿勢は、崩れない。
ほのかに香るシトラスと
伝わる温もりが、緊張を解してくれた。
「それでは、参ります。」
「・・・・・・はい。」
微笑むゆりが、ゆっくり階段を下り出すと
心依架も、自動的に足を動かす。
「滑りやすいので、気を付けてくださいね。」
「はい・・・・・・
あの、さっき、ここが開く前に言ってた
“『烏』さま”って、一体誰ですか?」
よろしくとお願いしていた、相手の名前。
「ここの『門番』である方です。
『家』の前にも大きな門があって、
そこにいらっしゃいます。」
返された彼女の言葉に、首を傾げる。
―インカムみたいなやつ、付けてんのかな。
『家』ってとこまでまだ遠そうなのに、
さっきの声量では、届くわけがない。
飾り気のない階段を下り切ると
目の前には、トンネルのような
真っ直ぐ伸びる空間が広がっていた。
彼女が言っていたように、等間隔で
照明の灯りがあって、見通しは悪くない。
だが到底、一人では
歩いていけそうになかった。
「心依架さんは、パン屋さんに
お勤めなされているそうですね。」
凛とした彼女の声は、
独特な反響を生み出している。
「え?・・・あ、はい。」
「私、パン大好きなんです。
今度、お伺いしたいと思います。」
急な世間話を振ってきたのは、
自分を落ち着かせる為だろうか。
その気遣いに感謝して、話に乗る。
「種類も多くて全部美味しいので、
一回で制覇は難しいですよ。
是非、通ってください。」
「ふふっ。分かりました。
東京に来た際には、是非立ち寄ります。」
「えっ。ゆりさんって、住んでるとこ
東京じゃないんですか?」
「住まいは、福岡です。
仕事の度に、行き来しています。」
それは、大変だと思うが。
「辞めたいって、
思った事はないんですか?」
「・・・・・・不思議と、それはないです。
旅は、楽しいですから。」
何か、深い答え。
「じゃあ普段は、博多弁ってことですよね?」
「・・・・・・この仕事に携わるようになってから、
使わなくなりました。
言葉遣いで出身が明らかになるのは、
避けたいので。」
それって。ヤバくない?
気を抜く時間がないって事っしょ?
「ゆりさんが博多弁で話すのって、
激カワだと思うんですけど。
心依架と二人でいる時は、
使ってもらって構わないですよ?
・・・・・・今、とか、全然。」
そう言うと、彼女は吹き出して
顔を綻ばせる。
それが、パッと花が咲くように可憐で
とても綺麗だった。
「・・・・・・困った事に、蔵野からも
同じことを言われました。
でも、目上の人に敬語を外して
話すとなると、性格上難しくて・・・・・・
実行できません。申し訳ありませんが。」
「いやいや、ゆりさん。心依架は
目上の人じゃないっしょ。年下だし。」
「それとこれとは、事情が違います。」
・・・・・・何の事情?
「じゃあ、命令って事にしたら
従ってもらえるんですか?」
「・・・・・・ふふっ」
「ゆりさんと、仲良しになりたいな~。
敬語を使わないでほしいな~。
博多弁聞きたいな~。」
普通なら、自分から
こんなことは言わない。
でも、この人の場合は、
こちらから歩み寄らないとダメだって思う。
「・・・・・・引かない、ですね。」
あと、もう一歩。
「それは、ゆりさんの方ですよ?」
小さく、ため息が漏れる。
「・・・・・・分かりました。
二人でいる時、限定なら。」
思わず、喜んで叫びそうになった。
「気になったんですけど、蔵野さんとは
ただの上司と部下の関係なんですか?」
「え、な、何で、いきなりそんな質問っ?!」
―あれっ。手応え大アリ。
今までの、クールビューティーさが。
ちょー慌ててる。あはっ。
「何となくですよ?何とな~く、
そう思っただけです。
教えてくださいよぉ。」
「・・・・・・」
―顔、真っ赤なんですけど。
えっ。なに、この人、かわいすぎない?
答え、言ってるようなもんっしょ。
「結構深い仲、とか。」
「・・・・・・」
―黙り込むし。
そうかぁ。結構、深い仲なんだ。
「ゆりさんって、
ウソつけない人なんですね~。」
「・・・・・・もう。」
「いいじゃないですかぁ。
ここだけの話ってことで。」
「・・・・・・」
「近い内、結婚しちゃうとかですか?」
「・・・・・・しとる、けど。」
「えっ?」
ぼそっと、何か言ったけど聞こえなかった。
「何て言ったんですか?
もう一回お願いします。」
「もうすぐ地下道を抜けます。」
「えっ、いやいや違う。
そうじゃないっしょ?」
「この話は、もう終わりです。」
「えーっ?」
「外に出たら、すぐ『烏』さまが
いらっしゃいますので。」
何か、歩くスピードが上がった気がする。
「ちょ、待って、待ってゆりさん。
歩くの早くないですかっ?」
「あなたのペースに合わせていましたから、
これが普通の速度です。」
いや、明らかに早いって。
・・・・・・怒っちゃったかな?
「いろいろ聞いてごめんなさいっ。」
「・・・・・・」
「でも、隠す必要、ないっしょ?
めっちゃ素敵だなぁって思いますっ。」
「・・・・・・」
「自分も、結婚とかになりそうで。
そういう話、ゆりさんとできたらいいなって
思っただけで・・・・・・」
急に、ぴたっと
ゆりの足が止まる。
勢い余って、こけそうになった。
「・・・・・・彼は、堂々と隣にいてほしいって
言うんやけど・・・・・・私は、
釣り合っとらん気がして。」
今度は、はっきり聞き取れた。
真面目に告げるの彼女の横顔は、
何ていうか、今すぐにでも
蔵野の傍へ連れて行きたいくらい弱々しくて。
心依架は、掴んでいたゆりの腕を外して
手を、両手で優しく包んだ。
「釣り合う、釣り合わないじゃないっしょ?
一緒にいたいって思う気持ちが、
大事だと思います。
・・・・・・それをいうなら、心依架だって。
ホントに自分でいいのかなぁって
いつも考えちゃいます。」
こちらを向いて見上げる彼女は、
かなり可愛かった。
「・・・・・・一緒にいたいって
思う気持ちが、日を増すごとに
強くなっていくんよ。」
「うんうん。自分も、です。」
「怖いくらいに。」
「同じです。」
「それと同時に、
このままでいいのかって。」
みんな、同じなのかも。
「ゆりさんの全部、彼に
晒しちゃえばいいんですよ。多分、
いや、ゼッタイ受け止めてくれます。
どんなゆりさんでも。」
「・・・・・・
聞いてくれて、ありがとう。」
ふと、緩めた彼女の微笑みが
恐らく、彼を虜にしているだろう。
「お礼なんていいですっ!
自分の方が、
癒されちゃったというか・・・・・・」
「吐き出せて、楽になりました。」
「ずっと、博多弁のままでいいですよ?
めっちゃかわいいですから!」
「か、かわいいって・・・・・・
よく分かりませんが・・・・・・」
話して気が楽になったのか、
再び歩き出す足が、とても軽くなっていた。
地下道に入った時、雰囲気が怖くて
ゆりの腕にしがみつく感じだったが、
落ち着いて軽く腕を組む程度になっている。
流石に離れて歩く事は、できなかったが。
地下道の終わりを示すように、月明かりが
地上へ向かう階段を照らしていた。
上がっていくにつれ、
散りばめられた星が目に入る。
それに、圧倒された。
こんな見事な星空を、ここで見られるなんて。
浮かぶ月は真円に近くて
目立つはずなのに、星屑の多さで紛れている。
街灯がないからだろうか。
目の前に広がる草原に、少し警戒した。
先程の、地面が割れた様が
まだ目に焼き付いている。
「ここは開かないので、大丈夫ですよ。」
その心遣いに感謝しつつ、心依架は
組んでいたゆりの腕を、そっと放した。
「ありがとうでした。
めっちゃ助かりました。」
彼女は相槌を打つように、小さく笑う。
「もう、見えてくると思います。」
先導するように歩き出す
彼女の後を追おうと視線を向けると、
それはすぐ飛び込んできた。
黒々とする樹々を弾く、白亜の光。
自然あふれる景観とアンバランスな、
近代的な建築物。
それを、守るように取り囲む壁と
大きな鉄の門。
所有区域入り口にあったものよりも、
ずっと豪華で重々しい。
近づくにつれて、小さな影が
門の前で立ちはだかっているのに気づいた。
大きなトレーナーが、
ワンピースのように見える。
心臓と繋がる大静脈を一輪挿しにした、
かなり独特なデザイン。
しかしそんな斬新なファッションを
気にさせない、美しい顔立ちの少女。
夜に溶け込む黒髪と大きな瞳が、
真っ直ぐ心依架たちに向けられている。
仁王立ちする様は、とても勇ましい。
―・・・・・・えっ。
まさか、この子が門番、とか
言わないよね?
「お連れいたしました。『烏』さま。」
「御苦労。」
―・・・・・・この子が、『烏』さま?
予想していた門番像とは、遥かに違う。
じっと見据えられ、たじろぎそうになった。
しかし次の瞬間、少女は
片膝を地面に付けて頭を下げる。
「御足労を願った無礼を、深くお詫びする。」
「えっ?あの・・・・・・」
「謁見が叶った事、恐悦至極に存する。」
「ちょ・・・・・・」
―何?時代劇?
ギャップが、ものすごいんだけど。
ゆりに助けを求める視線を送ると、
ただ微笑むだけで、何も口を開かない。
門番の少女は、頭を下げたまま動かない。
この状況に、心依架は大いに戸惑った。
―・・・・・・どうしたら、いいの?
「えーっ・・・・・・と、顔、上げて?
立ってもらえると助かるな~。」
まずは、それから。
「失礼する。」
そう一言告げて、少女は立ち上がった。
背丈は、咲茉くらいかな。
じっと見上げてくる大きな瞳を
受け止めつつ、お辞儀をした。
「大川内 心依架です。
お世話になります。」
「敬礼は無用。現在、儂は
『烏』と名乗っている次第。
以後、お見知りおきを。」
なぜ、時代劇口調なんだろ。
好きなのかな。
「じゃあ・・・・・・
『烏』ちゃんと呼ばせてもらいます。」
「意のままに。」
何か分からないけど、
受け入れてもらえそう。
『烏』はゆりへ視線を移し、口を開く。
「会議は、たった今終わったところだ。
鉢合わせしないように、恵吾たちが
客間で引き留めているぞ。」
「ありがとうございます。
それでは、私たちは真っ直ぐ
・・・・・・」
ふと、彼女は言葉を止める。
どうしたのかと窺うと、
表情が曇っているように見えた。
「・・・・・・状況は、良くないですね。」
「そうか。お主が言うなら、間違いない。
『ジーン』が援護しているようだが、
分が悪いようだ。」
「・・・・・・」
何の、会話なんだろう。
「彼らに、引いてもらうように
要請してもらえますか?」
「とっくに、引くよう
告げてはいるようだがな。
・・・・・・難しいだろう。」
「そう、ですね・・・・・・」
少し、間が空いた。
やや強い風が吹き抜けた後、ゆりは
その流れに乗るよう言葉を乗せる。
「・・・・・・
ひとまず、“Sanctuary”へ向かいます。」
「うむ。恵吾たちに伝えておこう。」
その言葉の後、『烏』は片腕を上げた。
その袖は折れ曲がり、手が出る事はない。
ぎぃぃぃぃ・・・・・・と、音を立てて
重々しい門が開いていく。
魔法を掛けたような仕草に、心依架は
驚きながらも浮き立った。
この門番の美少女は、ガチで
妖精なのかもしれない。
完全に開いた後、先導するように
ゆりが中へと踏み入れる。
その後を追って通り過ぎる際、
『烏』は深々と頭を下げた。
「・・・・・・
“彼の方”の慈悲を、光栄に思う。」
どうしても、小学生くらいの少女が
礼儀正しい風にしか見えず、心依架は
只々不思議に思いながら
会釈をして応える。
再び門は、ぎぃぃぃぃ・・・・・・と
呻くように響いて、閉じられた。
目の前には、赤い絨毯が敷かれた回廊。
アンティークなインテリアが、
中世の城内のように演出している。
これだけでも圧倒されるのに、施設は
先が見えない程広そうな気がして
若干、怖気づいてしまいそうだ。
「しばらくしたら突き当たりますので、
それを右へ参ります。・・・・・・それと、
言い忘れていましたが、
スマホは使えません。ご了承ください。」
写しまくろうとして
スマホを手に持ったところで、釘を刺された。
―こっちを、振り返ってないのに。
先程彼女が話していた、
“未来を読む”という力。
それで、分かったのか。
颯爽と歩いていく彼女の背中を
眺めながら、言葉を返す。
「“使えない”というのは、
圏外だからとかですか?」
「それもありますが、『ここ』の規則です。
撮影等も禁止事項。守っていただきます。
電源を切ってもらえたら、幸いですね。」
もしかして、いや、確定だ。
白夜と栞のスマホに繋がらなかったのは、
その為だったのか。
「例外は、ありません。如何なる時も。
『ここ』に踏み入れた以上は、
従ってもらいます。
・・・・・・不自由な思いをさせて、
申し訳ありません。」
表情は窺えないが、彼女の口調は
有無を言わせない響きがあった。
ルールはゼッタイ、ということなのだろう。
心依架は素直に、スマホの電源を落とす。
―情報を漏らさない為とか、かな。
隠密組織っていうくらいだし。
・・・・・・単純に、スマホ使えないの
不便そうだけど。
自分は今、国の所有区域にいて、
隠密組織の施設に侵入している。
そう考えたら、怖気づくどころか
好奇心の方が勝ってくる。
“これから向かう場所、見聞きする事、全てが
受け入れ難い内容だとは思いますが
・・・・・・”
ゆりが告げた言葉の意味を
ようやく今、実感している。
回廊の突き当たりまで到達すると、
彼女は足を止めて振り向いた。
「左側に行くと、“ゲストルーム”があります。
そこへ出向くのは、後ほど。
右側は、『ここ』に属する者でも
許可なく踏み入れるのは、
立ち入り禁止になります。
・・・・・・『管理人』の領域です。」
「・・・・・・『管理人』?」
このお城の王様、てとこだろうか。
「私の口からは、詳しく申し上げられません。
現在その役割を、蔵野が
取り仕切っているという事だけ・・・・・・
お伝えいたします。」
彼女の、真っ直ぐな眼差しを受け止める。
告げられた内容に、心当たりがあった。
“直系で言うと、組織を纏めるのは
自分だった。だけど、自分では
力量不足だし性格上、ふさわしくないと
分かっていた。だから、叔父さんに託した。”
あの時、白夜が話していた事情。
その事を指しているのでは。
「・・・・・・光差す方向へ、繋げたい。
彼は、そう願い続けています。」
光差す方向。
それは一体、何の事を指すのか。
彼女が見通している未来と、
彼が繋げたいと願う行く先は、
一致しているのか。
今、理解するのは難しかったが、
これだけは言える。
どんな未来でも。
彼の傍にいる未来なら。
自分は、歩いていけるのだと。
自由な旋律が、気ままに充満している。
長時間にわたる会議を終え、
政の主要人物たちを無事に送り出した彼らに、
束の間の安息をもたらす。
舞うようにピアノを奏でる、長い黒髪の女性。
目元には、独特なヴェネツィアンマスクが
付けられていた。
直ぐ側の席に座る二人は、
漆黒の光沢と一体化する彼女に
目を向けたまま、調べに耳を傾けていた。
きちんと締めていたネクタイを緩めて、
小さく息をつく銀髪の青年。
隣に座っていたオールバックの男性は、
顔を綻ばせて彼に視線を送る。
「御苦労様だった。ありがとう。」
低く心地好い響きと労いの言葉に、
青年は柔らかい微笑みを返した。
「それは、叔父さんの方ですよ。
いつも彼らを相手するのは、
骨が折れるでしょ。」
「ははっ・・・・・・良かった。
愚痴をこぼす気力があって。」
「その、愚痴一つ漏らさない貴方は、
ホントにすごいと思います。」
自然の流れのように、
ヴェネツィアンマスクを付けたバーテンダーが
二人の元へ、透明なカットグラスを届ける。
見事な技術が施されている故に
日本酒だと錯覚するが、
注がれているものは、ただの水である。
「・・・・・・自分は、手伝いで精一杯です。」
「その手伝いは、
お前じゃないとできない事だよ。」
二人は、ほぼ同時に
グラスを手にして、喉を潤す。
程よく冷たくて、美味い。
示し合わせたように、一気飲みした。
青年から、ふ、と息が漏れる。
「門出に、ふさわしい飲み物ですね。」
「・・・・・・門出、か。
それは確かに、合っているね。」
笑みで返した後、男性は静かに
空のグラスをテーブルに置いた。
「・・・・・・よく、ここへ出向いてくれた。
お前も、彼女も。心から感謝している。」
淡い光で反射するグラスを、青年は
愛でるように眺めながら笑みを浮かべる。
「全ては、彼女のお陰です。
振り返りたくない過去と向き合わせ、
自分を曇りなく見据えてくれた。
・・・・・・感謝しても、し尽せない。」
『この家』に帰ってきたのは、何年ぶりか。
逃げるように離れてから、一度も
踏み入れてはいなかった。
自分の居場所ではないと、自覚していたから。
『ここ』は、彼に委ねてから
見違えるように生まれ変わった。
叔父ではなく、父親が『管理人』として
君臨してい時は。
こんな一息すら落ち着ける場所もなく。
様々な『職業』の者たちが集い。
私欲の為に、先代から築き上げた
ネットワークで猛威を振るい。
実質、国を動かす程の力を持って
支配していた。
そんな世界の中心で生まれた自分は。
力尽きた母親の顔を、拝めることもなく。
父親の、履き違えた帝王学を叩き込まれ。
一族の所以すら学ぶ事を許されず。
ただ、息をする毎日で。
自分とは何かと、疑問すら持てずに。
この身体に流れる父親の血があるから、
持ち上げられ。
生きることは、地獄なのだと。
考えるばかりだった。
唯一救いだったのは、叔母にあたる咲茉が
傍にいてくれた事。
彼女から聞く、一族の話が大好きで。
彼女の、輝かんばかりの笑顔が大好きで。
自分が保てたのは、
彼女と過ごす時間があったからだ。
そして叔父は、自分にとって
明けない夜でも輝ける太陽のような存在で。
彼のような人になりたい。
腐っていく自分の中で、その種は
名前に籠めて、大切に植えられた。
育つのか分からないまま。
流されるだけ、流されて。
父親の、急な訃報が届いた時。
悲しいと思うよりも、重い鎖が
ようやく外れたような気がした。
願うならば。
自分の身体に流れる半分の血も消えてほしい。
そこまで思った。
当然だというように、『管理人』の引継ぎが
自分のところへやってくる。
非力な自分では、『彼ら』を支えきれない。
父親と同じ道を、いや、それ以上に荒んで
深い闇に落ちて崩壊してしまうのでは。
それを、危惧した。
父親の独裁を、ただ静かに見守って潜み
起死回生を願う者がいる。
その芽を摘んでしまうのは、
どうしても避けたかった。
叔父ならばと。彼ならば。
『ここ』も、『彼ら』も、
生まれ変わるのでは、と。そう考えた。
自分の申し出を、叔父は
肯定も否定もせず。ただ、頷いた。
“「お前が、『この家』に戻りたいと。
自然に思える環境を作りたい。
・・・・・・いつになるか分からないが、
待ってもらえるか。」”
その言葉を、その心遣いを。今でも忘れない。
唯一の肉親である咲茉を失い。
現実を見据えられず逃げて離れた、自分を。
彼は、嫌な顔せず迎えてくれた。
今。
寛容な彼の風は、行き届いている。
『ここ』の空気は、とても素晴らしい。
水が美味いと思う、
この空間を作った叔父の存在は。
『みんな』の、太陽だ。
「・・・・・・
ありがとうございます。叔父さん。」
何も問わず、温かく迎え入れてくれて。
「・・・・・・僕は何も。
彼女には本当に、感謝が尽きない。」
何の問題もないと言ってのけ、
驕らない貴方は。
本当に、素晴らしい。
「・・・・・・ええ。本当に。」
心依架。
早く、会いたいよ。
「・・・・・・行きましょうか。」
青年は、グラスを置いて立ち上がった。
彼らの背中を押すように、自由な旋律は
追い風の如く流れていく。
晴れ渡る空に、願いを乗せて。
自分の息遣いと、激しく打つ鼓動が煩い。
インカムから聞こえていた
自分を引き止める声は、もう
酷い耳鳴りのせいで届いていない。
無造作に、剥ぎ取る。
「・・・・・・はぁっ、はぁっ・・・・・・」
久しぶりやなぁ。このカンジ。
生きとるって、カンジや。
激しく流れる頸動脈。
朦朧とする意識を、必死で
繋ぎ止めようとしている。
胴体に開いた、一つの穴のせいで。
急所は外れているが、出血が多い。
気を抜くと、すぐにでも
ブラックアウトしそうだった。
太い幹に背中を預け、肩で息をする。
何とか逃れているが、
見つかるのは時間の問題だった。
あんなイレギュラーな動き、するとは
思わんやろ・・・・・・
ホンマ、規格外や。
はぐれてしまった、
緑の髪の女を思い浮かべる。
・・・・・・あいつだけでも、
無事に逃げてくれたらええけど。
男は、笑った。
何、心配しとる。大丈夫や。
あいつなら、無事逃げ通す。
あいつは、一流やで。
俺みたいにヘマは、せぇへん。
一度だけでも。
温もりを味わえたのは、大きかった。
手に入れたと思ったら、コレや。
俺の人生、ホンマあかんなぁ。
終わっとる。
まぁここで終わるのも、ええんやないか。
ええやろ、もう。精一杯生きたわ。
樹。兄ちゃん、好き勝手にしてもうて
ホンマに悪かった。
どっかで、幸せに生きとんなら
言うことない。俺のこと、
忘れてしもうてええからな。
ホンマに、最期まで
どうしようもないアニキやったわ。
目の前に現れる、しなった黒い物体。
どこまでも追ってくるそれは、
とどめを刺そうと定めているのか
ずずず、と空中で
とぐろを巻いていく。
来いや。タダでは、くれてやらんで。
ウエストバッグに入れていた、
手榴弾を取り出す。
念の為に入れといて、良かったわ。
“探しもん”の危険度合いは、何となく
把握しとったつもりやった。
せやけど、予想を遥かに超えとった。
こんなんじゃ、
どうにもならへんかもしれんけど。
ダメージは残せると、賭ける。
どうにもならへんでも。
後に残った者たちが、何とかしてくれる。
そんな考えで散った、『同士』たちを。
今まで、ぎょうさん見てきた。
今度は、俺の番や。
繋げる為に、できることを。
そんな、紛れもない正義の味方に、
なってみたかった。
レッドのおねぇさんみたいに。
カッコようなりたかったなぁ。
先生。
言うこと聞かんで、すんません。
後、頼みます。
黒い物体のとぐろが、一気に伸びてくる。
抜かれたピンが、地面に落ちた。




