序 赤い川の領地
国の西南部に位置するロートバッハは谷に囲まれた盆地であった。そこでは葡萄の栽培がおこなわれワインの産地としての名を持っていた。
そしてここの領主がエーデルシュタイン家の当主が務めていた。ワインを国内外に産出してきた家であり、海に面していない国であったが貿易商との交流が盛んであったのもそのためであった。
「まぁ、僕はワインはユリアンのものが好きかな」
馬車の中でクラウディオは椿にこの土地のことを説明した。
椿は興味深くそれを聞きながら、ちらりと向かいの席の馬車の主の姿を見つめた。この土地はヴィルヘルムの出身地であるのだ。
しかし、彼は疲れたように窓際に寄りかかった体勢で眠っていた。
ここ数日あまり眠っていないと聞いていたため二人はあえて起こそうとしない。
忙しかった原因は休暇をとるために前倒しに仕事をこなしていたからだ。銀十字の仕事以外にもすることはたくさんあり、帰ってくるのは夜遅くになり朝になれば早めに出立する。
おかげで椿が彼の姿を見ることはほとんどなかった。
以前の吸血鬼事件で観察用施設に入院したときは毎日来てくれたが、それは仕事場のすぐ傍であったから可能だったのだろう。慣れない場所で椿に不安を与えないように無理やり時間を作っていたのかもしれない。
彼の眼の下をみると隈が少しできている。彼の疲労を思いやってやれず椿は申し訳なく感じた。
「全く君を前に眠るなんて失礼な奴だ」
クラウディオはぷんぷんと怒っていった。
「いいえ、ヴィル様はここ最近多忙だったので仕方ありません。せめて彼の疲れが癒えるように何かしたいのですが、なかなかできない自分が情けないです」
大事な実家への同席を許してくれて、そのための衣装も準備してもらった。それだけでも申し訳ないことである。今着ている衣装も真新しくたいそうなお金がかかっただろう。
「んー、椿が傍にいてくれるだけで十分だと思うよ」
「私には自分の傷を癒すしかできず、他者のことは」
その口ぶりにクラウディオはぷすっと笑った。
自分は何か変なことを言ったのだろうかと椿はきょとんとした。そんな彼女にクラウディオは優しく微笑んだ。
ヴィルヘルムの実家は大きかった。庭の中に森があり、薔薇園があり多くの建物が建てられていた。その中でも最も大きい屋敷が本邸である。
門が開かれ奥の本邸まで進むが庭のあまりの広さに椿は思わず口を開いてしまった。
王都にある館も大きく広いものであったが、その比ではない。
「まぁ、しょうがないね。ヴィルの実家は国内でも10に入る名家で、引退した彼の祖父はまだ国の中枢への発言権が強いといわれているからね」
「うぅ、そんなにたいそれた家なのですね」
「本家を継ぐのは兄上であり、俺はいずれ家を出る者だ。気にしなくていい」
馬車を降りると多くの使用人たちが綺麗に整列し椿たちを迎えた。正確には主人の弟であるヴィルヘルムにであるが。
「椿は俺の後ろをついてくればいい」
ヴィルヘルムにそういわれ、椿は彼の後ろを離れず歩いた。ちらりとみる使用人たちは微動だにせず主人に何も言われなければそこから動かずといった姿勢であった。
まるで訓練された兵隊のようだ。
奥の部屋へ案内される。屋敷の主人が仕事場にしている部屋だった。
「ヴィル、おかえり」
綺麗に結われた金髪の髪に青い瞳の青年が出迎えた。
親し気にヴィルヘルムへと近づきほほ笑む。
「アルベルト兄上、お元気そうで何よりです」
兄と言われ椿は思わずぴんと背筋を伸ばした。
この方がヴィル様の兄上。
実のところもう少し厳しそうな方だと思っていた。物腰柔らかでのんびりした口調で、故国の貴族と同じ雰囲気であった。
「おや、愛らしい娘だね」
「はい。椿」
椿は姿勢をただし礼をした。教えられた淑女の礼儀作法であるが、きちんとできているか自信がない。
「彼女が君の言っていた紹介したい子かい」
「そうです。この娘が俺が言っていた椿です」
ヴィルヘルムはぐいっと椿を腕に抱きしめ引き寄せる。
「そして今回彼女との婚約を認めてもらいたく来ました」
しばらく沈黙が続いた。
椿は自分がここにいていいのかおおいに悩んだが、ヴィルヘルムの腕の力が緩むことはなくここから離れることができなかった。
「お茶でも飲もうか」
アルベルトは執事に命じてお茶の準備をさせた。執務室には客人を座らせる為の間があり、そこに長椅子やテーブルが置かれている。そこでお茶の準備をさせた。
ほんのりと甘い香りのクッキーとともに出されたお茶にヴィルヘルム、椿、クラウディオ、アルベルトは一服した。
「彼女を認めていただきたいのですが」
話の続きをとヴィルヘルムは前に出る程の勢いで言ってきた。
「認めなければ」
「当主が認めてくれなければ俺は、エーデルシュタイン家を出ます」
その言葉に椿はさっと青ざめた。
家は大事なもので繋がりであるべきなのだ。途絶えてしまった己の生家をみてきた為椿はその繋がりの大事さを知っていた。
「彼女はそれを望んでいないようだね」
内面を見透かしたようにアルベルトはつっと口の端を釣り上げた。
「お父様」
アルベルトと同じ金髪のふわふわした髪の少女が飛び込んできた。彼女は部屋の中をみてははしゃいで小犬のようにぱたぱたと足音をたて、ヴィルヘルムの方へ近づいた。
「お帰りなさいませ。ヴィルお兄様」
はにかんだ笑顔にヴィルヘルムは少しばかり眉間の皺を緩めて笑った。
「マリア、客人を前に失礼でしょう」
窘めるように言うアルベルトの言葉にマリアと呼ばれた少女はこほんと咳払いして後ろへ下がりスカートの裾をつまんでお辞儀をした。
「ようこそ。ヴィルヘルム様」
淑女の振る舞いにアルベルトは頷いた。
「彼との会話は食事の時にゆっくりすればいい。今はダンスのお稽古の時間だろう」
「はあい」
マリアは頷いて部屋を飛び出した。
「失礼したね」
アルベルトは話をもとに戻すと言った。
「とにかく結婚に関してはもう少し考えてから発言してもらおう」
結局認められないまま話はいったん中止となってしまった。
夕食の席へと案内された。主人の席にはアルベルト、妻はおらず二人の子供がいるので序列の席に彼らが座っていた。
ヴィルヘルムは次の席に客人のクラウディオ、椿も案内されるまま席についていた。
「ちょっとあなた」
怒った表情でマリアは椿を睨みつけた。
「あなたは何故そこの席についているの?」
まるでつくべきではない、つくのは悪いことだと言われているようで椿は動揺した。
「あなたはメイドでしょう。ならば主人と同じ食卓につくのはおかしいわ」
いくらヴィルヘルムが優しいとしてもそれくらいの知識はもっておくべきだろうにと非難の声があがった。
「マリア、彼女は私の許嫁であり大事な女性だ」
まぁとマリアは予想していないヴィルヘルムの答えに驚いた。
「お兄様、本気でそれを言っているの? 東の者よ。今は国に奴隷制度はないけど、あったときは奴隷だったものたちよ」
それに椿はぐっと唇を噛んだ。
かつての自分はそのつもりで売買されようとしていたのだ。
「わかった」
クラウディオは穏やかに笑い、立ち上がった。
「エーデルシュタイン家の食卓だ。元々外の者である僕と椿は別の部屋で食事をとるとしよう」
それならば文句はないだろうと笑うクラウディオにマリアは困った。別にクラウディオまで追い出そうとしていたつもりはないのだ。彼とは戯曲について楽しく語らいたかったし。
そうはいっても冷めてしまった雰囲気の食卓に椿を置いたままでいさせるのは酷なことだ。クラウディオは椿を連れて食卓の席を後にした。
「別に私はクラウディオ様まで追い出すつもりはなかったのよ」
頬を膨らませて食事を口に運ぶマリアにヴィルヘルムは何も言わない。眉間に皺をよせていた。




