銀十字の研究室
古き時代から人々は自分とは異なる存在、動植物では説明がつかない脅威に頭を抱えた。災いをもたらす魔女、生者の血を啜る吸血鬼、森の闇に潜む人狼をはじめ多くの異端者について知識が不足していた。
手探りのまま行った対応策は怪しいと思える人や動物を捕らえ拷問し、処刑するというものだった。
後に異端狩り、魔女狩りとも呼ばれるその行いは狂気に満ちていた。中には怪しいというだけで捕らえられた無実の人もいたのだ。いや、ほとんどそうした人たちだったのかもしれない。
一度嫌疑をかけられ、異端審問に連れ出されれば最後自白するまで解放されないのだ。自白するまで多くの拷問を受ける。苦痛に苦しみ異端であると認めたら解放されるが、その先に待っていたのは処刑であった。
異端者の存在に怯えると同時に異端者の嫌疑をかけられるのを恐れた時代だった。
その時代に終止符を打ったのが一人の女性の登場であった。
ヴィヴィアナ・ヴァレンティーヌ、ユリウス国で今も聖女と呼ばれている。
彼女は王族の出でもある彼女は母親が魔女であったといわれていた。しかし、多くの病を治癒する白魔女と呼ばれる存在であった。
彼女は母より多くの知識を身に着け、今までの異端狩りの異質さを指摘した。
異端者の知識を人々に授け、多くの冤罪となった人々を解放していった。
異端者の中には人に害を与えない者がいることも提唱したのは彼女であった。
人に危害を加えてきた異端者がどういうものか、これらの対処法はどうすればよいのかを弟子たちに学ばせていった。彼らは騎士と呼ばれ、新たな狩人とも呼ばれた。身に着けているものは銀の十字架であることからそうして銀十字と呼ばれるようになった。
このように銀十字は発足したのだ。
そしてこれは大陸の各国に伝わり、それぞれの国に銀十字の組織を作った。
早くから異端審問による異端狩りに疑念を持っていた。
このベルラント帝国も例外ではなかった。
積極的に取り入れたのは王族に近い貴族ベルンハルト公爵一族であった。当時の公爵は王に提案してベルラント銀十字という形で誕生した。
その本部は王都ホーエンにあり、ここには多くの設備が整っていた。国の中、いや諸外国の中でも異端者への研究が進んでおり、特に注目されているのは異端者によって傷ついた者、異端者によって異端にされた者への医療であった。これは他の追随を許さない程の勢いであり、諸外国からわざわざ留学にくる者も多くいた。
「アルコールは大丈夫ですか?」
白衣を着た男に質問され、椿は大丈夫ですと答えた。
「ワイン2杯ほどなら大丈夫です」
「そうじゃないけど………それほど強くないんだね」
男はくすくすと笑い椿に腕をみせるように指示した。袖をまくり言われるまま右腕をだす。
白く細い腕をみてほうと男は感心した。
目の前の少女は外見は14,5程であるが、実年齢はその十倍以上と聞いている。この国では珍しい特徴を持つ少女であるが、それを覗けばふつうの娘であった。
ひやりとした布をあてられその冷たさに椿はぴくりと震えた。
「それでは血を少しとるよ。大丈夫、少しちくりとするだけだから」
そういい助手からシリンジを受け取る。その先に太目の針がついており、椿は動揺した。
震える左肩に傍にいた端正な顔立ちの男は寄り添い優しく大丈夫と囁いた。椿の左手を握り、右手で彼女の視界を塞ぐ。
「すまないけど、あまり慣れていないんだ。一発で終わらせてほしいな」
「努力しましょう、ヘル・ベルモンド」
そういい男は少女の腕に針をさし、血を採取した。ようやく解放されたときは針は抜かれてて椿はほっとした。同時にずっと手を握ってくれたクラウディオがよしよしと椿の頭を撫でてきた。
「すみません。年甲斐なく幼児のように」
「いいよ。僕も注射や採血は嫌いだからね。もうちょっと針細くしてほしいなー」
ちらりとクラウディオは白衣の男を見つめた。
「これが一番細いんです」
白衣の男は苦笑いして採取したものを助手に預けた。
助手の手に渡った硝子容器の中に赤い液体が満たされていた。
自分の血だと知り、その赤さに驚いた。まるで紅玉が液状になったかのように美しかった。
「見た目は通常の人と同じです。温度も問題ありません。死者ではなく生者のものですよ」
「結果が出るのはどのくらいかかるかな」
「三日で何とかいたしましょう。その間、彼女には施設入所していただきます」
「え」
聞いていないことに椿は動揺した。
「異端者になったかもしれない方には数日間様子を観察するために入所していただきます」
もし、異端者であった場合すぐに対処できるようにというものだった。
「あ、その必要はないよ」
クラウディオはにこりと笑った。
「彼女はエーデルシュタイン邸で様子観察するから」
「しかし、これは決まりで」
「可能性は低いんでしょう。何かあっても僕とヴィルがいるから大丈夫」
そういいクラウディオは次の検査のスケジュールを確認し、椿を別の部屋へ連れ出した。
「次は神経学の確認だね。指示通り動いておけばいいよ。気分悪かったらすぐに僕にいればいいし」
「すみません。ベルさんの手を煩わせてしまい」
「いいよいいよ。どうせ僕はヴィルと違って暇だし」
にへらと笑う彼をみて椿はほっとした。慣れない施設での検査を受け、彼が傍にいなければ不安でたまらなかった。
「この検査が終わればヴィルの仕事部屋でお茶を飲んで彼の仕事が終わるのを待とうね」
「ヴィル様の仕事の邪魔になるのは」
「平気平気、俺が目の前でだべってても仕事をする鬼だからね。それに椿が目の前にいれば彼は早く仕事を切り上げるとおもうし」
明るい調子で笑う彼に椿はちらりと施設内の内装を見つめた。
ここに来たのは二度目だった。ここまで施設内を歩くことはなかったが。はじめてきたのはヴィルヘルムに出会い保護された直後のことだった。ここで公爵と呼ばれる方から話を聞き、ヴィルヘルムの家でお世話になることになったのだ。
銀十字の施設内に存在するフローエ夫人の執務室でヴィルヘルムは今回の一件を報告した。
「ご苦労様でした」
一通り聞き終えたフローエ夫人はヴィルヘルムに労いの言葉をかけ、報告書を傍らに置いた。ひとつ呼吸を置き改めてヴィルヘルムに向き直った。
「今回の件は申し訳なかったわ。まさかアルブシルヴィウスの吸血鬼が混じっていたなんて」
シェートンから本部の人間を派遣した方がよいとわざわざ言っていたためもう少し緊張感を持たせるべきだった。椿へのお詫びも兼ね軽い旅行ついでに行かせる内容ではなかった。
大陸各国の銀十字が危険物と認識している吸血鬼一族が、よりによって銀十字が保護している椿に襲い掛かるなどあってはならない失態だ。
「今回は私の落ち度………責任は私にあります」
「いえ、俺もうかつでしたので」
叔母だけを責められる内容ではない。
「椿さんにも悪いことしたわ。せっかく楽しい旅行をと思ったのに」
そもそも仕事を付加するものではなかった。
「今回の件の処断がついた後、あなたには改めて休暇を取れるようにしておくわ」
改めて椿と休暇を楽しめるように。
「そうしていただけると助かります。しばらくしたらロートヒューゲルに戻りたいので」
故郷の名前を聞きフローエ夫人は首を傾げた。
ヴィルヘルムは十五の頃に王都へ勉学のために上京してからほとんど帰郷していない。ベンカー通りの邸宅を借り、連れてきたヨーゼフを執事として召しそこから動く気配はなかった。
学校を卒業すればそのまま表向きは官僚、裏では銀十字に属し仕事に熱中している。
一向に帰る気配がなく故郷の兄から様子を伺う手紙がフローエ夫人のもとに頻繁に届けられていた。
「久々の帰郷ね」
「婚約の報告をしたいので」
その一言にフローエ夫人は大きく目を開き反応した。
「話の順番が逆になってしまいましたが」
ヴィルヘルムはこほんと咳払いして改めてフローエ夫人に告白した。
「俺は椿を妻に迎えたい」
「まぁ」
夫人の甲高い声が響いた。その声は驚きと喜びの色が混じっている。
「そのために叔母上には彼女の後見をしていただきたいのです」
ヴィルヘルムは頭を下げフローエ夫人に懇願した。
銀十字保護下の椿はあくまで客人で、この国では身分のない存在であった。その身の安全は保障されているが、貴族に嫁入りするほどのものは持っていない。
「突然の我がままですが、どうか」
「いいわよ」
フローエ夫人は快く引き受けると言った。
「そうね。彼女は私の娘ということにしましょう」
元々椿のことは気に入っていたフローエ夫人であり、すぐにでも彼女の身の固め方を思案していた。
「いえ、そこまでは」
「そこまでは必要です。彼女は異邦人………貴族に嫁ぐならば、貴族の肩書があった方がよいでしょう」
確かにその通りである。だが、しかし。
「フローエ男爵には」
「大丈夫よ。あの人は気前よく乗ってくれるわ。ええ、乗せてみせるわ」
フローエ夫人は早速周りのことをあれこれと考えていた。
「一応釘はさしておきますが、アルブシルヴィウスの吸血鬼の件は忘れないでくださいね」
「勿論忘れていないわ」
あっさりと応えるフローエ夫人なので、大丈夫だと思う。しかし、ここまで椿の件で乗り気だとかえって不安になる。
(こんな時に公爵が留守にしているとは)
現在ベルンハルト公爵は王宮に呼ばれているので銀十字を留守にしていた。一応、ベルンハルト公爵の部下という肩書であるが、実質幹部であるフローエ夫人に指示を仰ぐという形になっている。公爵への報告に関してはフローエ夫人に任せておこう。
時計をみるとすでに昼を過ぎていた。そろそろ椿の検査も終わっているといいのだが。
自分の仕事の為にあてがわれた部屋へいく。基本的に自分の部屋はクラウディウスとの相部屋となっていた。検査が終わればあそこにいるだろう。
「ヘル・エーデルシュタイン」
速足で部屋へ向かう途中に白衣の男が声をかけてきた。施設内の医療や検査を担当している者であった。
「椿の検査をしてくれたのだったな」
こくりと白衣の男は頷いた。
「結果はどうだった?」
「今のところは異常な点はありません。血の成分を調べておくだけです、これには数日かかります」
「そうか」
「あの、彼女のことなのですが、様子をみるための施設入所を」
確か異端者になっているか否かを調べる間は施設の奥にある隔離部屋で観察する決まりとなっていた。その観察部屋の出入り口は限られ、頑丈に鍵がかけられている。上の方に小さい窓があり、そこから中の様子を始終伺うためのものがある。興奮状態であればそこから鎮静作用のある薬香を投げ入れることもあった。
「必要ない」
ヴィルヘルムは首を横に振った。あの中に彼女を入れるなど考えられない。自分の不注意で危険な目に遭わせておいて不安な場所へ押し込めるなどできない。
「しかしですね。決まりなんですよ」
「俺の家で厳重管理する、で問題ないだろう」
「困ります」
「何か怪しい点でもあったのか?」
「………彼女は不老不死の魔女です」
その言葉を聞きヴィルヘルムは強い苛立ちを覚えた。
確かに彼女は自分とは異なるところがある。年齢もずっと上だろうし、傷もたちまち治癒してしまう。だが、それ以外はふつうの女性なのだ。
「我々の診察と検査だけで正常か異常かの判断を行うのは不安があります。それに、あなたが決まりを無視すれば規律が乱れます」
規律という言葉を聞きヴィルヘルムは深くため息をついた。
「………わかった」
◇ ◇ ◇
「遅いよ。まさか検査が終わっても君の仕事が終わっていないなんて思わなかった」
部屋にはいるとクラウディオが開口一番に文句をつけてきた。その言葉にヴィルヘルムは若干の苛立ちを覚えながらも、奥の長椅子で横になっている彼女を見つめた。
医療班たちの各専門家の診察と検査の連続で疲れている様子であった。
彼女の傍まで近づき、ヴィルヘルムは床に膝をたてて彼女の顔を覗き込んだ。無防備に眠る姿は少女のものと変わらない。これが魔女というのだから不思議なものである。
「椿」
揺すり動かすと重い瞼を開け椿はぼんやりとヴィルヘルムを見つめた。瞳を蕩かせほほ笑む姿は愛らしくヴィルヘルムは彼女の頬に触れた。その感触で椿ははっと我に返った。
「お、おかえりなさいませ」
主人の帰りに慌てて身を整え起き上がる。
「いい。疲れただろう」
「い、いえ………ヴィル様の方がずっとお疲れでしょうし………」
まだ混乱しているようで声がひきつっている。
「じゃ、早く帰ろうか。帰る途中に美味しいご飯食べて」
明るい調子のクラウディオにヴィルヘルムは首を横に振った。
「椿には三日間奥の施設に入ってもらう」
「は?」
クラウディオはやや不機嫌そうに眉を潜めた。
「まさか椿をあんな独房に入れるつもりかい?」
「観察室だ」
「同じだよ」
不機嫌に鼻を鳴らす彼の様子から相当嫌っているようだ。それにヴィルヘルムはため息をついた。
俺もあまり好きではない。
だが仕方ない。
決まりなのだから。
「あの、………3日間そこで過ごせば戻れるのですね」
異端者になった可能性のある者は観察室へ入る必要があった。検査・診察だけではなく日中の様子を観察するのも大事なチェックなのだ。
「ああ、3日にするように頼んでおいた」
状況によっては1週間以上観察されることも珍しくない。ヴィルヘルムはせめて血液の解析を早めてもらうように頼み込んだ。検査室のスタッフで最短3日で解析を終了できる。それが終了して問題なければ観察室から解放することを条件に椿を入所させることになったのだ。
これでも検査室のスタッフからの最大の譲歩だというのは椿でも理解できた。
「わかりました」
「椿」
心配そうにのぞき込むクラウディオに椿はにこりと微笑んだ。
「大丈夫です。3日の辛抱だといいますし。それに決まりならば仕方ありません」
自分だけヴィルヘルムのおかげで免除されるというわけにはいかない。それで規則が崩れるおそれがある。今回は何がどうなるというわけではないが、ここで前例を作ってしまえば後々の例で問題が起きる可能性もある。そこでヴィルヘルムに何かしらの影響を受ける方が椿としては嫌だった。
「終わりがあるのです。平気です」
船の上でいつ終わるかわからない幽閉と虐待の日々に比べれば耐えられる。
椿の笑顔にクラウディオは何も言えなくなった。
「わかった。毎日様子をみにいくよ。嫌なことがあればすぐに言うんだよ」
「そんな大げさな」
過保護なまで椿に甘いクラウディオに椿は苦笑いした。しかし、大事にしてもらえていることに感謝していた。
「着替えや食事、必要なものはだいたいスタッフが整えてくれている。他に欲しいものがあれば届けよう。何がいい?」
「それだけあれば十分です」
「観察室には娯楽的なものは何もない。本当に観察されるだけの部屋だから、何か気の紛れるものがあった方がいいだろう。本とかどうだ? お前なら1日あれば2,3冊は読めるだろう」
「さすがにそこまで読むのは早くありませんよ」
まだ慣れない言葉や文法があり、時間がかかっているのだ。
「毎日様子を見に来るから好きなものを持ってくる」
「ヴィル様の申し出は嬉しいのですが、お忙しい身で私に時間を割くのは」
「俺の不注意でこういうことになったんだ。これくらいはどうということはない」
椿はしばらく考えたようにあたりを見渡した。ヴィルヘルムの方へ振り返り要望を述べる。
「では、花を」
「花? どんなのが良い」
「何でも………ヴィル様が届けてくださるなら何でも良いです」
「わかった。考えておこう」
椿は検査室のスタッフに案内され観察室が並ぶ棟へと入った。窓をみると厳重に柵がはめ込まれている。閉鎖的な空間に息苦しさを覚えたが、耐えられる程のものだと思った。
案内された部屋は思ったより広い。中央にはベッドが置かれている。部屋の壁には窓が見当たらなかった。くるりと見渡し上の方をみるとようやく小さな窓があるのを見つけた。他にあるのは出入り口の扉のみである。
「飲み物や食べ物はここから提供いたします」
スタッフが観察室のことについて説明をし始めた。扉の方を示すと下の方に小さな窓がありそこが開け閉めできるようになっていた。だが、開けられるのは外からのみである。
「欲しいものがあればこの紐で鈴を鳴らしてください。すぐに対応できるようにいたします」
ベッド脇に紐がぶらさがっており、先の方をみると天井へ向かっていた。鈴というものは見当たらないのだが、スタッフがそれを何度も引っ張りだすと別の場所からからんからんと音がなった。紐で連携された他室にある鈴がなるような仕組みのようである。
「あとは入浴時間があります。あなたは午後の6時頃とさせていただきます。それでよいでしょうか」
「入浴させてくださるんですか?」
「ええ、その間だけ部屋から出ることが許可されます。ただし、三人程見張りをつけさせていただきます。ああ、ご安心ください。見張りは女性スタッフにするように配慮しております」
椿のように異端者になったかもしれない者はある程度の配慮は受けられるようにしているようであった。 彼らとしては好きで疑われるような状況を作ったわけではないのだから、当然の権利であると検査室のスタッフは語った。
もっとぎちぎちに幽閉されるのかと思ったので椿は肩を落とす。
「あと、これを」
スタッフは椿に一冊の本を差し出した。
「物語に興味があるとのことで私物ですがお貸しいたします」
「よろしいのですか?」
「はい」
椿はおそるおそると本に触れた。開くとい多くのイラストがちりばめられていた。
「翻訳ものですので少しわかりにくい部分もあるかもしれません。ですが、絵がたくさんありますのでそれで楽しめるかと思います」
「ありがとうございます」
椿は頭を下げて礼を述べた。
「ところであなたの名前は」
「ああ、申し遅れておりました。マルク・ヘッセといいます」
スタッフのマルクは丁寧に自己紹介をした。
「いろいろありがとうございます。マルクさん」
「いえ、ヘル・エーデルシュタインからあなたのことを重々頼まれておりますので」
「ヴィル様に?」
「はい、先ほどこの部屋をみてはあちこち触れていろいろ質問責めされました。あなたのことをとても大事にされているようで」
「………」
椿はぎゅっと本を握りしめた。自分が苦痛に感じるかどうか、観察室を何度も確認してくれたのだ。
「しばらくは窮屈かと思いますが、検査の結果がでるまでの辛抱です」
「いえ、色々配慮していただいて………それに組織内の決まりなら仕方ありません」
椿は検査や観察室でのことに関しては協力的であった。ここまで配慮されている上に3日間の制限をつけてもらっているのだ。ある程度の協力はしておかなければと感じていた。
◇ ◇ ◇
観察室の壁には通常の高さに窓は設置されていない。高い場所に小さな小窓があるが、それは日を差し込む目的のものではなかった。観察室のある棟の上の階に観察室の中を観察するための部屋がおかれていた。そこに窓がとりつけられており、開けると部屋の中を見下ろすことができる。あくまで観察するために設置された小窓であった。
検査室のスタッフのマルクはそのひとつを開け、今入所している少女の様子を伺った。
すでにベッドの中にくるまり静かに寝息をたてている。
あどけない表情でとても800年以上を生きた女性とは思えなかった。
日中の検査のときも慣れておらず不安そうにあたりを見つめる姿は迷子の少女のようにみえた。
しばらく姿を観察し、マルクは記録に記載をする。特に異常行動は認められないと。
記録を終えると、検査室の一室へと移動する。そこにはまだ作業をしているスタッフが数人おり、彼らはプレパラートに日中採取した血を固定し、さまざまな溶液で染色したものを整理していた。染色の液体は鉱石や動物の血から作ったものが多い。中には異端者の血を元に精製したものもあった。
これにより採取した検体にどのような反応が起きているか確認をするのだ。
「今二十枚程仕上がりました」
ボードに並べたガラスの板をみてマルクは肩を竦めた。
今から何百ものプレパラートが完成し確認しなければならない。顕微鏡という小さなものを拡大する器具を使用して。
これがかなりの労作業で目と肩が疲れてしまう。
だが、3日で仕上げなければならない。ヴィルヘルムからの要求は検査の結果を3日で完成させることだから。
かなりの無茶なスケジュールをスタッフに強いるが、まだ彼の要求は肉体的にできないことではないのでましな方といっていいだろう。別部署からは1日で仕上げろといわれることはよくある。中には半日でしろという鬼までいるのだ。さすがに半日は人材不足なので無理だとつっぱねるが。
「あ、そっちはもう確認したよ。通常の血球の数は問題なかった。形も色も悪くない」
奥ですでに顕微鏡で作業している男の声にマルクははぁとため息をついた。示されたボードをみてそれを自分の作業場に置く。自分の顕微鏡ですでに確認済みだといったガラスの板を確認していた。
「信用ないなぁ」
「二重確認はしておいた方がいい」
それもそうだと男は笑った。
「不思議だよねぇ。こうしてみると普通のサンプルなのに。あの驚異的な治癒能力のメカニズムはどうなっているんだろう」
続く軽口にマルクはほぼ反応せずもくもくとプレパラートを流す。色合い、形状、数をチェックしては別のプレパラートへうつす作業である。
「折角の入所なんだからもう少し調べてみたらどうかな」
「彼女の同意が得られればな。が、今日の検査の最中でもかなりの緊張状態だった。へたな無理強いはよくないだろう」
「真面目だなぁ。マルクは」
「お前はもう少し真面目にしてはどうだ。ハンス」
ようやく名前を呼ばれハンスはにこりと笑った。美しい外見と柔らかい物腰で検査室の中にすぐに溶け込んだ適応能力はかなりのものだ。この検査室に預けられてから1か月もたっていないというのにすでに検査室の仕組みを理解し、メインの検査をこなすことができるようになっていた。つい気を許しそうになるが、断じて許してはならない。マルクは頭の中で警鐘を鳴らしながら目の前の男を睨みつけていた。
この男はすでに何人もの若い女性を殺した狂人なのだ。
いや、人というカテゴリーにあてはめてよいか疑問が残る。
ハンス・フランケンシュタイン。
先日、ヴィルヘルムがあたっていた貴族令嬢失踪事件の犯人であり、少なくとも三人殺している。手法は鉄の処女という拷問器に令嬢を放り込むこと。動機は自分の伴侶に相応しい肉体かどうか、という。
マルクからしてみればそんなことで三人も殺すのかと理解できないものであった。
捕縛された後に連れてこられたのは観察室の奥にある隔離施設である。そこで彼は数週間幽閉された。マルクは彼の診察を行い、血を採取してそれを研究材料にすることであった。彼の肉体について調べていくうちに彼がいろいろと自分のことを話すようになった。寂しがり屋なのか、マルクがくると嬉しそうに話してくる。自分の作り方についても断片的であるが、覚えている範囲のことを教えてくれた。気づけばマルクの指示にはある程度聞くようになってしまっていた。
そこで公命が下った。
ハンスを研究の助手として働かせると同時に監視し人の世界に適するように指導を行うようにと。
銀十字の研究分野は進んでいる方であったが、研究議題は年々増えていく一方で人手が足りなくなっていった。そこでハンスという人材が目をつけられることになった。調べていくうちにマルクに懐いているようであり、彼の指示には素直に聞くようである。
ハンスの教育係を任されてしまいマルクは頭を抱えた。
実際は助手が欲しいとこぼしていた時期もあった。論文を集めて整理してくれたり、研究の下地を手伝ってくれたりしてくれる存在が欲しいと思っていた。しかし、まだ若年の身で言えるわけがなく研究議題は一人でこなすこととなっていた。同時に検査室の仕事もしなければならない。観察対象の異端者や人の面倒もみなければならない。家に帰ることはほぼなく検査室と観察室がある建物でほぼ過ごしており、一角の空きペースにソファを持ち込みそこで寝泊まりする始末であった。
ハンスが来てくれて実際は助かっている。
上に感謝すべきなのだろうが、贅沢をいえばついこの前殺人を犯した怪物ではなく通常の人の方がよかった。指導の手間はかかるが精神的に楽だった。
気づけば検査室にはマルクとハンスの二人だけになっていた。すでにほとんどの技師や研究員は自分の仕事を終え、検査室を後にしてしまったのだ。
「それにしてもこの量を3日で仕上げるなんてもう少し余裕もった期間設けてもよかったんじゃない?」
「3日が条件で彼女を観察室に入れたんだ」
3日の間に採取した血液を調べぬく。それで問題なければ、彼女は解放される。
マルクとしても十五の娘が外界から遮断された場所に隔離されているのはあまり面白くないものであった。しかし、ここで例外を作ってしまえば可能性が低いかもしれない人たちにも適応されてしまう。だいたいは問題ないが、後で異端者になっていたと判明した人を野放しにしていたことになる。今はよくても将来問題になるかもしれないことを見放すことはできなかった。
その分観察室に入った人にはできる限りの配慮をするのが任された自分たちの職務だと考えている。
ことりと傍に良い香りのものが置かれた。みればコーヒーであった。
いつの間に淹れたのかハンスがコーヒーを置いてくれたようである。
「どうぞ」
顕微鏡から目を放し、少しだけ視界がくらりとした。ずいぶん長い時間顕微鏡を睨みつけていたようである。
「ありがとう」
マルクはそのコーヒーをもらった。丁度良い苦みであった。飲んだ時のマルクのわずかな仕草と表情をみてハンスは満足して自分の席についた。
数日のうちに彼はコーヒーの淹れ方を覚え、濃さと温度でいろいろ試しマルクの好みを把握していったようである。
根は悪人ではないんだろうというのはマルクでも理解している。
怪物故に倫理観がうまく作られていないのだろう。
であれば、今後どう成長するかは彼の監督を任されている自分次第なのだろう。
できれば実験や研究だけに没頭しておきたいが、誰かがしなければならないこと。その誰かが自分だったというのならば仕方ない。
「ねぇ、折角の機会だし椿を実際実験室に連れてきていろいろ試してみたらどうかな」
コーヒーを飲みながらふと出た提案にマルクは顔をしかめた。
「それはない」
確かに興味深い存在である。傷を負ってもすぐに治癒する能力はどうなっているかというのは研究者として興味ある。解析次第では医学の進歩に繋がるだろう。
だが、そのためには椿自身が傷を負い治癒する場面を研究者にみせる必要がある。
おそらく彼女のような性格であれば強く頼み込めば協力は得られるかもしれない。
しかし、それは無理をさせているということであり、彼女を心配するヴィルヘルムがもっとも嫌がることであろう。
必要があればベルンハルト公爵から提示があるだろうが、それはない。であれば必要以上に推し進めるべきではないだろう。
そう説明してもハンスは首を傾げた。
「変なの」
「では聞くがお前自身研究のために腹を裂かせてくれとか、骨格がどうなっているか解剖してみたいとか言われたらどう思う?」
極端な例であるが、明らかに嫌だと思うものをあげた方がいいだろう。
実際この怪物も必要があればその研究対象になる。しかし、血の採取と簡単なレントゲン検査で終了していた。一応、男爵の地位を持つ貴族でありそれなりの配慮が行われているのだろう。
「別に、必要なら好きなように調べればいいじゃないか」
彼はけろりと答えた。
「痛いぞ。痛いのはいやだろう」
「いやだけど、必要なことなら仕方ないよ。それに僕は生まれた時に何回も手術を受けていたし多少の痛みくらい我慢できるよ」
彼がマルクの傍にいるようになってから彼は聞いていないのに自分のことを話すようになっていた。生まれたての頃はひどく醜い姿で、彼を作成した学者たちは化け物と呼び蔑んできた。
実の父である先代フランケンシュタイン男爵もはじめ彼を見たとき醜いものと感じていたらしい。しかし、わずかな子の面影を求め先代男爵は何度もハンスの体に手術を施し醜い部分を修正していった。その際に裏社会から入手した異端者の血肉も使用していたという。おかげでハンスは美丈夫の姿を手に入れたという。
その過程の手術はかなりの苦痛を伴うものだったらしいのでハンスは必要なものであれば実験対象になっても別に構わないという態度であった。
「………痛いのは嫌なんだよな」
「嫌だけど?」
「なら嫌だと言えばいい。そして嫌なことを他者に強要するものではない」
子供に言い聞かせる言葉を聞きハンスはぷくくと笑い出した。
「ふふ、わかったよ。君がそういうのならそうするようにするよ」
果たして理解したのかはわからない。だが、マルクの言葉は耳に貸すと言ってくれた。今はそれでよいだろう。
あと、必要以上に彼女に近づかないようにと釘をさしておいた。今は大丈夫だと思うが、あの事件の主犯と被害者である女性が出会うのはあまりいいものではないと思った。
「そうだね。彼女に近づいたら多分あの人、僕を殴りにくるからしないでおくよ」
あの人というのは誰か、確認する気になれないがマルクの言葉にまた耳を貸してもらえたのでこれ以上は何も言わないでおいた。
観察室に入って2日目であるが、特に窮屈とは感じられなかった。外界への出入り口は限られたが圧迫感はあまり感じなかった。もう少し狭い部屋の方が多いという。
入浴時間もほぼ通常通りの時間帯を指定してくれており、ときどきお茶とお菓子を届けてくれていた。
彼らなりの配慮を感じ取れていた。
自分の担当者であるマルクは眠たげに挨拶をしてきた。3日の間に自分の血を調べ廻ってくれているという。ほぼ目と手を使った作業にであり、たいへんそうである。
「あの、無理なさらないでください。多少日数が過ぎても大丈夫ですので」
「そうはいかないよ。私もこのように若い女性を陰気な部屋に閉じ込めるのは良心が痛む。自分がこうしたいのでしているというだけで気にしないでほしい………そうだね。もし、間に合わなかったらヘル・エーデルシュタインへの謝罪の場で庇ってくれると助かる」
そんな軽い口調で言われ椿はこくりと頷いた。他に応えるものが見当たらなかった。
昼食が終わった頃にヴィルヘルムとクラウディオが訪室してくれた。
いろいろと心配してくれたが、それでも大丈夫と笑った。
「思いのほか快適でしたし、よく配慮してくださります」
不満などなかった。
「そうか。何かあれば遠慮せずにいうように。嫌なことを提案されれば気にせずいいえを貫け」
押しに弱い性格であると知っている故の言葉であった。思わず椿は頬を緩ませる。
「大丈夫です。いろいろと心配してくださりありがとうございます」
「あと、これを」
ヴィルヘルムは赤い表紙の本を一冊椿に渡してくれた。
約束していた物語であった。そして一本の薔薇が添えられていた。
ここに入る前に言われた約束を守ってくれたのだ。
赤い色の薔薇をみて椿は嬉しそうに笑った。
「どこでこれを」
「庭のものを摘もうと思ったが、渡す直前に手折るのがよいとこの銀十字の庭に咲いているのを一輪いただいた」
ここを訪ねる直前に庭の方へ行き、庭に咲く薔薇を一輪管理している庭師にお願いしていただいたという。
「わざわざありがとうございます」
椿は薔薇を胸にあてた。
嬉しかった。
約束を守ってくれて。
こうして彼自ら選んだ花がとても愛しい。
「気に入ってくれてよかった。後1日で出られるように頼み込んでいるから」
「あの、私は大丈夫です。皆さまの仕事に支障をきたすのに比べれば少し日がたとうと構いません」
それを聞きヴィルヘルムは苦笑いした。
「大丈夫だ。気にしなくていい」
そういい椿の髪をなでる仕草はとても優しいものであった。
部屋を立ち去った後、ヴィルヘルムは検査室へと入った。入り口の方でスタッフに呼び止められ、別の部屋へ案内された。
しばらく待っているとマルクが部屋へ入ってきた。昨日ろくに眠っていないようで気だるげにしている。
「今のところどうだ」
「異常と思われる個所は見当たりません。吸血鬼になったものの血を元に作った試薬でも反応は今のところ認めませんでした。といっても試薬の半分程度しか試しておりません。1日以上の時間変化もみておきたいですし、それで何もなければ検査は修了です」
今のところ彼女が吸血鬼になった可能性は低いと考えてよい。
その検査の作業が終わり、その間に椿の身に異変が起きていなければ問題ないと判断するとのことであった。
「そうか。すまないな。無理をさせて」
「いいえ。貴族からは無理な注文をつけられることはよくあります。3日は不可能ではない方の期限なのでぎりぎりまでさせていただきますよ」
その代わり後でしっかりと時間外手当を請求する書類を提出するとマルクは言った。それには資格者の印が必要であり、ヴィルヘルムにその印を押してもらうように催促するというものであった。無論そうしようとヴィルヘルムは頷いた。
「しかし、不思議ですね。本当にごくふつうの人の血と変わりません」
マルクは感心したように椿の血を固定化したプレパラートに光を中ててみた。
「血球の形、色合い………健常な人そのものでした」
「………よいことではないか」
「不老不死の魔女というから少し知的好奇心が沸き上がってきていたんですが………」
一瞬ヴィルヘルムは不快そうに表情を曇らせた。
「あ、申し訳ありません。ですが、研究員としてはどうしてもそのね」
異端者と呼ばれる者の生態を研究しているマルクには椿はさぞかし素敵なサンプルにみえただろう。そう思うと面白い気がしない。
「あの、ですがこのまま集められた情報をまとめあげれば彼女が吸血鬼になっていないと証明になりますよ」
期限つきであるがだいたい片はついているとマルクは機嫌をとるように言った。
「そうか。それはよかった。早急にまとめあげてもらおう」
「………」
マルクは目をぱちぱちさせて改めて口にした。
「本当に彼女のことを大事に想っているんですね」
「ああ、求婚相手だからな」
その言葉にマルクは飛び跳ねた。
「そんな驚くことか」
「驚きますよ。いや、あなたがまさか女性にそのように………いえ、椿さんに対するあなたの態度をみて何となく察していましたが」
「勿論まだ公にはしていない。遠い国から無理やり連れ出された女性だからな………素性が曖昧になっている。その辺をきちんとしなければ………」
そのための根回しをしている最中だとヴィルヘルムは言った。
「いいか。くれぐれも他言するなよ」
そんな大事な内容をよく一研究員にいえたものだとマルクは思った。
「ええ、私はプライバシーには気を遣う方なのでご安心ください」
そういうとヴィルヘルムは静かに部屋を後にした。
「驚いたなぁ」
物陰に隠れていたハンスがいつもの飄々とした顔で姿を現した。
「全く、急に物陰に潜んだと思ったら」
「いやぁ、僕は彼に嫌われていてね………ほら、その椿に乱暴しようとしたし」
乱暴どころか虐殺しようとしていたのだから笑えない。
本人としては別に殺すつもりはなかった。椿程の治癒能力があれば死ぬことはないと確信していたから。
「まさか、この短期間で……いや、あの社交界でただのホストと客人とは思えない雰囲気だったし」
納得したようにハンスは頷いた。
「ところで、………」
「なんだい。今から書類の作成の大詰めに取り掛かるんだ。暇なら手伝っておくれ」
「おやすいごようさ。それでね」
書類に手をかけるハンスはすらすらと書き記す。本当に有能な助手でありマルクは複雑に思う。
「彼女の新鮮な血を少しもらいたいんだ」
「初日に随分採ったつもりだけど」
「うん、だけど時間が経っててね。新鮮なとりたての血を少し………5ccでもいいから採れないかな」
一体何を考えているのだろうか。それともマルクには考えられないことを思いついたのだろうか。
5cc程はそこまでたいした量ではないが、医療行為に不慣れな人間には血管に針を刺すという行為は辛いものだろう。
「彼女が同意してくれるのなら」
あとで交渉してみるが拒否されたら諦めるようにと言った。
「大丈夫だよ。あの子はとてもお人よしだから、少しちくっとするくらいは我慢してくれるよ」
まるでわかっているような言い方である。
ハンスの言う通り、椿は血を採取することに協力してくれた。
「拘留といってもとても快適に過ごさせていただいています。あなたの研究のお役に立てるのであれば少しくらいならよいです」
そういい差し出すバターのかかった白い手はとても何百年も生きた女性のものとは思えない程瑞々しかった。針を出し、彼女の腕へとさすと同時に彼女は目をぎゅっと閉ざした。快く引き受けても針は恐怖の対象なのだろう。それにしては青白い。
「大丈夫か?」
そう聞くと彼女はふらりと倒れこんだ。
真っ暗な船の中、物置小屋だったものを牢獄のようにあてがわれそこで乱暴を受けた。椿の治癒能力をみて丁度よい玩具にする者たちであった。彼らは椿をテーブルの上で拘束して針を刺していく。腕に足に腹に……ちくちくと痛む感触。裁縫道具用の針であった。それほど太いものではないが、刺されると痛い気分が悪い。泣き怯える椿の姿を彼らはおおいに楽しんでいた。
目を覚ますとベッドの上で寝かされていた。施設の椿にあてがわれた部屋だ。自分はもう船の中にはいない。ここは自分を保護してくれた銀十字の建物なのだ。
ああ、嫌なことを思い出してしまった。少しでも役に立とうと思ったのに。
こんな自分は嫌になってしまう。どうして一瞬だけのことに我慢ができなかったのだろうか。
かさりと紙の音がした。部屋のテーブルとイスでくつろぐマルクの姿があった。彼は静かに本を読んでいた。
「あの」
椿が声をかけるとマルクはああと頷いた。
「どうだい? 気分はまだ悪い?」
「いえ、あの………私」
「軽い低血圧発作を起こしたんだよ」
そういい彼は椿の額に触れた。ひんやりとして気持ちが良い。
「あの、血を採っていただけず」
「大丈夫。君が眠っている間に少しいただいたよ」
少し待っててとマルクは部屋の外へ出て、しばらくしてティーポットとカップをもってきた。カップにお茶を注ぎ込む。紅茶とは別の不思議な香りのお茶だった。
「ハーブティーさ。施設内で栽培しているのを調合している」
渡されたお茶をひとくち飲む。少し甘い感じがする。
「苦味があるから、蜂蜜を少しいれているんだ。少し飲みやすいだろう」
「はい、美味しいです」
その甘さに椿はほうと息をついた。
「すまなかったね。怖い思いをさせて。酷く魘されていた」
まさかそんなに針に恐怖心を抱いていたとは。
「少し針が肌に刺さるのは苦手です。すみません、驚かしてしまって」
「当然だ。私も注射は苦手だからね」
「そうなのですか?」
「ああ、得意な人間などそうそういない。自分が採られる側になると一瞬で終わらせてくれ頼む頼むと縋っているんだ」
成人男性ががくがくぶるぶると自身を抱きしめる姿をみて椿はくすりと笑った。
「よかった。少し元気になったようだね」
マルクはにこりと笑って椿の頭を撫でた。
「あの」
「ああ、すまない。私より年上の淑女に失礼だったね。いや、若い姿のもので里の妹くらいに感じてしまいついね」
「妹さんがいらっしゃるのですか?」
「ああ、最近は少し世間のことを知るようになって生意気になってしまった」
残念なことだとマルクはため息をついた。
「ふふ、仲がよいのですね」
「悪くはないかな」
しばらく妹の話で場が和んだ。マルクの妹はお転婆で木登りが得意だとか、最近は海外の恋愛小説を読んでは少し大人っぽくしようとしているとか、研究員でずぼらな兄の将来を心配して余計なお世話だとかそんなどうでもよい話であるが椿にはそれが楽しく思えた。
どこの世界でも兄弟というものは同じなのね。そういえば、ヴィル様には兄弟はいるのかしら。
今まで気にしていなかったことであるが、椿はふと気になってしまった。家にはヴィルヘルムと執事のヨーゼフと友人のクラウディオの三人しかいない。椿を含めれば四人であるが。
ヴィルヘルムのことを慕っているがヴィルヘルムのことを知っていることが少ない。
約束の日が訪れて椿は解放された。研究所から作成された書類により彼女は吸血鬼にはなり果てていないと証明された。
たった3日の間であるが、ヴィルヘルムは急ぎ椿を家に連れ帰った。
たいした過保護っぷりである。
それでも短期間とはいえ求婚相手が吸血鬼容疑をかけられ拘留されたのだから気分いいものではないだろう。
この3日間のことを思い出す。彼女は本当にふつうの娘であった。ごくふつうの。
何百年も生きていると言っても老成した雰囲気はない。どこかで心の成長が止まったのではと思う程純粋であった。体と一緒にとまってしまったのだろうか。
「ふふふん」
楽しそうに鼻歌を謳うハンスにマルクはため息をつきながらどうしたのだ上機嫌だなと声をかけた。
「いやぁ、思っていた通りのものが見つけられてね」
ハンスは新しくつくった何枚ものプレパラートを示した。数字が、時間がふってある。
「採取後1時間で死滅する微生物を見つけたんだ」
「は?」
何をいっているのか理解できない。
「10分毎にプレパラート固定化をすませて、同時に数滴を吸血鬼の血と混ぜてみた」
固定化したプレパラートには極小の微生物の検出を認めた。それはどこにもみたことのない形で金平糖のような形をしていた。
顕微鏡を示されると確かに薄青く染められた小さな形が認められた。1時間後、それ以降に固定化されたものにはない。
「確かに新しい発見だ。これはいったい………」
「椿にしか持たない特殊な微生物というものだよ。強力な治癒能力を有する原因とも思える」
吸血鬼の血にも同じように微生物が存在していた。だが、椿のような形のものではない。粉雪の結晶のような形をした小さな微生物であった。まだ研究途中であり発表はされていない。マルクはこれをVと呼んでいた。
「吸血鬼の微生物Vが活性化したんだ」
ハンスは楽し気に話した。
今まで鎮静化していた微生物が突然活性化して元気に動き回っていた。
「ほら見てごらん」
言われるままに別の顕微鏡を示される。そこを除いてみると採取後静かだった微生物Vが元気に動き回っていた。それどころか数が増えている。
これをみてマルクはぞっとした。
「椿さんは吸血鬼とは別の微生物を持っている。それは吸血鬼の血を活性化する」
混乱する頭の中で考えたことをマルクはそのまま口にする。それにハンスはこくりと頷いた。
「つまり椿の血自身は吸血鬼を強化する素敵な餌だというわけさ」
彼女の血の味を覚えた吸血鬼はまた椿を求めてやってくるだろう。魅せられたように。
不吉な予言をしながらハンスは楽し気に笑った。




