エピローグ 瓶詰め
『そうか、そうか……恭介君、手間を掛けたな』
受話器の向こうの佐田の声は一気に老けたように恭介には感じた。
「いえ。依頼された仕事ですから」
『そうだったな……頭の痛いことだ……』
「私が言えることは、松島所長が犯人であり、志信さんは関係ないと言うことです。詳しくは山梨県警の猪熊刑事に照会してください」
『ふうっ、それだけでも十分だ……それとな……』
佐田が奥歯に物が挟まったように
『こちらから持ちかけておいて、申し訳ないんだが、あの話はなかったことにしてくれないだろうか』
(あの話?業務提携のことか?なかったことになるなら万々歳だぞ)
「いえ、商売は水もの。流れるときは流れるものです」
『ふっ、水ものか……上手いことを言う。そうだな、これはこれでいいのかも知れんな……』
「そうですよ。今回の報告書は後日、お持ちします」
『いや、君も忙しいだろう。郵送で構わん。それとな、今回の代わりは用意するから、それで許してくれ』
「お気遣いには及びませんから」
『まあ、そう言うな……今回は世話になった。ありがとう……ではな』
「はい、佐田さんもご健勝で」
恭介は電話を切った。
「狸も引退は先だな」
ヴァレリーが毛繕いしながら言った。
「暫くは落ち着けないでしょうね」
藤堂が恭介に紅茶を供しながら答えた。
「どうした、恭介」
「佐田さんから代わりを用意するって言われた……これ以上、仕事増やされたら過労死するぞ、俺」
真っ青になる恭介にヴァレリーと藤堂は顔を見合わせると深いため息を吐いた。
サンライズにおける今回の事件は大手企業の社員による横領殺人ということもあり、マスコミによって大々的に報道された。当然、企業のイメージは大きく傷つき、株価が一気に下落した。
会長の佐田は包み隠さず全てを公表し、言い訳を一切せず、謝罪と対応に徹した。その商品にも通じるその誠実と潔いい姿勢は、次第に世間に受け入れられ、下落していた株価も以前と同水準まで回復した。
世間が少し落ち着いた頃に、サンライズ創業家の孫娘が会長秘書と婚約したとのニュースが経済界に流れ、秘書が玉の輿に乗ったと騒がれた。
一条寺家にある一本の桜木に数えるほどの花が綻んだ日。
空が晴れて、日差しがのどかに感じられる春の様子を感じることもなく、恭介は黙々と書類にサインをし続けていた。
未決済の書類が黒塗りの箱には小山をなしている。
(終わるか?終わるのか?)
時間が惜しいとばかりに、昼食は片手で摘めるサンドイッチとカップスープ。
照り焼きされたチキンやトマト、レタス、きゅうりの具のサンドイッチはビールを片手に食べたらさぞ美味かっただろうにと思わせ、春野菜のポタージュは中の刻まれた野菜がアクセントとなっていい食感を出していた。
恭介はちらっと時計を見た。
壁に掛けられているアンティークな時計は二時を回っている。
「三時半迄にお願いいたします」
脳裏に凄味のある笑みを浮かべ、そう言った藤堂の姿が浮かんだ。
ぶるりと背筋を震わせる。
(やるしかないぞ)
恭介はねじり鉢巻を締め直し、書類に向かった。
いつもなら窓際で寛いでいるヴァレリーを見ては羨んでぶつぶつ言うのがお決まりだったが、それすらも惜しいとばかりに書類を手に取り、処理をしていった。
時計が三時二九分を指したとき、最後の一枚にサインを終えた。
(やった……やったぞ、俺はやりきった)
なんとも言えない充足感に恭介は浸った。
壁の時計が三時半きっかりになったとき、ノックの音がし、藤堂が入ってきた。
六切サイズの写真台紙の山が藤堂が掲げる銀のトレイに載せられていた。
(二十センチ近くありそうだな……もしや、あれは、なにかの資料なのか?)
この上、まだ、仕事かと恭介の充足感は三分で散った。
社畜という文字が恭介の脳裏を掠めた。
藤堂は恭介の前に銀のトレイを置く。
「ご確認を」
顔を引き攣らせながら恭介は尋ねた。
「あの……これは?」
「お写真でございます」
「はっ?なんの?」
「お見合い写真でございます」
「なんで?!」
「佐田会長がお声をかけられたためでございます。恭介様、ご確認を」
(急に見合いって言われてもな……まさか……)
「藤堂さん、もしかして、佐田さんが代わりって言っていたのは、これですか?」
藤堂が笑みを浮かべ肯定した。
ヴァレリーは誂いを隠さずに恭介に
「やれやれ、人も春になると騒がしいな」
そう言うと、にやにやした表情をしているとしか見えなかった。
「うるさい。お前、愉しんでるだろう」
「他人の恋愛ごとは、周囲には最高の娯楽だからな。どれ、私が選んでやろう」
揶揄するヴァレリーの前にも藤堂により写真の束が置かれた。
「藤堂、なんだこれは?」
「こちらは、ヴァレリー様へのものでございます」
藤堂が微笑を浮かべたまま、静かに言った。一番上の表紙をめくると血統書付きらしい猫の写真。
「……」
ヴァレリーの表情が固まった。
滅多に見ないそれに今度は恭介が誂う。
「選べないなら、俺が選んでやろうか?」
にやにやと笑う恭介にヴァレリーはひと言った。
「選ばずとも、猫だから問題はない」
庭の桜が一輪咲いた。




