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プロローグ ドメーヌ――夢の葡萄畑

 浅間山から吹き下ろす風は、八月下旬になると、どこか乾いた秋の気配を孕み始める。

 八月の強い西日が、傾斜したブドウ畑を容赦なく照りつけていた。

 ブドウ棚が並んだ畑では父母を始め、数人の従業員が作業をしていた。

 静かな畑に「チョキン、チョキン」とブドウの枝を切る音が響く。

 青々と茂る緑の葉の間にはブドウの実がなっていた。

 自分も手伝った『葉むしり』のおかげで、風通しの良くなった垣根の間に、メルローの房が綺麗に並んでいる。

 信一は額の汗が流れるのを肩口で拭った。


「おい、信一。見てみろ」


 父の博之が弾んだ声で息子を呼んだ。

 屈み込んでブドウを覗き込む博之の麦わら帽子の隙間から、日焼けした頬が緩んでいるのが見えた。

 博之の手のひらの上にある房は、昨日まで硬い緑色だったのに、いくつかの粒がほんのりと葡萄色――透き通るような赤紫に染まり始めている。

 赤ワインになる房だった。

 毎日、台風やカビの心配ばかりして気難しい顔をしていた博之が、今はまるで欲しかった玩具を手に入れた子どもみたいな目をしている。

 ブドウのヤニで黒くなった自分の手をポケットに突っ込みながら、信一は、嬉しそうな父の横顔をじっと見つめていた。

 少し離れた場所で作業をしていた清子が弾んだ声で二人を呼ぶ。

 シャルドネの木々の間を抜けて、清子の元に行った。


「ほら見てよ」


 清子は自分の手柄のように夫、博之に糖度計を見せた。


「おお、よし。いいぞ。かなり上がってきているじゃないか」


 清子の首にかけられていた糖度計から目を離し、博之は満足そうに小さくガッツポーズをした。

 清子が絞り出した甲州ブランの果汁は、太陽の光を浴びて、ガラスのように綺麗な琥珀色に輝いていた。清子が傍らで見ていた信一の口にブドウの実を一粒入れた。

 信一の口の中にじゅわっと強い甘みと、目が覚めるような鮮烈な酸味が広がる。

 この品種はここでしか育成されていない。

 毎日、学校が終わるとカゴを抱えて畑に入り、気が遠くなるほどの数の房を間引いてきた。泥と汗にまみれた夏休みだったけれど、父母のあの嬉しそうな笑顔を見るだけで、自分の手のひらの豆の痛みなんて、どうでもよくなってしまうのだった。


「父さん、今年は白に力を入れてるんだ」


 信一は何げなく博之に尋ねた。


「今年はな、父さんと母さんのいままでの夢が叶うんだ」


 博之は楽しいいたずらを企んでいるような表情で答えた。


「なあ、信一」


「なに?」


「一生懸命手をかけてやれば、葡萄は嘘を吐かないんだ」


「なんだよ、それ?」


「ははは、まだ分からないか……お前にもそのうち分かる様になるさ」


 そう言って博之は目の前のブドウ畑に目を細めて笑った。


「いつか、お前にこのブドウ畑をやるからな」


 信一は顔を顰めた。


「毎日こんな暑い中で働くなんて嫌だ。いらないよ」


「いいや、俺の子だ」


 博之は信一の顔を見た。

 少しだけ目を細める。


「絶対に欲しくなる」


 博之は確信めいた表情をして笑い、目の前に広がる葡萄畑へ視線を向けた。


「だから、一緒に守れよ」





 人気のないワイナリーの裏手に二人の男が立っていた。


「このままじゃ、このワイナリーも危ないんじゃないのか」


 背の高い痩せぎすの男がいう。


「あんただって、マスコミに公表された終わりだよ」


 作業着を着た固太りした男が言い返した。


「そうさ、だからあんたに話しているんだよ」


「……」


「私が少し噂を流し、あんたはちょっと手を加える。それだけでいいんだよ」


 作業着の男の拳がぎゅっと握られた。

 それから数日後、小諸の小さなワイナリーの不穏な噂が広がった。




「ない、ない……ここに置いてあったはずなんだ」


 ワイナリーの事務所の机の引き出しが開けられていた。

 家探しされた後のように書類や伝票が床に散らばっていた。

 博之の顔から血の気が失せる。

 ぼろぼろのノートに目をやる。


「あれがなければ……このノートだけじゃ……」


 些細な噂や不当な評価により滝沢ワイナリーの経営は暗礁に乗り上げていった。

 だが、長年試行錯誤してきた新酒を発表することですべて払拭でいるはずだった。

 十年近くかけて書き綴ってきたその新酒の製造方法を記した工程表がなくなったのだ。

 博之は膝から崩れ落ちた。

 祖父から受け継いだワイナリーを手放すのか……

 手放したところで残る負債は億に近い。

 返す当てなどない。

 あの夏の日までは山吹色に輝いていた夢が、音もなく真っ暗に染まった。


「父さん……どこに行ったんだよ。久島さんがきているのに……」


 すぐそこで自分を探す息子の声が、なぜか遠くに聞こえた。

 あの子に自分の債を負わせてはいけない……

 開け放たれた窓から浅間山が見えた。

 カラマツの紅葉がピークを迎え、山頂付近では初冠雪を被っていた。




 読経が流れる中、喪主の叔母と叔父の横に座った信一は父が毎日書いていたノートを膝に置いて、両親の遺影を眺めていた。


「今年はな、父さんと母さんのいままでの夢が叶うんだ」


 あの日の嬉しそうな父の声が聞こえた気がした。   

 信一は笑っている父の遺影を見た。


 ”……嘘つき……”

本日より、新シーズンとして始まりますので、お読みいただければと思います。

本日は2話投稿となり、毎日18時投稿となります。

評価をいただければありがたいです。

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