第40話 血と炎の覚醒
ジュリアは走った。
ルミアの手を引き、ただひたすらに。
目指す先は、シモンに示された――テラノス邸の私兵たちが待つ方角。
一か八かではあったが、敵と遭遇する可能性を徹底的に排し、最短距離を選んで駆け続けた。
ルミアの肩は小刻みに震え、足取りもおぼつかない。
それでもジュリアは、その手を強く握り締め、何度も声をかけ続ける。
「大丈夫。怖いのは、私も同じ。でも……だからこそ、一緒に帰ろう。街まで」
その言葉に、ルミアは涙を滲ませながらも、小さく頷いた。
二人は並んで、拓けた平地を超え、森の入口へと駆けていく。
夜気は冷たく、草木の擦れ合う音が、まるで追っ手の囁きのように、二人を包み込んでいた。
枝を踏み、落ち葉を蹴散らしながら、二人は走り続けた。
夜の森は容赦なく、足元は暗く、根や石が進路を阻む。それでもルミアは立ち止まらなかった。
小さな背中は、懸命に前へ進んでいる。
息は荒く、肩は上下し、今にも崩れ落ちそうなのに――それでも足を止めない。
「もう少し……ほら、見えてきた」
ジュリアはそう声をかけながら、歩幅を合わせるように走った。
引いていた手を離さぬまま、速度を落としすぎないよう、しかし無理をさせないよう、細心の注意を払う。
ルミアは唇を噛みしめ、頷きもせず、ただ必死に走り続けていた。
その姿が、胸を締めつける。
「すごいよ、ルミア。ちゃんと走れてる」
励ますように、そう告げると、ルミアの指先がわずかに強く握り返された。
それだけで、十分だった。
やがて、木々の隙間が開け、視界の先で闇の濃淡が変わる。
森の終わり――入口が、確かにそこにあった。
「見えた……!」
声に出した瞬間、ジュリアはようやく胸いっぱいに息を吸い込む。
だが、現実はそこまで優しくはなかった。
背後から、一際甲高い、獣じみた嬌声が響く。
その主は木々の間を猛然と駆け、あっという間に二人を追い抜いたかと思うと、目の前に躍り出て、獣じみた笑い声を撒き散らした。
半ば砕けた仮面の隙間から荒い呼吸が漏れ、血走った瞳には、常軌を逸した殺意だけが宿っている。
そこに理性の欠片はない。
ただ「追い」「喰らう」――獣としての本能だけが、剥き出しになっていた。
世界は無情だ。
同じ出来事でも、立場が変われば意味は正反対になる。
幸運にも獲物を見つけた仮面の男と、不幸にも見つかってしまった少女たち。
――それは、狩猟解禁を高らかに告げる、無慈悲な邂逅だった。
ジュリアはとっさにルミアの手を引き、足を止める。
敵だ。
間違いなく敵だ。
しかも、凶悪で、話が通じそうにない。
見透かされたわけではないだろうが、男は力を誇示するかのように、傍らの木に手をかけると、ジュリアの首より何倍も太いその幹を握り潰す。骨が軋むような音を伴って、木肌が粉砕された。
その瞳に映るのは、捕らえる意図など微塵もない。そこにあるのは、ただ殺戮への飢えだけだった。
推し量る術を持たないジュリアでさえ、あの瞳を見れば、本能で危険を察知してしまう。
シモンのいない今、自分が判断するしかない。
戦うか、逃げるか――。
周囲は森。
自分の戦う手段は、炎魔法だけ。
もし火を放てば、火事になりかねない。
そうなれば、私兵たちも待機どころではなく、合流は困難になるだろう。
この時点で、ジュリアの中にあった二択は、一択へと絞られた。
だが、その一択も、現実的にはかなり厳しい。
無理、無茶、無謀――負の言葉が、次々と脳裏をよぎる。
それでも、その選択に縋るしかなかった。
ジュリアは瞬時に考えをまとめ、覚悟を決める。
そしてルミアの手を強く引き、今しがた駆けてきた道を、引き返して走り出した。
男の危険性は、ルミアにも理解できたのだろう。
彼女は何も言わず、ただジュリアに従う。
その背後で――
闇に取り残されたひとつの影が、獣じみた笑い声を撒き散らした。
二人は、笑い声から少しでも距離を取ろうと、必死に駆ける。
だが、気持ちばかりが急き、足取りは決して速いとは言えなかった。
乾いた土を蹴る足音が重なり合い、乱れる少女の息遣いを、ジュリアはすぐ傍で感じ取る。
「お願い、もう少しだけ……走って……!」
瞳に涙を浮かべたまま、ルミアは小さく頷いた。
ジュリアの胸は、申し訳なさでいっぱいになる。
それでも、この状況を脱するには、ルミアに頑張ってもらうしかなかった。
そのとき、ジュリアは背中を貫くような圧を感じた。
思わず振り返った瞬間、背筋が凍りつく。
仮面の男が、獲物を追う獣のように、ゆらりと迫ってきていた。
口元からは低く湿った笑い声が洩れ、舌なめずりするように牙を覗かせる。
「アァ……アァァ……」
言葉ともつかぬ呻きは、楽しげな囁きにすら聞こえた。
まるで狩りそのものを愉しむかのように、男はわざと速度を落とし、左右に大きく身を揺らしながら歩を進めてくる。
あえて急がず、逃げ惑う二人を煽るように――捕食の瞬間を、引き延ばして。
「ひっ……!」
ルミアの喉から、耐えきれない悲鳴が洩れた。
小さな手は震えながらも、ジュリアの指を必死に掴み返してくる。
(……遊ばれてる……! このままじゃ――)
胸の奥で、恐怖よりも強い怒りが芽吹いていくのを、ジュリアははっきりと自覚していた。
必死の思いで、どうにか平地まで戻ってくることはできた。
だが、状況は何ひとつ好転していない。
走り続けてきたルミアの足が、ここでついにもつれる。
限界を超えた体力は抗う術を失い、少女はそのまま地面へと崩れ落ちた。
「はぁ……ごめん、なさい……はぁ、はぁ……ごめんなさい……!」
膝は竦み、立ち上がることすらできない。
震える小さな手が、必死にジュリアの裾を掴み、離そうとしなかった。
――逃げ切れない。
ジュリアは唇を噛み、背後から迫る殺意を睨みつける。
かつて、自分も同じように恐怖に囚われ、救いを拒み、ただ震えることしかできなかった夜があった。
だが――今は違う。
「ルミア、下がって!」
ジュリアは身を翻し、少女を背に庇う。
月明かりに照らされたその瞳には、もはや迷いも、怯えもなかった。
――ここで、戦うしかない。
男は一拍遅れて、闇の中からぬるりと姿を現した。
ジュリアは震える足を踏みしめ、右手を前に突き出す。
「――ファイア・ボルト!」
炎矢が閃光のように放たれ、仮面の男の足元を正確に狙う。
だが、狂気に支配されたその身体は、獣じみた反射で横っ飛びし、土煙を巻き上げて大きく躱した。
――当たらない。
自分が思っていたより、マシな魔法は放てた。
だが、当たらなければ、何の意味もない。
それでもジュリアは、立て続けに魔法を放ち続けた。
精度も威力もばらばらだったが、今ある不条理から逃れるため、必死に抗い続ける。
しかし、無情にも、命中する炎矢は一つとしてなかった。
にたにたと醜悪な笑みを浮かべる男を見て、胸の奥が軋む。
自分の魔法は、嗜虐心を満たすだけのものなのか――そう思った瞬間、堪えきれない悔しさが込み上げた。
そして、低い唸り声をあげ、仮面の男はじりじりと間合いを詰めてくる。
その血走った瞳に映っているのは、ジュリアではなかった。
視線の先にあるのは――その背に隠れる、幼い影。
「――!」
次の瞬間、男は獲物を狙う獣のごとく跳躍した。
狙いは、動きの鈍いルミア。
「ルミアッ!」
ジュリアは咄嗟に少女を抱き寄せ、その身を盾とする。
一瞬の硬直――鋭い爪が、脇腹を薙ぎ裂いた。
「……っ!」
焼けつくような痛みが全身を駆け抜け、鮮烈な赤が制服を濡らす。
ジュリアは片手を脇腹に当て、滴る血を掌で受け止めた。
痛みそのものよりも、その赤が告げている。
――自分たちが、“生を奪うための獲物”として狙われたという現実。
胸の奥を冷たく貫くその感覚に、呼吸が一瞬、詰まる。
仮面の男は、爪に付いた赤を舐め取り、喉を鳴らして笑った。
血走った瞳と、醜悪な笑みが、月光に浮かび上がる。
「……どうして……」
ジュリアの胸に込み上げたのは、恐怖ではなかった。
怒りだ。
理由もなく、まだ幼いルミアまでもが踏みにじられようとしている。
その理不尽を拒絶する、純粋な憤り。
心が震える。
恐怖ではない――怒りに。
「……許さない……ッ!」
その瞬間、朱に近い緋色が、瞳に灯った。
血潮に呼応するように魔力が奔流となって迸り、少女の周囲で逆巻いていく。
――ジュリアの覚醒。
不条理に抗う怒りと、命を懸けてでも守るという決意が、その引き金となった。
胸の奥が、熱く、激しく燃え上がる。
怒り、悔しさ、そして少女を守り抜きたいという想い――すべてが溶け合い、一つの炎へと変わっていく。
瞬間――体内で異常な魔力が、爆ぜるように膨れ上がった。
プラチナブロンドの髪の三割が、鮮烈なスカーレットに染まる。
瞳もまた、炎のごとく、血のごとく紅に染まり、奔流する魔力がスカートの裾をふわりと浮かせた。
無風の闇の中で、逆巻く髪が踊る。
ジュリアはルミアの顔を胸元に抱き寄せ、片手を高く掲げた。
「見なくていい……私が、守るから」
その声音に呼応するように、右手へ常識外の魔力が集中し、烈火の脈動がほとばしる。
「――すべて、燃え尽きなさい!
《インファーナル・クリムゾン(灼熱の紅血)》」
口を衝いて出たその言葉に、ジュリア自身が、はっと息を呑んだ。
それは彼女の知らぬ魔法――だが、血に刻まれた記憶が、その名を確かに告げている。
だが、その寸前。
仮面の男は、本能で死を悟った。
獣じみた叫びとともに肉体を限界まで駆り立て、跳躍――回避。
研ぎ澄まされた野獣の勘が導き、魔法の直撃を確かに外した……そう、思った。
放たれた魔法は、男の足元から外れたところに魔法陣を描き、そこから一気に深紅の奔流が噴き上がる。
奔流は塔のごとく天へと昇り、夜空の闇さえも撃ち貫いた。
「……逃がさないっ……絶対に!――うわぁぁぁ!」
ジュリアは視線を逸らさず、魂の叫びを、絶叫へと変えて叩きつける。
次の瞬間、深紅の奔流はさらに膨れ上がり、天を螺旋に駆けのぼった。
炎はジュリアの意志そのものとなり、男を逃がさぬとばかりに引き寄せ、容赦なく呑み込む。
「ぐ、ぎゃあああああ――ッ!」
悲鳴が轟き、灼熱が夜を焦がす。
炎は獲物を抱えたまま天へと舞い上がり、最後に絶望の色を宿した瞳が紅に沈むと、その影は跡形もなく消え失せた。
やがて、深紅の塔は静かに崩れ落ち、轟いていた奔流も消え失せる。
だが、そこには灰も焦げ跡もなく――虚空に、常識を逸した残光だけが漂っていた。
無数の赤い粒子が宙を舞い、夜風に溶け込みながらもなお消えず、星々と混じり合うように淡く瞬き続けている。
やがて、ふわりとスカートと髪が元の位置に落ち着き、朱に染まっていた髪と瞳も、ゆっくりと本来の色へと戻っていく。
力を使い果たしたジュリアは、がくりとその場に膝をついた。
「……守れた……よかっ……た……」
吐息のような安堵の言葉を最後に、彼女の意識は、静かに闇へと沈もうとする。
――その瞬間。
血に汚れた腕が、その身体を、しっかりと抱きとめた。
シモンだ。
荒い息を整えながらも、その抱擁は驚くほど穏やかで、壊れ物を扱うように、ひどく優しかった。
駆けつけたシモンの胸に抱かれた途端、ジュリアの強張っていた身体から、すっと力が抜けていく。
戦場の冷たさとは対照的に、その腕だけが確かな温もりを宿し、彼女をやさしく包み込んでいた。
「……よく、やったな」
ジュリアは薄れゆく意識の中で、その顔を見上げる。
「……アタシ……負けないよ……」
誇らしげな微笑みを浮かべたまま、ジュリアは、そっと意識を手放した。
夜はまだ続いている。
それでもジュリアは、その小さな身体を預け、安堵の心地に身を委ねた。




