3-6
「ライラ様。ベネトナシュ様のお屋敷は、お城と近いのですか?」
単純な疑問だった。
初めて見るトラの亜人に驚いて気を失い、次に目覚めたときは薄暗い森にいたものだから、双方の距離感が気になるのは当然のことだろう。
ただ、この疑問をぶつけるのは城に帰ってからでも良かったのではないか――アデレードは己の短慮を現在進行形で憂いていた。
「ほらアデレード、見てごらん」
「は、はい!!」
「下にあるのがベネトナシュの屋敷がある森で、ここから川を辿って北上すれば峡谷に入る。山道に入るには崖を迂回しないと駄目だけど、まぁ直線距離で言えばそんなに遠くはないかな」
「そうなんですね!!」
「ちなみにこの一本杉は良い目印になるから、迷子になったら探してみるといいよ」
「分かりましたぁ……!!」
悲鳴に近い声で返事をすれば、斜め下にあるライラの顔がこちらを振り返って、へらりと笑う。
茜色に染まる夕方の空。紫がかった千切れ雲。趣深い景色に吹き荒れる強風に、野鳥の威嚇、地面から遥か上空で揺れる足裏――。
アデレードは現在、小高い山のてっぺんに生えた大きな一本杉の枝に座っていた。
『城との距離? 上から見てみる?』
先ほど、魔女は平然とそんなことを言ってアデレードを肩に担いだかと思うと、屋敷の門前で軽く――本当に軽く踏み切って、空高く跳躍した。
そうして目まぐるしく変わる景色と強風に翻弄されているうちに、この一本杉へ降ろされたのである。
真っ直ぐに伸びた幹にしがみつく彼女の傍では、ここを住居とする野鳥たちがそれはもう怒涛の勢いで退去を訴えており、アデレードは小声で謝罪を繰り返すしかない。
「ご、ご、ごめんなさいごめんなさい、決して巣を荒らしに来たわけでは……! ライラ様っ、あの、そろそろ降りたいです!」
「もういいの?」
「いいです! ありがとうございました!」
「そっか」
一段下の枝に座っていたライラが、身軽な動きで隣へ飛び移る。幹にしがみつくアデレードの腕をやんわりと自らに回させると、魔女はその体を横抱きにして、ひょいと跳んだ。
「きゃあーーーーッッう!?」
あまりにも長い浮遊感に甲高い悲鳴を上げたなら、すとんと魔女が地面に降り立つ。
「ふふ、アデレードも大きな声出るんだね」
声と一緒に臓器も出そうになっている顔面蒼白の娘を降ろし、ライラは彼女の乱れた亜麻色の髪をちょいちょいと指先で整えた。
その指を放心状態で受け入れていたアデレードは、ようやっと落ち着いてきた呼吸で問う。
「ラ、ライラ様」
「うん?」
「今、私を抱えて、飛んだり、走ったり、跳んだり、しました、か?」
「うん」
答えは相変わらず簡潔であった。
アデレードの髪を大雑把に梳いた魔女は、満足げに笑ってその場に腰を下ろす。
図らずも横に並んで夕日を眺める形になり、アデレードが何となしに茜色の景色へ視線を投じると。
「あ……」
鮮やかなオレンジに染まるフィリネウス湖と、沈みゆく太陽をゆっくりと飲み込む雄大な山脈。昼間に見た爽やかな景色とはまた違う、どこか哀愁を誘う絶景がそこにあった。
呆けたアデレードが目を奪われていると、隣で足を伸ばしていたライラが口を開く。
「あの大きい山がタラッタ霊峰だよ」
「地図に書かれていた山ですね。とっても綺麗……」
魔女が指差したのは、左右に広がる険しい峰の頂。万年雪に覆われた霊峰の輪郭を、魔女の指先がゆっくりとなぞった。
「あそこは入っちゃいけないよ、アデレード」
「……何故でしょうか?」
本格的な登山の経験はなくとも、あの霊峰がどれだけ厳しい環境かは誰だって想像がつく。魔女が敢えて注意を促したのは、何か他に理由があってのことだろう。
アデレードが隣を振り向けば、黄昏に染まった瞳は依然として霊峰を捉えていた。
「穢れの多い場所なんだ」
そうして告げられた答えは、些か腑に落ちないもので。
神々しさすら覚える美しい霊峰を見遣り、それとは真逆の評価を口にした魔女を再び見てみれば、黒いケープの裾が風に強く煽られた。
ライラは顔に掛かる空色の髪はそのままに、フードを目深に被り直すと、おもむろに立ち上がる。
「アデレード」
「は、はい」
「そろそろ帰った方がいい。ルゴールのところに送ってあげる」
「え……ライラ様はお戻りにならないのですか?」
尋ねた直後、魔女がゆるりと持ち上げた指先に、あの青白い蛾がどこからともなく現れた。
ベネトナシュが分身と呼んだそれを、魔女は微笑を湛えたまま静かに見つめ、いつもの軽い口調で答える。
「私は寄り道してから帰ろうかな?」
そのとき、絶え間なく吹いていた風が止んだ。
一本杉に暮らす野鳥たちのさざめきまでもがピタリと止まり、妙な静寂がそこに落ちる。
やがて眩い夕日を霊峰が完全に飲み込むと同時に、アデレードの視界は瞬時に暗転した。
「――じゃあまたね、アデレード」
◇
魔女の声が消えると同時に視界が白み、暖かな灯に照らされた栗皮色の腰壁が現れる。
直後、またもや浮遊感に襲われて身を縮めれば、ドシャッと勢いよく体が落ちた。
「ぐッ」
「!? あっ!」
覚えのある感覚に目を開けると案の定、アデレードは屈強な男の背中を下敷きにしてしまっていた。
「ル、ルゴールさん! ごめんなさい!」
「……気にすんな。一瞬、そんな気配がした」
またしても魔女から緩衝材にされてしまったルゴールは、しかし怒る様子もなく片手を振るのみ。慌てて背から退けば、むくりと彼が起き上がった。
今度は顔面を床に打ち付けたのか、ルゴールは鼻の辺りをさすりながらも、こちらを気遣うような声音で尋ねる。
「今日は災難だったな。怪我はなかったか?」
「あ……は、はい。その、ガドゥンさんはちょっと勘違いをしていたみたいで。ベネトナシュ様が説得してくださいました」
「そうか。……で、何であんたはそんな葉っぱまみれなんだ?」
「えっ」
はたと頭に触れてみれば、針葉樹の細かい葉がぱらぱらと落ちた。ライラと話しているときもこの状態だったのだろうかと苦笑いを浮かべつつ、アデレードはそそくさと髪を整えておく。
「あ、あはは……ライラ様に周辺の地理についてお尋ねしたところ、とっても高い杉の木に連れて行かれまして……」
「あー……気を付けろよ。あいつに軽い気持ちで冗談かまして後悔する奴、山程見てきたからな」
溜息混じりに返したルゴールは、そこで不意に部屋を――厨房に設置されたレンガ造りの竈を指差した。
「飯食うか? 昼間のスープなら残ってるぞ」
「!」
アデレードが目を丸くした直後、思い出したように胃が鳴き始める。咄嗟に腹を押さえた彼女は、羞恥の入り混じった笑みで「いただきます……」と返したのだった。




