第四話10 ミネルヴァ・カエサリウス
ネルに締め上げられていたレンを助け出したのは、小さな丸い物体だった。
エドモンドが放ったそれがネルの近くに落ちると、彼女は反射的に飛び付いたのだ。
急に手を離されたレンはその場に自由落下、盛大に尻餅をついて床に伸びた。
痛い。いや、すでに全身くまなく痛いし、心もズタボロにされているのだが。
「いや、なかなか見物だったな」
「エド、お前は本当に性格が悪いな……」
倒れ伏すレンに、エドモンドが悠々と、エレナとバルトがおそるおそる歩み寄ってきた。
聞き捨てならない台詞を吐くエドモンドに、エレナとバルトは呆れ顔、というより最早ドン引きの顔だ。
レンも同じ表情をしたいところだが、体と心へのダメージで絶望の表情から動かすことができない。
(あれは……?)
その被害をもたらしたネルの方に視線を向けて、心の中で疑問符を浮かべる。
彼女は引き続き柔らかそうな球体に夢中になっていて、指の中で弄繰り回して恍惚の表情を浮かべていた。
「ああ、あれは『マタ・タビ』と言って、アマニクの民を本能的に魅了する物質だそうだ」
レンの視線に気が付いたのか、エドモンドが解説を入れた。完全にマタタビである。
どうして都合よくそんな物を持っているのか謎だが、そういう物を持っているなら――
「それをすぐ出さねぇ辺りがなぁ……」
バルトの言う通りである。
すぐに使ってくれていたなら、レンがここまでダメージを受けることはなかっただろうに。
「いやいや、ネルに吐き出しきらせてやろうという親心だよ」
と、エドモンドは白々しい様子でそう答えた。そして付け加えるに、
「もう分かったと思うけど、彼女は普段何でも許してくれるが、そう見えて実は怒りを溜めこんでいるんだ。で、何かのきっかけがあると、それが全てまとまって返ってくると」
つまり、吐き出させないと次回に持ち越される。
だとするとエドモンドの気遣いはあながち間違ってはいないのだが、別に今後気を付ければ問題ないのではないか、とも思う。要は、気安く触らなければいいのだろうから。
しかし、そう単純な話でもないらしい。
「ネルのキレポイントは未だに予想が付かないんだ。『耳や尻尾に触れる』というのが、数少ない確定キレポイントというだけでな」
しかも、「同じことをしても、OKなときとNGなときがある」という厄介ぶりである。地雷がどこにあるか分からない以上、気を付けても全く踏まないということは難しい。
ようやくレンは、エレナとバルトの態度に納得した。そんな相手であれば、それは腫れ物に触るような扱いにもなるし、大人しく真面目にクエストに取り組むことだろう。
しかし――あの強さはどういうことだ。レンの体へのダメージは相当なもので、体にはぴくりとも力が入らない。というか、あと一歩で死んでいた気すらする。
最近のレンの経験を鑑みてそう感じるのだから、実際かなり危ないと思われた。
彼女は白魔導師のはずで、白魔導師と言えば物理は貧弱と相場が決まっているのだが――
「ほらレン、見たまえ。これは以前写し取ったネルのステータスなんだが」
「なんでそんなもの持ってるんだ……」
エレナの的確なツッコミはひとまず置いておいて、レンはエドモンドが差し出した紙に視線を投げる。
まず目に飛び込んできたのが、『ミネルヴァ・カエサリウス』という文字列。なんだ、この強そうな名前。
視線を下ろしていくと、年齢は四十八。なんという詐欺。もしかすると、アマニクの民は長寿なのかもしれない。ロリババア、なんて言ったら間違いなく次は殺される。
そして――戦闘力が、ぶっちぎって高い。なんとエドモンドたちの倍以上だ。
その内訳を見て、レンは更に驚愕せざるを得ない。
魔力や知力が高いのはまだいい。しかし、筋力や体力等も、レンやエレナどころかエドモンドより高く、バルトに迫らんとする数値だった。
全体的に隙が無く、どれを取ってもレンなど足元にも及ばない。
「異常な数値だろう? 彼女はアルーカの異界人の中で、数少ない星5の激レアチートキャラなのさ」
そして、エドモンドが種明かしをした。
星の数がステータスに直結するというのは納得だが、正直ここまで激しい差があるとは思っていなかった。
「だから、彼女はボックス中から恐れられているという訳だ。ステータス的に、ケンカになったら下手したら死ぬ。そしてこちらの心を抉りぬく、的確さと理不尽さを両立した言葉の暴力。それでいて怒りのスイッチがどこにあるか分からない。まさに爆弾だ」
正しく、『触らぬ神に祟りなし』ということである。
本物の女神の方は『合成』という切り札を持っている訳だが、ネルの方は沸点が分からないという恐怖がある分、総合的に見れば厄介さは良い勝負だ。
「という訳で、彼女には細心の注意を払って接するように」
そして、エドモンドがそう言って話を畳んだ。
ああ、それは全く以て――
「……先に、言ってください……」
絞り出すようにそう言って、レンはがっくりと力尽きた。
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しばらくすると『マタ・タビ』の効果が切れ――エドモンドによると、外気に触れると徐々に効果が薄れるらしい――、ネルは落ち着きを取り戻した。
レンはその様子は見ていない。気を失っていたので。
目覚めたレンの目に最初に映ったのはこちらを覗き込むネルの姿で、目覚めるなり心臓が止まるかと思った。
「あ、目を覚ましましたにゃ」
彼女の口調は元に戻っていて、どうやら怒りは収まっているらしいと安堵のため息を吐く。心臓の方は、生にしがみつくかのようにドクドクと脈打っているが。
「そうか。レン、ネルに礼を言っておけよ? 回復してくれたのは彼女だ」
と、エドモンドが何事も無かったかのようにそう言った。
回復したと言っても、そもそもこのダメージを負わせたのが彼女自身な訳で、マッチポンプもいいところである。
「ありがとうございます」
だがレンがそんなことを言えるはずもなく、三つ指ついて深々と頭を下げた。そしてそのまま、「誠に申し訳ありませんでした」と謝罪の意を示す。
「もう済んだことですにゃ。――まあ、次やったら殺しますが」
鷹揚にそれを受け入れつつ、ネルはしっかりと牽制の一言を入れた。
言葉と同時に細まった瞳孔と黄色に変色した瞳が、強烈な恐怖を思い起こさせる。一も二も無く、レンはコクコクと頷いた。
そして、この件はこれであっさりと片付いたらしい。ズルズルと引っ張らない辺りネルは大人だ――というのは、年齢を見た今なら納得である。
「よし、レンはもう動けるか? ネルも問題なければ、いい加減に出発したいところだが」
「はい、大丈夫です」
ここに来てまたも時間をロスさせたのだから、レンの申し訳なさもひとしおだ。今日は何かと上手く行かない日らしいが、このまま迷惑を掛けっぱなしという訳には行かない。
レンは答と共にいそいそと立ち上がり、健在をアピールした。
「ネルは全然問題なしですにゃ」
二人の返事を確認して、エドモンドがコクリと頷く。
「じゃあ、行こうか。俺ももう十分に楽しんだから、ここからは間違いなく寄り道なしでな」
――やっぱり、エドモンドが一番厄介だった。
というところで、第四話終了です。ダンジョン編は第五話に続きます。
例の如くお休みをいただき、第五話は7月13日(土)を予定しております。
もしかしたらもう一週遅れる可能性もありますが、また活動報告にてご連絡致します。
引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。あ、一言でも感想をいただけると更に嬉しいです!
今後ともよろしくお願いします。




