幸福のフィルター
幸福がかくしたものとはいったい――
夜腰悦子は、幸せの頂点に立っていた。
白い産院のベッドに横たわり、柔らかな毛布に包まれた小さな命を抱きしめながら、彼女は静かに微笑んだ。
隣家の幼なじみ――幼稚園の砂場で指切りげんまんをしたあの人が、汗ばんだ額を拭きながら手を握っている。
両親、義父母、友人たちが花と風船に囲まれ、祝福の言葉を次々と投げかけてくる。
部屋は甘い花の香りと、赤ん坊の小さな寝息で満ちていた。
「大人になったら結婚しようね」
あの約束は、確かに守られた。数少ない、物語のような幸福。悦子はそう信じていた。
三十五年という歳月を、まるで一枚の絵画のように美しく塗り重ねてきたのだ。しかし、ふと、胸の奥に小さな棘が刺さった。
違和感――
まるで、誰かが薄い膜を一枚、視界に被せたような――。
「鏡、見る?夜腰さん、すごく綺麗よ」
看護師の明るい声に促され、悦子はゆっくりと上体を起こした。ベッドの脇に置かれた大きな姿見が、部屋の白い壁に溶け込むように立っている。
家族たちが笑顔で彼女を支え、赤ん坊を覗き込む。悦子は鏡に向かった。瞬間、息が止まった。
鏡の中の女は、血に塗れていた。真っ赤な鮮血が顔から首筋、胸元までをべっとりと覆い、産着はぼろぼろに裂け、肉が覗いている。
髪は乱れ、目には獣のような虚ろな光が宿っていた。その腕に抱かれた赤ん坊もまた、血の膜に包まれ、微かに痙攣している。
床には胎盤の残骸のようなものが散らばり、部屋の隅には制服姿の警察官たちが数人、険しい顔で立っていた。
手錠の冷たい金属が、ベッドの柵にかけられている。悦子は自分の手を見下ろした。
清潔で、白く、柔らかい。指先には産後の疲れすら感じさせない、穏やかな温もりがある。鏡の中の女は、ゆっくりと口の端を吊り上げた。笑ってる。
「…これは夢?」
悦子が囁くと、周囲の家族たちが優しく笑った。
「大丈夫よ、悦子さん。ちょっと疲れてるだけ。ほら、赤ちゃんが泣いてるわ」
だが鏡の中では、警察の一人が無線機に何かを告げている。血の臭いが、硝子の向こうから這い寄ってくるような気がした。
鉄と肉と、罪の匂い。悦子は気づいた。この幸福は、フィルターだ。
誰かが、あるいは自分自身が――必死に貼り付けた、薄い、薄い幻想の膜。
現実の残酷さを覆い隠すための、脆い嘘。鏡の中の血まみれの女が、ゆっくりと口を開いた。声は出ない。しかし、唇の動きははっきりと読めた。
『お前が殺したんだよ』
悦子は赤ん坊を抱き寄せた。現実の柔らかな体温。幻想の温もり。廊下の向こうから、遠く、遠く、サイレンの音が聞こえてきた気がした。
あるいは、それは産院のモニターが発する、規則正しい電子音だったのかもしれない。
彼女は目を閉じた。閉じたまま、微笑んだ。
幸せの頂点にいるのだから。
たとえ、この世界が、血の海に沈んだ一瞬の幻だとしても――
鏡は、まだ、そこに立っている。
血まみれの悦子が、いつまでも、いつまでも、こちらをじっと見つめ続けている。
読んで頂き有り難う御座います。




