第7話
離れなきゃ。
頭ではそう分かっている。
けれど。【おつとめ】を思い出す。
それは接触を深くすればするほど、生存率は上がるというものだった。
さきほどテキストをみたら、おつとめはすこしだけ進んだという内容になっており、そばにいるだけでも効果があるとわかった。
……血のテキストのことを信じるのは癪だけど、いい方向に進展する可能性があるなら、今がいちばんの接触する機会なのではないだろうか。
ローゼは震える手で、そっと彼の背中へ触れる。
「……大丈夫です」
自分に言い聞かせるみたいに、小さく呟く。
「少し休みましょう、アルシオン先輩」
ゆっくりと、彼の冷たい体に自分の体温を渡すように、アルシオンを抱きしめて、背中をさすった。
身分の低いローゼが、こんな無礼な大胆な行動をとったことは一度もない。
こんな状況だからひどく咎められることはないと信じたいが、心臓が緊張で軋んでいた。
様子が気になり、ローゼは恐る恐るアルシオンの顔を覗き込む。
…高貴で品のある顔立ちが、赤くのぼせていた。
それはまるで、身分の低いローゼを求めているようでいて…
「…ローゼさん。
殿下を気遣っての行動とは理解してますが…
貴族として、優雅とはいえません。
ご自身の身分を自覚してください。」
空気が凍った。
ローゼの手がぴたりと止まる。
声を発したのは、カシアンだった。
毛布へ包まったまま、切れ長の瞳だけをこちらへ向けている。
熱で顔色は悪い。
それでも、その視線だけは妙に鋭かった。
「……っ」
ローゼの喉が詰まる。
分かっている。
本来なら、平民に近い下位貴族の娘が、学院最高位の家格を持つアルシオンへ抱きつくなど有り得ない。
まして彼は生徒会長だ。
学院の象徴。
触れることすら恐れられる相手。
昔から、そうだった。
『身の程を弁えなさい』
何度言われたか分からない。
高位貴族の子女たちは、ローゼを見る時だけ笑い方が変わる。
ドレスが一年前の型落ちだと笑われた。
ティーカップの持ち方が違うと囁かれた。
昼食へ誘われたと思えば、席には泥水を入れられたグラスだけ置かれていた。
『平民舌なら気づかないでしょう?』
そう言って、くすくす笑われた。
夜会では、わざとローゼの靴へワインを零されて、赤い染みが広がった。
謝るどころか、相手は扇の向こうで笑っていた。
『手入れも満足にできないなんて』
『家の格って本当に大切よね』
誰も止めなかった。
教師ですら、見て見ぬふりだった。
当然、ローゼの両親も。
ローゼはずっと知っている。
身分が低いというだけで、訳ありというだけで、人はここまで雑に扱われる。
ここはそういう世界だ。
だから。
カシアンの言葉は、正しい。
正しすぎるほどに。
「……ローゼさん」
カシアンが静かに続ける。
「あなたを侮辱したいわけじゃありません。
わたしは努力して生徒会に入った貴方を、心から尊敬しています」
優雅だが、低い声だった。
「ですが、アルシオンは王族であり、次期国王候補です。軽々しく接していい相手じゃない。
そうでないと、均衡が崩れる。」
ローゼの肩が小さく震える。
カシアンは熱に浮かされながらも、淡々と告げた。
「あなたが無礼を働いたと見なされれば、“あなた一人”では終わりません。最悪家ごと潰れますよ?
……わたしは、ローゼさんが心配なんです。
あなたには、貴方なりに咲ける場所が、あるはずです」
残酷なほど現実的な言葉だった。
だが。
それが、この国の常識でもある。
ローゼは反射的に手を離しかけた。
けれど。
その瞬間。
ぐい、と腕を掴まれる。
「……アルシオン先輩?」
低い呼吸音。
アルシオンだった。
伏せられていた瞳が、ゆっくり開く。
薄い色の瞳。
だが、その奥に滲む赤が消えていない。
熱に浮かされたみたいな視線が、ローゼだけを捉えていた。
「……離すな」
掠れた声。
ローゼが目を見開く。
カシアンは僅かに眉を寄せた。
【おつとめは まだ とちゅうです】
【けれど あなたは ちゃんと まえへ すすんでいます】
「……アルシオン。少々見苦しいですよ」
カシアンが静かに息を吐く。
熱で頬を赤く染めながらも、その声音だけは妙に整っていた。
「ここはあえて、親友として忠告します。
貴方はいつだって冷静だったでしょう。そんなふうに一人の令嬢へ縋るような真似をして……らしくありません」
アルシオンが薄く目を開ける。
赤の滲む瞳が、ゆっくりカシアンを見た。
カシアンは肩を竦める。
「それに、ローゼさんも困っています」
柔らかな声だった。
まるで社交界で令嬢へ微笑みかける時みたいな、綺麗な声音。…どこか距離をとっている声。
「彼女は優しいから、貴方を放っておけないだけです」
ちらり、と王子様のように涼やかな瞳でローゼを見る。
「ですが、ヴァレンティアの人間が下位貴族の令嬢へ執着しているところを他人に見られれば、彼女がどう扱われるかくらい……貴方なら分かるでしょう?」
静かな指摘だった。
責めるというより、諭すような優雅な言い方。
「どうか少し、ローゼさんのお気持ちも考えてください」
まるで今初めて、自分が何をしているのか理解したみたいに、ローゼの腰へ回されていた腕から、僅かに力が抜けた。
「……すまない」
掠れた声だった。
「不快な思いをさせた」
ローゼは息を呑む。
…自分が、不快だったわけじゃない事実に気づいてしまったからだった。
(いや、むしろーー)
感情がぐちゃぐちゃになって、自分でも言語化できなくなる。
けれど。
言語化できたとして、こんな汚らわしい感情を、表現していいはずがない。
ローゼが口を開けずにいると、アルシオンはゆっくり身体を離した。
その時だった。
コンコンコン
軽快なドアのノックと共に入ってきたのは、金色の髪が特徴的なセティだった。
「お邪魔…だったかな?
ちょっと、来てほしいんだけど。
もちろん、体調の悪いカシアン以外ね!」
「何かあったか?」
「それがね」
天使のような瞳で、心底嬉しそうにセティが笑う。
「この屋敷についてわかったことがあるんだ。
すごいでしょ!
中庭に来て!」
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