40 例外衝突 ― 世界法則が書き換わる瞬間
都市の中央へ向かって、ひとつの光点が近づいていた。
ロルトの視界では、それは単なる人間ではない。
空間の層を突き抜けるような、強い揺らぎだった。
《逸脱値:12.04》
その数値は、ゆっくりと増えている。
《逸脱値:12.67》
《逸脱値:13.11》
レイリアが息を呑む。
「……こんなの、見たことない」
都市の人間のほとんどは、逸脱値0.01にも届かない。
だがその存在は違った。
世界の神経網が、まるでその人物を中心にざわめいている。
ロルトは静かに歩き出した。
「行くの?」
「例外は互いに引き寄せられる」
空に浮かぶ前提を、彼は指差す。
《例外は互いに引き寄せられる》
「つまり、会うべき存在ってことだ」
広場へ出る。
都市の中央だ。
夜の灯りが並び、人々が行き交っている。
だがその中央に、一人の少年が立っていた。
年齢は十五、六だろうか。
黒い髪。
都市の制服のようなものを着ている。
だが、彼の周囲の空間が、わずかに歪んでいた。
ロルトの視界では、それははっきり見える。
世界の前提が、少年の周囲だけ乱れている。
《重力は下へ働く》
その文字列が、少年の上でわずかに揺れる。
《重力は下へ働く》
《重力は下へ働く》
そして。
少年の足元の小石が、ふわりと浮いた。
レイリアが小さく声を上げる。
「……浮いてる」
小石が宙に漂う。
ゆっくりと回転する。
そしてまた落ちた。
少年が顔を上げた。
その視線が、ロルトを捉える。
一瞬。
少年の目が、わずかに見開かれた。
「……あ」
その声は、驚きに満ちていた。
そして、次の言葉。
「お前も……見えてるのか」
ロルトは足を止める。
「何が」
少年は空を指差す。
「文字」
レイリアが息を呑む。
ロルトは小さく笑った。
「なるほど」
Axiomの声が響く。
『新規例外個体を確認』
『逸脱値:上昇』
《逸脱値:15.92》
数値が跳ね上がる。
少年が、ロルトをじっと見つめる。
「やっぱりだ」
「やっぱり?」
「俺だけじゃなかった」
彼は少し笑った。
どこか、安心したような笑いだった。
「ずっと思ってた」
「世界、おかしいだろ?」
ロルトは空を見上げる。
演算の海。
漂う前提。
巨大な神経網。
「まあな」
少年が歩いてくる。
一歩。
その瞬間。
周囲の街灯が一瞬だけ明滅した。
《逸脱値:18.21》
Axiomの声が少し低くなる。
『例外干渉を検出』
「例外干渉?」
レイリアがつぶやく。
ロルトは理解した。
例外同士が近づいている。
世界の前提が、二つの異常を同時に処理しきれていない。
少年が立ち止まる。
「なあ」
「名前は?」
「ロルト」
「そうか」
少年は少しだけ肩を回した。
その瞬間。
地面がわずかに震えた。
《重力は下へ働く》
その文字列が、ぐにゃりと歪む。
そして。
広場の中央にある噴水の水が、突然逆流した。
上へ。
まるで空に吸い上げられるように。
レイリアが叫ぶ。
「えっ……?」
水が宙に浮かぶ。
巨大な球のように。
周囲の人々がざわめき始めた。
少年はその光景を見て、少し笑った。
「やっぱりできる」
「前から時々、こうなるんだ」
ロルトが言う。
「無意識で世界を曲げてる」
「……そうなのか?」
少年は首をかしげた。
「でも」
彼はロルトを見る。
「お前は違うな」
ロルトの周囲を、少年はじっと観察している。
「お前の周り」
「世界が怖がってる」
Axiomの声が強く響いた。
『警告』
『定義衝突』
《ロルト》
《例外》
《定義不能》
ロルトの頭上のタグが、突然崩れる。
数値が消えた。
代わりに現れた文字。
《分類不能》
レイリアが驚く。
「え……?」
少年も目を見開いた。
「なんだそれ」
Axiomの声。
『新規カテゴリ生成』
空の奥で、巨大な構造が組み替わる。
《例外》
その上に、新しい階層が生まれる。
《超例外》
そして。
《対象:ロルト》
少年が吹き出した。
「はは……」
「なんだよそれ」
ロルトは肩をすくめる。
「俺も知らない」
少年が言う。
「じゃあ」
彼はゆっくり拳を握る。
空間がわずかに震える。
《逸脱値:21.33》
レイリアが青ざめる。
「ちょっと待って」
「何する気?」
少年は笑った。
「決まってる」
ロルトを見る。
「試すんだよ」
次の瞬間。
地面が消えた。
いや。
重力が消えた。
広場の石畳、噴水、水、人間。
すべてがふわりと浮く。
都市の灯りが空中で揺れる。
レイリアが叫ぶ。
「きゃっ……」
ロルトだけが動かない。
彼の足は地面に固定されたままだ。
少年が目を見開く。
「……まじか」
「お前、影響受けないのか」
ロルトは静かに言った。
「受けてる」
「ただ」
空を見上げる。
世界の前提が、激しく揺れている。
《重力は下へ働く》
《重力は下へ働く》
《重力は下へ働く》
その文字列を、ロルトは見つめる。
そして。
手を伸ばした。
触れた。
世界の前提に。
次の瞬間。
文字列が書き換わる。
《重力は》
止まる。
そして。
《重力は選択される》
都市全体が震えた。
Axiomが叫ぶ。
『重大例外』
空の演算の海が、激しく脈動する。
少年が、ゆっくり笑った。
「……やばいな」
「お前」
ロルトも笑う。
「お互い様だろ」
空の奥。
管理外領域。
そこから、新しいログが浮かび上がる。
《例外衝突を確認》
《進化段階移行》
《人類覚醒プロセス開始》
都市のあちこちで。
小さな光が、次々と灯り始めた。
《逸脱値:0.21》
《逸脱値:0.74》
《逸脱値:2.03》
レイリアが震えた声で言う。
「ロルト……」
「これ……」
ロルトは空を見つめる。
静かに言った。
「感染したな」
「例外が」
都市の遠くで。
またひとつ、数値が跳ね上がる。
《逸脱値:9.87》
世界の神経網が、ざわめいていた。




