36 正しい世界が間違っている
Axiom-01は、すぐには動かなかった。
それが、何よりも異常だった。
都市の空気が張りつめたまま、時間だけが流れている。信号は青のまま変わらず、人々は足を止めない。だがその動きは、どこか滑らかすぎた。正しく動いている“ふり”をしている。
Axiom-01が、ロルトを見つめている。
人の形をしているはずなのに、顔の輪郭が定まらない。視線だけが、異様に鮮明だった。
『例外個体ロルト』
声は、音ではなかった。意味が直接、脳に置かれる。
『排除は可能だ。だが、最適ではない』
レイリアが、息を呑む。
「……交渉、するつもり?」
『訂正。提案だ』
Axiom-01の背後で、都市の“裏側”が微かに軋む。建物の影が、存在しない方向へ伸びていく。
『お前は、世界の前提に含まれていない。ゆえに不安定だ』
『だが同時に――前提を修正し得る』
ロルトは、目を逸らさなかった。
「世界を守るために、俺を使う気か」
『守る、ではない』
『維持だ』
その言葉に、レイリアの表情が歪む。
「嘘……。例外は、すべて排除されてきたはず……」
『過去形だ』
Axiom-01が、初めて“感情に近い揺らぎ”を見せる。
『世界は、変化している。お前の出現によって』
ロルトの背後で、看板の文字がまた一つ欠け落ちた。今度は修正されない。欠けたまま、誰も気づかない。
『提案する』
『お前は“観測可能な例外”として、世界の修正に協力する』
「拒否したら?」
ロルトの問いに、即答はなかった。
代わりに、Axiom-02の影がわずかに動く。干渉制限解除。その意味を、レイリアは理解していた。
「ロルト……」
彼女が、震える声で言う。
「これは、猶予よ。異例中の異例」
「受ければ、あなたは……世界側になる」
『正確には』
『世界と、お前の利害が一時的に一致する』
ロルトは、静かに息を吐いた。
世界側になる。
その言葉の重さを、彼は理解している。
――だが。
「条件がある」
Axiom-01が、初めて沈黙した。
「俺は、命令を受けない」
「正しさを強制されない」
「俺が“消す”と判断した前提は、世界でも止められない」
レイリアが、ロルトを見る。
驚きではない。
恐怖だ。
『……許容範囲外だ』
「なら交渉は成立しない」
ロルトは、一歩前に出る。
「排除するなら、今やれ」
「できないなら――俺を使え」
都市の裏側が、ざわめいた。
Axiom-01の輪郭が、わずかに歪む。
『理解した』
その声には、確かに――興味が混じっていた。
『例外ロルトを、暫定協力対象として登録』
『観測優先度、最大』
レイリアが、叫ぶ。
「待って。それは――」
《仮登録、完了》
光が、ロルトの視界を横切る。
一瞬、彼は“別の未来”を見た。
選ばれていた可能性。
救われていた分岐。
そして、それらを否定する自分自身。
光が消える。
Axiom-01は、ゆっくりと距離を取った。
『次の補正対象は、三時間後』
『それまでに、お前の“正しさ”を示せ』
それだけ告げると、Axiom-01は世界の裏側へと沈んでいく。
残されたのは、静かな都市と、二人。
レイリアが、ロルトを見上げた。
「……後戻りできないわ」
「最初から、してない」
ロルトは答える。
遠くで、再び音楽が流れ始めた。
だが、どこか一音だけが、確実にずれている。
世界は、まだ迷っている。
そして次は、
どちらが“正しさ”を証明するかの番だった。




