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「シュッ」
試合開始と同時だった。
ようすも見ずにミツオがしかける。顔を狙ったショートフックだ。
ヒトシはそれをバックステップで難なくかわす。ミツオのパンチは皮一枚で空を切り、バネのようなスピードでふたたびアゴのところに戻る。
アマチュアボクシングでは、ルールでヘッドギアの着用が義務づけられている。
ただでさえ顔はほとんどおおわれているのに、観客の最後尾に位置したあたしの位置からは、ふたりの表情はわからない。アクションのみの判断だ。
空振りをした直後、ミツオは腰を一段落とした。まえに一歩さらに踏み出す。低い位置から顔だけはまっすぐと正面を向けている。
アマチュアではプロボクサーのように顔だけをさげるディフェンスはできない。顔をあげなきゃバッティングの反則をとられる。
ダウンよりポイントが重要視されるアマチュアボクシングで、この手の反則はけっこう大きい。パッパラヤンキー・ミツオでも、そんなことがわかるくらいにはちゃんと練習しているようだ。そんな意味でミツオの判断はセオリーどおりといったところか。
ボクシングでは頭の位置が低いほど、態勢的には有利である。低く縮むミツオに対し、ヒトシはがっちりわきをしめてひじを立てる。ガードを固めて足をつかう。単純なサンドバッグにならないよう、身体を左右に細かく振る。
「シュッ、シュッ、シュッ」
だが、ミツオにしたら、こむずかしい作戦なんかは、なにも用意していないのだろう。とくになにも考えず、左右のジャブをくり返す。
セオリーを覚えたところで、キャリアがなければそれ以上の策はない。ケンカのような素人まるだしの攻めのボクシングだ。
しかし、そんなボクシングではどんなに手かずを増やしても、ミツオのパンチはヒトシにダメージをあたえられない。ガードのうえをなでるように叩くだけ。これではまったくポイントにだってなってやしない。その証拠に電光掲示板のオープンスコアは0-0のまま。
プロとは違い、アマチュアボクシングでは有効打をあたえるたびに、電子音がぴんぽん鳴って、オープンスコアがめまぐるしく変わるのだ。
「シュッ、シュッ、シュッ」
それでもミツオはかまわずに、次々手かずを増やしていく。思うようにヒットしないことに、いらついてきたのだろうか。じょじょにパンチが大振りになってきた。
そんなようすをヒトシは足をつかいながら、冷静に見ていたらしい。距離をわずかにつめていく。このあたりは、さすがにキャリアがものをいう。たがいのパンチがあたるかあたらないかの微妙なラインは刻一刻と変化してくのだ。
「シュッ、シュッ」
しかしミツオはそんなことは考えない。短気な性格がよくでている。
ミツオが右手を先ほどよりもさらに引いた。
身体が大きく外にひらいた。大振りもいいところ。
その一瞬、ミツオのアゴのラインまでのガードがわずかにあいた。ヒトシはそれを見逃さない。黒いヘッドギアのしたの瞳がぎらりと光ったように見えた。
ヒトシはミツオのあいたアゴに向かい、ノーモーションでジャブを放つ。一撃必殺の強烈なパンチではないが直撃だ。
爆発したような観客の叫びとともに、電子音が小さく鳴って耳に長く尾を引いた。ヘッドギアごしでも正確なパンチがヒットすればダメージは大きい。
ミツオのひざがぐらついた。あごに入れられ、脳がはげしく揺れたのだろう。こればかりはどうしようもない。
ミツオの動きが一瞬だけ完全にとまった。
そこをヒトシは見逃さない。足を一歩まえに踏みだす。待ってましたとばかりに、ミツオに身体を密着させて、ボディを滅多打ちしていく。体育館では、ぴんぽん、ぴんぽん、電子音が鳴りやまない。
ミツオはたまらずクリンチ。レフェリー役の顧問があいだにはいり、ふたりをひきはがす。数歩離れたところで向かいあって、たがいがファイティングポーズをとった。
試合続行。
と、同時に。
ゴングが鳴った。
二分たったのだ。
第一ラウンド終了の合図だった。