32 わが子を愛せない
義母が逝った年の春、ハルキを保育園に預けて家業を手伝い始めた。ジュン君とスミレちゃんのママも仕事を見つけて働き出し、わたしたちの日常は一変した。
化粧気のない顔で互いの家を行き来していたママたちは、子どもを園に送り届けると、きっちりと紅を引いたよそ行きの顔でそれぞれの職場へと向かっていく。
「また遊ぼうね」
「うん、今度お茶しよう」
いつ果たされるともしれないその約束に、自分たちはすでに別の時間に区分けされてしまったことを知る。
思うように外にも出れず、子育ての愚痴を言い合いながら、それでも笑い声とパンの匂いとオレンジジュースととりとめのないおしゃべりで埋め尽くされていた豊かな時間。
わたしたちはその季節をすでに通り過ぎてしまった。
ハルキは毎朝のように保育園の門にスッポンのようにしがみつき、とてつもない頑固さで号泣し続けた。
「やだー、おうちに帰る! ママー!」
ベテランの保育士さんがハルキの体を抱きかかえ、力のこもった小さな指を一本一本門からひきはがしていく。
「こういうのは思い切りが大事なんですよ。お母さん、あとは大丈夫ですから、迷わないで早く行ってください!」
追いかけてくる泣き声を振り切るように自転車のペダルを踏んだ。
そんなことが数週間続き、やがてハルキは門にしがみついて泣くのをやめた。
そのかわり涙をためて唇を噛み、わたしの顔を見ないまま教室に入っていくようになった。そしてまっすぐ机に向かうと緑の通園バッグからお手拭き用のタオルを取り出し、自分の名前がついたフックにかける。
毎朝きっちりと繰り返されるそれは、まるで辛さや淋しさをやりすごすための儀式のように見えた。
「今日は、早く迎えに来てね」
帰りたいとは決して口にせず、必死に涙をこらえるハルキ。
その健気さに胸が締め付けられたのも本当だ。
なのに一方でわたしは、どうしてもわが子をうまく愛せない母親のままだった。
よちよち歩きのハルキに対して怒りを爆発させて以来、わたしは何度となく同じようなことを繰り返していた。
何かの拍子にスイッチが入ると感情を抑えられなくなり、ハルキが泣いて謝ってもなお怒鳴りつけずにいられない。
感情の波が静まったあとに残るのは、深い自己嫌悪。
我に返ったわたしは、自分がやってしまったことを帳消しにしようとするかのようにハルキの世話に心を砕いた。その姿だけを見た人々は「いいお母さんね」と褒めそやす。
そんな自分を責め続けるのも、以前と同じ。
努力しているつもりだったが、実際には何ひとつ変わってなどいなかった。
今になって思えば、わたしは自分を苦しめてきたはずの堅苦しい物差しをハルキにもあてはめようとしていたのだと思う。
きちんと、ちゃんと、しっかりと。
無意識のうちに自分自身にもハルキにもそれを過度に要求し続けて、ふたりともすっかり息ができなくなっていた。
わたしがハルキを見る目は、慈しみでなく点検だった。どこか間違っているところはないか、欠けているものはないかとそればかりに気を取られ、手放しで可愛いと感じることなどできなかった。
実際ハルキが少しでも羽目をはずそうとすれば、わたしはひどく落ち着かなくなった。結果、先回りしてこれはダメだ、ああしなさい、と指示と命令を繰り返し、いうことをきかなければ最後は怒りでコントロールしようとする。
わが子以外の誰にもそこまで思い切り感情をぶつけてしまうことなどなかったのに、ハルキとの関係でだけどうにも歯止めがきかなくなる。
結局は抵抗できない弱いもので憂さを晴らしているだけではないか、ハルキに甘えているだけではないか。
けれどそこまでわかっていながらも、一度スイッチが入ったら最後、自分の力では自分を止めることがどうしてもできないのだった。手を上げることこそなかったものの、怒りにまかせてハルキを罵倒しこれ見よがしに物に当たった。
そんなとき、わたしは父を思い出した。
感情を強く押さえ込んでいる分、爆発すると誰にも手がつけられず、周囲の空気を凍らせ茶碗を床に叩きつけていた父に、わたしはそっくりだった。
自分がそんな父の姿に戸惑い傷ついてきたように、わたしもハルキを傷つけてしまう。それが怖くて湧いてくる怒りを闇雲に閉じ込めようとすれば、その反動はさらに大きくなりわたしを打ちのめす。
なのにハルキはそれでもわたしを慕い、「ママと結婚する」などと可愛いことを言ってくれるのだ。
わたしはそのことばにすがりつき、罪悪感から目をそらそうとした。
感情的になってしまうことくらい誰にでもある、でも大丈夫、ハルキはわたしにちゃんとなついているではないか。ちょっと気にし過ぎなのだ。
そうやって自分を誤魔化そうとしてきた。
が、のちに虐待について調べるうちに知った。親からどんなひどい仕打ちをされたとしても、多くの子どもは親のことをかばい、愛そうとするのだと。
ハルキがわたしを大好きだと言ってくれていたことは、わたしがハルキをちゃんと愛せていた証拠なんかではなかった。




