第10話 事故対応と初フォロー
翌朝の空気は冷たかった。
白鹿亭へ向かう道すがら、リゼットは妙に静かだった。昨日までなら何かしら小言や不安を口にしていたはずなのに、今日は歩幅だけがやたら速い。緊張しているのだろう。
俺も同じだ。
ただ、緊張しているからこそ、やることは絞る。
今日の目的は明確だった。
白鹿亭の朝を止めないための部分導入を通すこと。
全部ではない。
茶葉と布巾。
まずはそこだけ。
「リゼットさん」
「何」
「今日の話で一番大事なのは、“取ること”じゃありません」
「……うん」
「“無理な約束をしないこと”です」
「わかってる」
「本当に?」
「その確認、今必要?」
「必要です」
「ほんと面倒ね、あんた」
だが声にいつもの棘は少なかった。
代わりに、腹を括ろうとしている気配がある。
「父さんにも昨日言ったでしょ」
「はい」
「できないことを言わない。曖昧にしない。最初は茶葉と布巾だけ」
「その通りです」
「……なら、私はついていくだけ」
「いや、かなり大事な役目です」
「どうして?」
「マルシェ商会の“現場側の本気”として見られるので」
「営業っぽい言い方」
「営業ですからね」
白鹿亭に着くと、昨日より店内の空気が慌ただしかった。朝食の波は越えたのだろうが、まだ完全には落ち着いていない。ユアンが入口で気づき、すぐに中へ案内してくれる。
「女将さん、待ってました」
「ありがとうございます。料理長さんは?」
「中にいます。ちょっと機嫌悪いです」
「理由は」
「今朝、卵の納品が少し遅れて……」
「なるほど」
やはり現場は荒れている。
こっちにとっては追い風だが、浮かれてはいけない。相手が困っている時ほど、雑な提案は嫌われる。
通されたのは昨日と同じ席だった。だが今日は、女将のミレイアさんの隣に大柄な男が座っている。四十前後、腕が太く、いかにも厨房を回してきた体つき。目つきは鋭いが、ただ怒っているだけではなく、“余計なことを言う奴は嫌いだ”という顔をしている。
この人が料理長だろう。
「来たね」
ミレイアさんが言った。
「はい。本日はお時間ありがとうございます」
「こっちが料理長のドランだ」
「どうも」
俺が一礼すると、ドランは短く頷いた。
「で、あんたが例の」
「どういう例なのか少し気になりますが、真壁連司です」
「昨日、女将から聞いた。変な話し方をする男だってな」
「概ね合っています」
リゼットが横で小さく吹き出す。
よし。悪い入りではない。
少なくとも、最初から追い返す空気ではない。
ただしここからは、本当に順番が重要だ。
俺は席に着き、最初に口を開いた。
「本日は、全部を任せてくださいと言いに来たわけではありません」
「……」
ミレイアさんもドランも黙ってこちらを見る。
「まず、今白鹿亭さんが一番困っているところに対して、部分的にでも役に立てるかを確認しに来ました」
「部分的に、ね」
ミレイアさんが言う。
「はい。茶葉と布巾です」
「干し肉は?」
ドランが低く聞く。
ここで広げない。
「候補ではあります。ただ、最初から広げすぎると守れなくなる可能性があるので、現時点では主軸にしません」
「……」
「その代わり、茶葉と布巾については、優先して回すための形をこちらで準備しています」
ミレイアさんが、ほんの少し目を細める。
昨日の話をちゃんと踏まえているか。
そこを見ている顔だった。
「準備って、何を?」
「優先棚、確認担当、納品順の固定です」
「……ほう」
「“あります”だけではなく、“どう続けるか”を先に作っています」
ドランが腕を組む。
「言うのは簡単だ」
「その通りです」
「じゃあ、何が違う」
「違いを出せるかは、今日ここで条件を詰めた上でです」
強く言い切らない。
ここはまだ、信用を積む場面だ。
俺は続ける。
「まず確認したいのですが、今白鹿亭さんが茶葉と布巾で困っているのは、量ですか。時間ですか。それとも、頼んだものが雑に来ることですか」
「……全部だよ」
ミレイアさんが答えた。
「でも順番がある」
「はい」
「一番は、朝に足りないこと。次が、頼んだ形で来ないことだ」
「頼んだ形、というのは?」
「布巾なら枚数のまとまり方。茶葉なら朝に使う分と、それ以外。こっちは現場で使い方があるのに、向こうは“同じだろ”って持ってくる」
「……なるほど」
そこだ。
単なる欠品だけではない。
現場の使い方を無視した雑さ が、不満の根になっている。
ドランが低い声で言った。
「茶葉なんざ何でも同じと思ってる奴がいる」
「はい」
「だが違う。朝に出す茶は、苦すぎても軽すぎても駄目だ」
「わかります」
「本当にか?」
「少なくとも、“何でも同じではない”ことは」
「……」
ドランはまだ疑っている。
当然だ。口だけなら何とでも言える。
だからここで重要なのは、“知っているふり”ではなく“条件を聞く姿勢”だ。
「確認させてください」
「何を」
「茶葉で外せない条件は何ですか」
「は?」
「味、渋み、香り、葉の細かさ、出る色、保ちやすさ。どこを最優先に見ていますか」
「……」
「こちらが勝手に想像して持ち込むより、その方がズレないので」
ドランは数秒黙ったあと、ふんと鼻を鳴らした。
「渋みは少し欲しい。だがきつすぎるのは駄目だ」
「はい」
「朝は客の好みが割れる。だから無難に見えて、雑に落ち着く茶は困る」
「なるほど」
「あと、布巾は厚さがバラつくと現場が嫌がる」
「枚数より規格ですね」
「そうだ」
いい。かなり具体に入れた。
俺はすぐに整理する。
「ありがとうございます。では、茶葉は“朝用として渋みはあるが強すぎないもの”。布巾は“厚さと規格を揃える”。ここが最低条件ですね」
「そうなるな」
ドランが答える。
ミレイアさんが隣で言った。
「で、それをマルシェ商会が本当にできるのかい?」
「全部は言えません」
俺は答えた。
「ですが、茶葉と布巾に絞るなら、優先して合わせることは可能です」
「全部じゃないのかい」
「今は守れません」
「……」
そこで、ドランが不意に口元を歪めた。
「変な奴だな」
「よく言われます」
「普通ここは、“できます”って言う場面じゃねえのか」
「守れないなら言いません」
「……ふん」
少しだけだが、態度が緩んだ気がした。
現場の人間ほど、“できるできる詐欺”を嫌う。だから、ここは効く。
俺はここで、持ってきた小さな包みを机の上に置いた。
「昨日お渡しした茶葉と、同系統のものです」
「見せるだけかい?」
ミレイアさんが聞く。
「はい。今日は持ち込みの可否ではなく、条件の確認が先なので」
「へえ」
「ただし、もし味見で判断いただく必要があるなら、そこは対応します」
「……」
「いきなり“使ってください”とは言いません」
リゼットが横で、昨日のロープレ通りだという顔をしていた。
だがその時、厨房の奥から皿の割れる派手な音が響いた。
全員の視線がそちらへ向く。
「何やってんだ!」
ドランが立ち上がる。
奥から若い声がした。
「す、すみません! 布巾が足りなくて熱い鍋を――」
「馬鹿野郎!」
空気が一気に張り詰めた。
ミレイアさんもすぐに立つ。
リゼットが目を見開く。
俺も立ち上がった。
厨房の入り口近くまで行くと、若い下働きが青ざめた顔で立ち尽くしていた。床には割れた皿。近くの台には湯気の立つ鍋。どうやら熱い取っ手を掴みかけ、慌てて落としかけたらしい。
「怪我は」
俺が先に聞く。
「え、あ……だ、大丈夫です」
「火傷は?」
「少しだけ……」
「水へ」
ドランが短く命じる。
「すぐ冷やせ!」
若い下働きが慌てて動く。
厨房はざわついていた。
だがここで必要なのは、原因の断罪ではない。まずは収めることだ。
「布巾が足りなかったんですか」
俺がドランへ聞くと、彼は舌打ちした。
「朝の分でだいぶ回した後でな。予備の束が思ったより少なかった」
「置き場は?」
「奥だ」
「手前に予備を置けていない?」
「今はな」
なるほど。
これは不幸な事故だが、同時に白鹿亭の現場課題がそのまま表に出た瞬間 でもある。
布巾は単なる備品ではない。動線と安全に直結している。
ミレイアさんが額に手を当てる。
「……こういうのだよ」
「はい」
俺は答えた。
「まさに、こういうことです」
その場の空気の中で、俺はあえて急がなかった。
「女将さん」
「何だい」
「今ここで一つだけ言えることがあります」
「……」
「布巾については、“あるかないか”だけじゃ足りません」
「ええ」
「どこに、何枚束で、どう置くかまで含めて初めて回る」
「……その通りだよ」
ドランが腕を組んだまま、こちらを見る。
「今のを見て、売り込みの種にする気か?」
「違います」
「じゃあ何だ」
「優先順位の確認です」
「……」
「白鹿亭さんが困っているのは、納品されることじゃない。現場で止まらず使えること だと、今はっきりしました」
数秒、沈黙。
そして、ドランが低く言った。
「……悪くない」
「ありがとうございます」
「だが、それをどうする」
「最初の提案を修正します」
俺は答えた。
「修正?」
ミレイアさんが聞く。
「はい。茶葉と布巾の部分導入に加えて、布巾だけは“納品数”ではなく“置き方と予備束の運用”までセットで考えます」
「……」
「何枚で一束か。どこへ置くか。朝の予備をどこで切らさないか。そこまでこちらで仮設計します」
「そこまでやるのかい」
「布巾の問題が、物じゃなく運用だとわかったので」
ミレイアさんとドランが目を合わせた。
ここだ。
事故は不運だ。
だが、その不運にどう反応するかで、相手の見方は変わる。
俺は続ける。
「今日は受注の話を無理にまとめません」
「……」
「その代わり、明日までに布巾の運用案も含めて持ってきます」
「明日?」
リゼットが小さく声を上げる。
言った瞬間、俺自身もギリギリだと思った。
だが、ここで時間を空けすぎると熱が冷める。今この事故が起きたからこそ、意味がある。
ドランが眉を上げる。
「できるのか」
「やります」
「守れるのか」
「守れる形までしか言いません」
「……」
ミレイアさんが、ふっと息を吐いた。
「いいだろう」
「女将」
ドランが見る。
「今の事故を見て、“布巾あります”で終わらせなかった。そこは評価する」
「……」
「兄さん」
ミレイアさんが俺を見る。
「明日だ。茶葉と布巾、それから布巾の運用。そこまで持ってきな」
「承知しました」
「ただし」
「はい」
「今度は、口だけじゃなく形を見せてもらうよ」
「そのつもりです」
白鹿亭を出た後、リゼットはしばらく無言だった。
宿の角を曲がって、人通りが少し減ったところでようやく言う。
「……今の、予定外だったわよね」
「完全に」
「なのに、よくあそこで“明日までに持ってきます”なんて言えたわね」
「言わないと流れが切れると思ったので」
「いや、わかるけど」
「怖いですよ」
「やっぱり怖いのね」
「かなり」
「全然見えない」
「見せません」
「もうそれ聞いた」
リゼットは大きく息を吐いて、そして笑った。
「でも、ちょっとすごかった」
「何がです?」
「事故が起きた時に、誰かを責めるんじゃなくて、“じゃあ何が足りないのか”にすぐ変えたところ」
「責めても布巾は増えないので」
「そういうとこよ」
俺は空を見上げる。
最初の部分導入は、まだ決まっていない。
だが、白鹿亭の現場が何に困っているかは、かなり鮮明になった。
茶葉。
布巾。
そして、布巾の運用。
つまり次は、商品ではなく仕組みごと提案する 番だ。
第10話を読んでいただきありがとうございます。
次回、白鹿亭で起きた事故を踏まえ、主人公たちは“物”ではなく“運用”まで含めた初提案を組み上げます。
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