043 ~延徳4年(1492年)6月 凌雲寺~
~延徳4年(1492年)6月 凌雲寺~
【凌雲寺住職専如視点】
夜明けの名残を引きずる根羽の宿は、山霧が低く垂れ込み、屋根と屋根の間を白く曖昧にしていた。しかし矢作川の音ははっきりと聞こえ、早起きの人足たちが、すでに動き始めている。
その中を、やけに軽い足取りで、ひとりの僧侶が歩いてくる。僧衣は少し皺が寄り、袖口には旅塵が残り、派手な草鞋は真新しい。後ろに続くのは京に上る際に山と積んだ銭が跡形もなく消えた馬を引く、疲れた顔の久兵衛。久兵衛とは対照的に、僧侶の顔色はとても艶やかだった。
専如が凌雲寺へ戻ってきたのは、酒蔵での仕込みが三月目に入った朝のことだった。
「……ふう。やはり三河の空気は、京とは違い清々しいのう。」
誰に聞かせるでもなく呟き、専如は大きく伸びをした。長逗留の疲れどころか、艶々とした顔色の専如の様子に、境内を掃いていた下僧が思わず箒を止める。専如は山門をくぐり、数歩進んだところで、ふいに足を止めた。
「……む?」
鼻先を掠める匂い。杉の新材、蒸し上げた米の湯気、そして、かすかに甘い麹の香り。修行僧として長く本願寺に居た人間としても、覚えのある匂いだった。
「……これは……。」
境内を見渡すと、見慣れぬ光景が広がっている。樽を運ぶ人足、桶を抱えた女たち、帳面を脇に挟んだ若者。それぞれが勝手に動いているようでいて、どこか流れが揃っている。
さらに目につくのは、相変わらず押しつけがましく立てられた菅沼家の「六つ釘抜き」の旗の合間に、鈴木の「抱き稲」の旗が控えめながらも要所に立てられ、場を押さえている。
根羽の宿に戻ったとき、専如はまず――思ったよりも、話が早いな、と感じていた。
根羽の宿から本願寺へ発ってから、まだ半年も経っているわけではない。だが、山裾に漂う匂いが、すでに違っている。杉の新材の青い香り。蒸し米の湯気。麹の、甘く鼻の奥に残る匂い。
(……始めおったな。)
専如は口元を緩めた。慈円をこの地に寄越したのは、自分だ。あの真面目だけが取り柄の堅物が来れば、形だけの酒造りで終わるはずがないと踏んでいた。だから、多少は進んでいるだろうとは思っていた。
――だが。
山門を抜け、境内を見渡した瞬間、専如は小さく息を呑んだ。人が多い。しかも、無秩序ではない。樽を運ぶ者、桶を洗う者、帳面を付ける者。それぞれが、己の役目を知って動いている。
(……これは、慈円一人の手際ではないな。)
境内のあちこちに、特に粥の炊き出しの鍋の横に立つ菅沼の旗。押しつけがましいことこの上ないが、場を支配するには十分だ。
専如は、そのまま境内にも新設された酒蔵へ足を向けた。戸を開けた瞬間、熱と音が押し寄せる。蒸気の向こうに、人の背中が幾つも重なっている。
そして――目に入った。
働く男たち。前に出て指示を出しているのは、紫乃。動きはきびきびとしており、無駄がない。決して声を荒げず、だが言葉は的確で、周囲が自然と従っている。
その脇で、鈴木家から引き取られた女たちが、黙々と手を動かしている。京の花街で見慣れた、媚や計算の匂いはない。汗と、米と、木の香り。
(……なるほど…鈴木重勝の娘や、その一党がこき使われておるという訳か。)
専如は、ふっと鼻で笑った。京の傾城街とは、まるで違う。だが――これはこれで、悪くない。
(確か紫乃だったか…重勝の娘の手際も悪くない。人使いの才は重勝の血か。顔が重勝に似なかったのは僥倖じゃな。)
そのとき、奥から慈円が現れた。こちらを見るなり、わずかに眉を上げる。
「ようやくお戻りですか、専如殿。てっきり、京の酒壺にでも溺れておられるかと存じておりました。」
慈円が冗談ともつかぬ、ただの悪口を言ってきた。まったく失礼な奴じゃ。
「うむ。思ったよりも進んでおるな。」
「専如殿が私を呼んだ時点で、こうなることは想定しておりました。」
慈円の言葉に、専如は肩をすくめる。
「ならば話は早い。」
そう言いながら、蔵の奥へ視線をやる。大きな結樽や結い桶。本願寺でも滅多に見ぬ大きさだ。
「この様な大きな樽、本願寺にもそうは無いぞ。」
「酒を造るための蔵ですから。」
根羽の連中を指導するうちに貫録でもついたのか、慈円の奴が儂にやけに生意気な口を利く。
「はは……言うようになったな。」
慈円は小さく息を吐いた。
「樽の大きさだけで酒は出来ませぬ。だが……菅沼の人の集め方は見事です。」
結樽の周りをゆっくりと回りながら、儂は答えた。
「集まるものじゃ。腹を満たしと役目を与えればな。」
そこでふと気配を感じ、蔵の入口へ目を向けた。
そこに立っていたのが、大勢の鋭い眼つきの供回りに囲まれた菅沼竹千代だった。もちろんその中に――見覚えのある顔、幸田兵庫もいる。
(……なるほど。)
儂は、さっそく京で聞き集めた噂話を、頭の中で素早く繋ぎ合わせる。花街で聞いた話。酒問屋のぼやき。町衆の間で流れる流行。まぁ…主には花街じゃが。
――そして、目の前のこの光景。
「竹千代殿。」
儂は長年、魑魅魍魎が巣食う本願寺で磨き上げた、権力者へ阿ねる笑みを顔に貼り付け、にこりと笑って竹千代に声を掛けた。
「竹千代殿、”拙僧が”呼んだ慈円はお役に立っておりますかな。本願寺は最後までいい顔をせなんだが、無理を言って”拙僧が”連れだしたんじゃ、慈円には精々働いて貰わないと、拙僧の立つ瀬がない。」
竹千代が、黙って耳を傾ける。
慈円を連れて来た儂の功績を思い出させるだけでは弱い。京の町で集めた有益な情報を供する事も忘れてはならぬ。
「京では今、甘口一辺倒は飽きられ始めております。香りの立つ酒。だが、飲み疲れせぬものが好まれる。」
声を落とし、続ける。
「京都では、清い酒はもう寺のものではない。町のものじゃ。女も、商人も、浪人も……皆、酒の味で動く。酒を押さえるというのは、兵を養う以上の意味を持つ。」
竹千代が静かに、はっきりと頷いた。
「……分かっている。」
儂の言葉に、竹千代が静かに拳を握った。酒。人。富。それらが、兵と同じ重さで国を支えることを、改めて胸に刻んだようだ。
「まあ、その辺りは拙僧が居らずとも、もう考えておったようじゃな。」
蔵の中に、再び人々の動く音が満ちる。折角、美味そうな酒が出来るのじゃ。儲ける算段を考えねばならん。儂は僧衣の袖をまくり上げ言った。
「さて。戻ったからには、次は売り先の話じゃ」
慈円が苦笑する。
「まずは、酒を仕上げてからにしてください。」
「いや、京の連中は気が早い。」
儂は軽く手を振って続けた。
「出来た瞬間に奪いに来る。だから先に網を張るのじゃ。量よりも、銘柄。寺や土地の名より、物語の名。」
幸田兵庫が、わずかに目を細めた。
儂は続ける。
「そして――銘は縁起が良くなくてはならぬ。縁起が良ければ武家が飲む。武家が好む酒は、必ず公家も商人も飲む。」
紫乃たちの方へ、ちらりと視線を送る。
「ここには、その物語がある。そうじゃ銘は『紫乃』が良い。槍で国を亡くした鈴木が酒で天下を狙う。まさに吉祥じゃ。」
竹千代は、短く頷いた。
「……良い話だ。」
儂は内心で、ほう、と感心する。見てくれは幼いが……相変わらずただの餓鬼ではないな。説法はおそらく兵法と同じだ。流れを読めぬ者は必ず遅れる。
儂は、袖を軽く払った。
「さて。戻ったからには、拙僧も手を動かそうか。」
慈円が、小さく溜息をつく。
「ようやく、ですね。」
「何を言う。調べは済んでおる。」
専如は、もう一度蔵を見回した。人がいて、酒があり、富が生まれる。その中心に、自分が戻ってきたことを、はっきりと感じながら。
(――面白くなってきたわ)
そう思い、儂はゆっくりと歩き出した。
〜舞台背景〜
専如いじりで、箸休めの回です。本当に日本酒造りは情報量が多いので表現が難しくて、丁寧に書こうとするとノンフィクションぽくなってしまい、どんどんライトノベルからかけ離れて行ってしまいました。なので専如弄って久しぶりのなろう小説ですw







