042 ~延徳4年(1492年)6月 根羽宿~
~延徳4年(1492年)6月 根羽宿~
室の白い花が静かに息を引いた翌日の昼、蔵のいちばん奥で酛桶が洗い上がり、陽に乾いていた。慈円の前で、紫乃、鈴木の者たちが静かに持ち場につく。
「今日は酛造りじゃ。」
慈円が短く告げる。紫乃は井戸端にしゃがみ、桶底の節を指先で撫でては、ささくれを一つずつ落とす。
ふやけた指の腹に木目が細く移る。額の手拭いは汗で色を深め、こめかみに落ちた一筋を、耳の後ろへ無言で払った。
日暮れまでに“水麹”を仕立てる。麹を手で砕き、仕込み水へ沈め、薄い甘みを引き出す。立つ香りは若い栗と草の間。紫乃は鼻先だけ近づけ、わずかに頷いた。
「冷たいまま抱かせます。今夜は風が落ちるので、低い温で。」
男衆が目だけで合図を返す。酛場の床は拭き上がり、道具は塩湯で洗って立てかけられる。開け放した口はそのまま、音を沈めるのが掟。慈円の教えであり、いつしか彼女のやり方にもなった。
暮れ六つ。白い蒸米が甑から降りてくる。よく張り、芯に力が残る。
紫乃は掌でひねり、割れ目の艶を確かめてから、酛桶へ少しずつ落とす。水麹が触れるところを木櫂で撫でる。“打瀬”。
重く押さず、膝のしなりで面を崩し、ゆっくり溶かす。山卸しに頼れば早いが、米も体も怒る。教えは守り、拍は軽く——彼女の手の内に置き直す。
「唄は短く、息は深く。」
その一言で、櫂の柄を握る手がそろう。とん、とん。面を叩く音が板に返り、反響が穏やかに沈む。
紫乃は裏戸を半身だけ開けて井戸の冷気を引き込み、手拭いを水で絞って櫂の柄に巻き、順に手渡した。袖口からのぞく手首は細く、結び目が小さく揺れる。
半ばまで溶けたところで、顎をほんの少し引いて合図する。
「ここで止めます。形を少し残して。」
粥にはしない。酵素の道を残し、明日以降の“息”に余白を置く。桶の縁に布を渡し、蓋を置く。氷はない。代わりに、井戸水を通した縄を外周に巻いて夜風に当てる。
冷えがゆっくり伝うのを待つのが、彼女の工夫だ。縄を締める手つきは静かで、結び目を整える親指が短く息をつく。
更ける。蔵の奥は墨色。紫乃は二度、三度と桶を見に行き、櫂で面を撫でる。香りはまだ爽やか、酸の気は立たない。帳面に引く線は短く、数は多い。浅ければ糖が足りず、深ければ雑菌が喜ぶ。両刃を、掌で持つ。筆先を止めたとき、睫毛が灯の下で小さく影を作った。
明け方、気配が変わる。粉の甘さの奥に鋭い影——ほんのりと酸。紫乃の視線が上がる。
「来た。」
聞き漏らせない低さ。手の甲で温みを測り、布の襟を少し持ち上げて息の道を作る。低温で乳の酸を先に立て、邪を寄せつけない場を用意する。序の底を、せかさない。髪の結び目を指先で整え、また離れる。
午の刻。酸ははっきりし、とろみの底で小さな泡が踊る。紫乃は米をひとさじ口に含み、舌で転がして吐く。甘みは控え、舌脇に痺れる酸。櫂を置き、男衆を呼ぶ。
「ここから酛を呼びます。桶を怒らせないで。櫂は縁だけ。」
呼ぶのは蔵の空気、道具、米肌の居つき。選ぶのは環境。紫乃は蔵の口を半ば閉じ、井戸の冷を一分だけ上げる。走らせず、締めすぎず。見えない柵を、そっと立てる。
戸口に立つ横顔は幼くも強く、風が頬を撫でると、まつ毛が一度だけ震えた。
三日め、香りが変わる。酸の芯が丸みを帯び、若い果の気配。泡は細かく面へ薄く張り、寄り合って小さな丘に。湧き付きの兆し。紫乃の目がほころぶ。
声は上げず、櫂の先で桶の内側を撫で、酸欠を避ける。拍は早めない。焦れば野が入る。男たちが無言で頷き、櫂を受け取る。紫乃は酛場の戸を一寸だけ開け、風の逃げ道をつくった。
その夜、桶が重く鳴る。泡は高く、粘りを持つ。紫乃は身をかがめ、泡の“重さ”を見る。軽い白ではない。鈍さのある力。口元が、気づかれぬほど小さく上がる。
「よく食べる。……でも、ここで調子に乗らせない。」
布の襟を直し、桶の位置を半身ずらす。床の冷えの違いを知っている。熱の角から日陰へ、半歩。男たちは黙って運び、楔で足を止めた。紫乃は結びを確かめ、袖でそっと汗をぬぐう。
四日め、最高温が近い。面がわずかに荒れ、泡の張りが落ち始める。その手前で、櫂を深く入れず縁を打ち、返る音で確かめる。軽い音。小さく頷く。
「――今。」
息を呑む気配。紫乃は添えの段取りを短く並べる。急くが、荒らさない。酛がもっとも強く、酸がなお効き、野が寄りづらい刻に歩を進める。指先の合図だけで人が動き、道具が鳴らない。
酛桶の香りは、酸と甘みの奥に白い花の気配を含んだ。紫乃は櫂を置き、桶の縁に額をそっと当てる。手拭の汗はほとんど乾き、結び目が軽く落ちる。
「酛が息をした。」
小さな声。肩が、ようやく一分だけ落ちた。
夕暮れ、慈円が桶の縁に鼻を寄せて目を閉じる。慈円の顔がほどける。
「よい酛だ。怒らせず、甘やかさず。……紫乃殿の拍だな。」
紫乃は深く頭を下げる。起こした顔はすぐ仕事の表情に戻るが、目の端の光は消えない。
「この蔵の酛は強い。明日からの三段、気を抜かずに。」
灯が傾き、泡の残照を金に変える。紫乃は戸口の影に立ち、風の筋を確かめるように袖口を整え、静かに場を離れた。
――――酛/酒母
酛(酒母)は、のちに醪へ渡すための「清酒酵母の畑」であり、同時に清酒酵母を守る「酸の盾」でもある。
ワイン酵母と同じ場では瞬く間に負けてしまうほど孅く繊細な清酒酵母だけを純粋に増やし、雑菌や野生酵母が入りにくい環境を先に整える――それが酛(酒母)の役割だ。
なぜ酛(酒母)が要るのか。清酒酵母の発酵は開放状態で行われ、常に外気と触れ合う。他の密閉発酵と違い、外から微生物(乳酸菌)が入り得る前提で設計されている。
一方で非常に孅い清酒酵母だが「奇跡」と呼ばれる、雑菌や野生酵母、他酒類酵母には無い「酸」の中でも生存可能という無二の特性がある。
そこで酛(酒母)で二つの仕掛けを準備する。ひとつは「多数の優良酵母」。数で場を占有し、後から来た敵に席を与えない。もうひとつは「乳酸」。酸の力で多くの雑菌を抑え込み、清酒酵母が好きな糖化(麹の働き)を邪魔しにくい「酸」で場を守る。この二つの仕掛けを備えた酛(酒母)が「健全」と呼ばれる。
手法は大きく二系統。近現代の速醸系は、はじめに醸造用乳酸を加えて安全地帯をつくり、そこへ清酒酵母を添加して約2週間で仕上げる。
中世以来の生酛系は乳酸を加えず、低温で微生物(乳酸菌)の遷移を待ち、乳酸菌を先に働かせてから酵母を優勢に導く。こちらは乳酸菌の立ち上げにおよそ1か月、全体では2か月を要する。
ところで話は逸れるが、やはり酒が齎す富は莫大であった。明治30年度(1897年)酒税は明治政府の国税収入の約31%を占めており、昭和2年度(1927年)には所得税21%を凌駕し酒税25%が税収額1位だった。(令和6年度(2024年)酒税は国税収入の1.4%)。
近代日本で酒が税収の柱だった事情から、醸造の科学化と合理化は国策として推し進められ、明治43年(1910年)に人工的に乳酸を添加して工程短縮をする「速醸」が考案された。
酛(酒母)造りは、水麹づくりから始まる。麹を仕込み水に浸し、甘みと酵素を引き出す。
そこへ蒸米を合わせ、山卸しまたは打瀬(軽く崩して溶かす)で粘度を整え、低温(およそ5〜9℃)で静置。序盤は糖を増やし過ぎず、酸を先に立てる。
酸の匂いが立ち上がれば「酸の盾」ができた合図。
以降は酸欠に注意して軽く撫で、湧き付きから踊り、最高温へと運ぶ。最高潮の直前から直後が力の極みで、その短い窓を逃さず醪への「添」に渡す。
健全な酛の目安は三つ。
一に、優良酵母が純粋に多数いること。
(顕微鏡がなくとも、香り・泡質・味の変化で推す)
二に、乳酸が充分であること。
(酸臭と酸度の伸び、雑味の抑制)
三に、使う瞬間の活力が高いこと。
(最高温の立ち上がりと落ちの手前、泡の張り、糖の減り具合)。
この三つが揃えば、三段仕込み(添・仲・留)で量を増やしても、酵母優位と酸の盾を保ったまま本仕込みに入れる。
酛(酒母)造りで注意すべきは温度・酸素・衛生。温度は低めに、上げ下げはゆっくり――急変は酵母にも雑菌にも負担になる。
酸素は序で少し、破で控え、急でまた少し――櫂入れの深さと回数で調整する。衛生は道具・床・手の順に保つが、良い常在微生物まで消し去らない“さじ加減”も要る。そこにレシピはない。
香り、泡、手触り、音――目に見えない徴を拾い、強く、しかし荒らさず育てる。それが酛(酒母)造りの仕事である。
~超難解・清酒醸造工程~
(順) (工程) (状態)
1.精米 米 ◁036話
2.洗米・浸漬 米 ◁039話
3.蒸し (ふかし) 米 ◁040話
4.製麹 (こうじ) 麹 ◁041話
5.酛 (もと) 酒母 ◁042話
6.仕込 (三段) 醪
7.発酵 (もろみ) 醪
8.上槽 (もろみ) 醪
9.滓引 (もろみ) 醪
10.濾過 (もろみ) 醪
11.火入 酒
12.割水 酒
13.出荷 酒
~参考記事~
3 営業収益税の時代|租税史料特別展示/国税庁
https://share.google/7MeBYmYw05djy82nk
日本酒の「生酛造り」とは?/沢の鶴オンラインショップ
https://share.google/EiBx54sdTBjvmOSEw
〜参考動画〜
【貴重映像】酒蔵で日本酒が完成するまでを追ってみた
https://youtu.be/SNTWn_VQdMo?si=HOfrmAKgjA7Lf_tx
〜舞台背景〜
今話も清酒造りです。日本酒が発酵するためのスターター、酛造りの回です。
本当に興味深いネタが多くて、例えば酛造りをお洒落に描きましたが、現実は酛の酸度が高過ぎて、汎う香りは酒というより温泉の硫黄の匂いで臭いそうです。
また、成分分析の無い時代は飲んで発酵具合を確認してたのですが、強酸なので歯が溶けてしまい皆さん歯が無かったそうです…過酷w
他にも蔵人は女人禁制だったそうなのですが、そうなった経緯が、農民が農閑期に酒造りを手伝いに行くのですが、結構稼げたために町から帰って来なくなっちゃうので、人質として妻子を村に留め置いたからって話も興味深かったです。




