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第1話 凡人のログイン

 ――ログインしますか?


 視界の中央に浮かぶ白いパネル、その下で脈打つ青いボタン。僕は一度だけ深呼吸して、右手を伸ばした。

 指先が触れた瞬間、現実の六畳間はほどけて、僕は《クロス・リベリオン》の朝霧の中にいた。


 灰色に曇った空。石畳を濡らす微かな露。中央広場の噴水は今日も規則正しく水を跳ね上げ、プレイヤーたちの喧噪はいつものように騒がしい――はずだった。

 けれど僕の周囲だけは、目に見えない薄い膜が張られたみたいに冷えていた。


「……あ、来たんだ。れん


 ギルド《スターバイト》のチャットが、遅れて耳の中で弾ける。聞き慣れたはずの声――リーダーのアッシュが、半歩だけ距離を置いた口調で言った。


『今日のレイド、補助枠は埋まった。蓮は……うん、見学で』


「見学、か。僕、補助士サポーターだし、バフ回しなら――」


『いや、蓮のタイミング、ちょっと合わないんだよね。DPS(火力)落ちてるって言われるし。ほら、ランキング狙うからさ、うち』


 ランキング。

 この世界の神サーバが配る唯一の栄典。上位に入る者は、称賛と、フレンド申請と、スポンサーの目と、あらゆる“運”を引き寄せる。

 僕は、そこから一段、いや十段くらい下で、いつも石畳を眺めていた。


『じゃ、レイド行ってくる。蓮は……今日、上手く回復ポーションでも作ってさ。商会に売るの得意だろ? ギルドの資金、助かってるから』


 通信が切れる。

 目の前のパーティ編成ウィンドウから、僕のアイコンがするりと抜け落ち、穴は別の誰かで埋まった。


 広場の片隅、石段に腰を下ろす。

 僕の職業、補助士。攻撃スキルは貧弱で、回復はオマケ。代わりに「強化」「弱体」「支援」の種別が豊富――なのに、レイド最前線では“完璧なタイムライン”でスキルを置く正確さが要求される。

 ちょっとでもズレれば、火力が落ち、トップ陣からは切り捨てられる。


 冴えない大学生の僕は、現実でもたいして冴えない。ここでくらい、誰かの役に立てると思っていた。

 けれど、役に立つには、僕は少しばかり不器用すぎた。


 ぼんやりと空を見上げる。雲が低く、サーバの負荷みたいに重たい。

 その時だった。


 ――ピン、と弦が鳴るような澄んだ音。

 視界の端に、見慣れない小さな▽が現れた。なにこれ、と指先で撫でると、▽はゆっくりひっくり返り、細い線で囲われたウィンドウになった。


 〈Hidden Parameter Pane〉


 英語。しかも、UIの書体が公式と違う。

 ふざけてるのか? 誰かの悪質なMod? いや、サーバ側チートは即BANだ。僕は思わず周囲を見渡す。広場を行き交うプレイヤーは、誰も反応していない。


 ウィンドウは勝手に展開した。

 そこには、僕のステータスと似た表が並んでいた――が、見たことのない項目がずらりと並んでいる。


 Luck(運):3 → 3.01

 Favorability(好感度・NPC):中立(0) → 0.1

 Vector Correction(動作整合):標準(1.00) → 1.02

 Aggro Weight(敵視重み):0.8 → 0.79

 Drop Bias(戦利品偏差):±0 → +0.1


 ……冗談だろ。

 そんなパラメータ、公式ヘルプのどこにも載っていない。


 指先が震えた。

 おそるおそる、Luckの右にある微細なスライダーを、0.01だけ上げる。

 その瞬間、ウィンドウがわずかに点滅し、広場の石畳の光が一段だけ明るくなった――気がした。


 偶然、か? プラセボ、だろ。

 僕は立ち上がる。試すなら、人の少ない場所がいい。



 街外れの草原。初心者がスライムを叩く、あの見慣れた薄緑の丘陵。

 僕は装備を最低限だけ整えて、スライムの群れに向かった。


「〈ブラインド・フォグ〉」


 煙のような薄い霧が足元に生じる。補助士の基本デバフ。命中をわずかに落とす。

 ……が、霧のエッジが、いつもより粘っこくスライムに絡みついた。


 Vector Correction:1.02 → 1.05


 ウィンドウの数字が、こちらの行動に反応して滑っていく。

 ……そんな馬鹿な。

 だが、スライムの跳びかかりは霧の中で角度を失い、僕の肩先を空しく舐めていく。足運びが、いつもより噛み合う。身体と視界と操作が、一本の線で繋がったように快い。


「〈スロー・エッジ〉」


 刃のないナイフの軌跡がスライムの表皮を裂き、灰色のダメージ数値が弾ける。

 補助士の弱い一撃。だが、そこにAggro Weightが0.79まで下がっていたおかげか、他のスライムのヘイトは過剰に跳ねてこない。

 足元のポップアップに、見慣れない小さなテキストが出た。


 「補助行動の整合率が閾値を超えました:Vector Bonus +2%」


 頭が痺れる。

 本当に、これ、動いてる?


 草むらの向こうで、宝箱が一つ、ひっそり口を空けていた。

 初心者帯のフィールドに、宝箱なんて滅多に出ない。拾いに行くと、銀貨と、少しだけ高級なハーブが入っていた。

 Drop Bias:+0.1 → +0.2


 汗を拭う。

 笑いが込みあげた。

 偶然の連続にしては、できすぎている。

 “裏パラメータ”。本当に存在するのか。


「――やってるね」


 背後から、涼しい声。

 振り返ると、白い外套に銀の髪をまとめたプレイヤーが立っていた。背中の剣は、朝霧の光を吸って淡く輝く。

 《白百合の剣姫》。ランキングの常連。SNSでも顔が知られている、有名人。

 遠目に眺めたことはあっても、会話したことはない。


「補助士にしては、動きが綺麗。Vector、盛ってる?」


 ――見えている?

 いや、彼女の視界に〈Hidden Parameter Pane〉は出ていないはずだ。

 単に、動作から推測したのかもしれない。あるいは、ただの冗談。


「……何の話だい」


 声が裏返りそうなのをごまかす。

 白百合の剣姫は、微笑を浮かべた。敵意はなく、ただ好奇が滲む微笑。


「ギルド、抜けたほうがいい。あなた、追放されかけてる」


「……どうして」


「さっき、リーダーのアッシュがチャットで喋ってた。“補助の凡ミスでDPS落ちるから、あいつは見学でいい”って。見学が増えたら、次は『いらない』になる」


 喉に棘が刺さったみたいに、言葉が出ない。

 白百合の剣姫は肩を竦める。


「補助士はね、“凡ミス”の罰が重い職。だから、凡人は嫌われる。でも――」


 彼女の視線が、僕の背後の宝箱へと流れる。銀貨の縁が、朝日にギラリと光った。


「凡人じゃないなら、話は別」


 白百合の剣姫は、フレンド申請を送ってきた。画面の端で、淡い白の花弁が舞うようなエフェクトが散る。

 僕は、躊躇いなく承認ボタンを押した。



 昼を少し過ぎた頃、街へ戻る。

 装備を付け直しつつ、商業区の屋根の下を歩く。NPC商人の視線が、いつもより長く僕に留まる。

 試しに、〈Hidden Parameter Pane〉のFavorabilityを0.1だけ上げてみた。

 瞬間、露店の老婆が、僕の手元のハーブを見つけて言う。


「まあ、いいハーブだねぇ。掘り出し物だよ、その子」


 いつもなら、値切りに値切りを重ねないと笑ってもくれないのに。

 老婆は包みを受け取り、通常より一割高い値で買い取ってくれた。

 震える指先で、Paneの数字を見下ろす。Favorability:0.1 → 0.2。

 ごく、唾を飲む。


 その時、頭のてっぺんに針で触れられたみたいな感覚が走った。

 視界の隅に、今度は赤い楔形のアイコンが点滅する。


 〈System Whisper〉:非公開プロトコルにアクセスを検出。


 ――見つかった?

 背筋が冷える。周囲の雑踏が遠のき、心拍だけが大きくなる。

 次の瞬間、〈Whisper〉の欄に、誰かからのメッセージが飛び込んできた。


 『それ、どこで覚えたの?』


 送信者:Unknown。

 アイコンは、黒い仮面のシルエット。プレイヤー名は、伏字だらけで読めない。


「……」


 白百合の剣姫とのDMが、ちょうど同時に開く。


 白百合:『さっきの、“それ” 危ない橋。裏仕様は噂で聞いたことがある。もしよければ――うちのギルドに来ない? 守るから』


 画面の中で、二つのテキストが向かい合う。

 Unknownの黒い声と、白百合の純白の護り。

 その間で、僕の指がわずかに止まった。


 ――凡人の人生は、ここで終わりか。

 ログイン前、石畳に座っていた時の自分が、遠い。

 裏仕様は、救いの糸か、それとも奈落のワイヤーか。


 僕は、〈Hidden Parameter Pane〉のLuckを、3.01→3.11へと、ほんの少しだけ押し上げた。

 そして、白百合のウィンドウに、短く返信を打つ。


 『行こう。僕は、ここから変わりたい』


 送信の瞬間、赤い楔形のアイコンが、もう一度だけ強く光った。

 **〈System Whisper〉**のログに、消え入りそうな文字が残る。


 ――“管理者権限の影”が、あなたを見ています。


 震える胸を、深く押し込んだ。

 凡人だった僕の最初の一歩が、石畳の上に、確かな音を立てて降りた。

 目の前で、世界が、わずかに軋む気がした。

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