表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
98/105

第96話 夜の海を超えて

 イギリスへの入国は、カムシャン連邦のときと同じく――船だった。


 理由は単純だ。

 魔物の活性化によって、人間に化ける魔物の事例が急増した。

 そのため、空港の入国審査はかつてないほど厳格になり、まともに通ることすら困難になっていた。


 だが、代わりに船旅には別のリスクがある。


 海の魔物たち。


 空を避けた分、今度は海が牙を剥く。

 ――それが、今の世界だった。


 船室の窓辺に腰かけ、エンドは静かに本を読んでいた。


「エンド、また何か読んでるの?」


 セレナが興味深そうに覗き込んでくる。


 エンドは軽く本を傾け、セレナにも見えるようにする。

 ページには、英語の一節が記されていた。


 We’ve been through the downs and slips of time,

But we’ve known the rise from being lost and loving alone.



 セレナはページから目を離さず、静かに訳した。


「何度もつまずいて落ち込んだけど、

それでも、孤独な愛から立ち上がる方法は知ってる。」


 セレナはふうん、と一つ小さく息をつき、それからふわりと笑った。


「なんか、私たちみたいだね。

 それとも、意識して読んだ?」


 茶化すような口調。

 けれど、その目はどこか、嬉しそうだった。


 エンドは微かに笑って、答えなかった。


 ――そのとき。


「おーい! 若いふたりさん!! 魔物だ、魔物が出た!!」


 甲板から荒っぽい叫び声が響く。


 セレナが素早く立ち上がる。


「……行くぞ」


「はいはい、わかってるって」


 二人は並んで船室を飛び出した。


 


 甲板に出ると、夜風の中、異様な光景が広がっていた。


 巨大なイカの魔物。


 触手が二本、甲板を這い回り、

 膨れた体躯には異様に肥大した一つ目。

 口の中には、鋭いギザギザの歯列。


 その禍々しさに、船員たちが距離を取り、緊張した面持ちで見つめていた。


「最近ここらの船を潰して回ってる奴だ! いけるのか、おふたりさん!」


 船長らしき男が、頼もしそうに叫ぶ。


 エンドとセレナは、無言で頷いた。


 俺たちは、船に乗せてもらう代わりに戦力として雇われている。

 ここで応えなければ、筋が通らない。


「任せてください」


 セレナが、剣を抜き放ちながら応える。


 エンドも静かに言う。


「セレナ、あまり血は使いたくない。

 ……俺が目を潰す。お前が決めてくれ」


「了解」


 短く交わすだけで、二人の呼吸は完璧に合った。


 エンドは指先に小さな傷を作る。

 流れる血を、意識で操り、掌に集める。


 甲板に落ちるより先に――

 血は空中で鋭い球体へと凝縮された。


 それは、殺すためではない。

 あくまで、“戦場を切り開くための矢”。


 エンドは狙いを定める。

 イカ魔物の、ぎょろりとした一つ目。


 


 ウォォォォォン――!


 魔物が低く唸った瞬間、エンドは迷いなく撃った。


 血弾、発射。


 真紅の閃光が、一直線に魔物の目を撃ち抜いた。


 ギャァァァァァッ!


 悲鳴と共に、魔物が触手を暴れさせる。


 だが、もう遅い。


 


 セレナが、跳んだ。


 夜空を舞い、白銀の刃を高く掲げ――


 一気に、魔物の頭上へと急降下する。


 


 そして。


 刃が振り下ろされた。


 ――ズバァッ!


 銀の軌跡が、魔物の肉体を真っ二つに裂いた。


 甲板が震え、魔物が鈍い音を立てて崩れ落ちる。


 セレナは、華麗に着地した。


 その身には、一滴の血すらついていなかった。


 


「ありがとう、若い人たち!」


 船長が歓声を上げ、船員たちがどっと沸き立つ。


 エンドとセレナは、互いに視線を交わし――小さく、笑った。


 


 夜は冷たい。

 だが、ふたりの胸の内には、確かに温かいものがあった。


 たとえ、この先どれほど困難な航海が待っていようとも――


 ふたりで歩む限り。


 この旅は、必ず続いていく。






 船室に戻ると、夜の静けさが二人を包み込んだ。


 エンドは、扉をそっと閉めながら、セレナに声をかける。


「……セレナ」


 呼ばれた名に、セレナは苦笑を浮かべた。


「はいはい」


 言いながら、ため息まじりにベッドへ腰を下ろす。


 そして、迷いなく服を捲り、白磁のような素肌をさらけ出した。


 首筋から肩口へかけて――

 柔らかく、誘うような香りが広がる。


(……あぁ、何度見ても、食欲をそそる)


 エンドは喉を鳴らし、堪えきれずにセレナの背後へ回り込んだ。


 そっと、抱きすくめる。


 温もりが、すぐそこにある。


 首筋へ顔を寄せ、鼻先をそっと滑らせた。


(甘い……それでいてしつこくない。ほのかに香る蜜の匂い。いつまでも嗅いでいたい)


 深く、深く、呼吸する。

 体の奥に染み込んでくる甘美な香りに、意識が蕩けそうだった。


 


「ちょ、ちょっと! だから、匂い嗅がな――あっ!」


 抗議の声を最後まで言わせずに――


 エンドは牙を突き立てた。


 温かい血液へ、到達する。


 


 セレナは、思わず口元に手を当てた。


 漏れそうになる声を、必死に押し殺す。


 吸血――それは単なる痛みではない。


 甘美な快楽と、微かな痛みが絡み合う、抗いがたい感覚。


 セレナの白い肩が、微かに震える。


 


(……やっぱり、上手い)


 エンドは思う。


 蜂蜜のような甘さ。

 それでいて、どこまでもフルーティな、瑞々しい芳香。


(こんなにも、俺だけのものだなんて……)


 ただ、夢中で血を啜った。


 


 30秒――いや、それ以上か。


 ようやくエンドは牙を引き抜き、セレナの首筋に温かな息を吹きかけた。


「……ごちそうさま」


 囁くように礼を告げる。


 


 セレナは肩で荒い呼吸をしながら、じろりと振り返った。


「エンド……次、それしたら――本当に吸う量、減らすからね?」


 顔を赤らめながらも、凛とした声で釘を刺す。


 エンドは素直に頷いた。


「……はい」


 だが、心の中では――


(……たぶん、また我慢できないだろうな)


 そんな、誓えない予感が、静かに滲んでいた。


 


 船は、暗い海を越えていく。

 行き先も、夜明けもわからないまま――

 けれど、たったひとつ確かな温もりだけを胸に抱いて。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ