67話 独りで選ぶ夜
俺はひとり、宿の裏手にある小さな丘に腰を下ろしていた。
草は夜露に濡れ、触れるたびに冷たい感触が指先を伝う。風が時折、木の葉を揺らしながら通り過ぎていく。小さな虫の羽音すら、この夜には届かない。
エリシアに言われた言葉が、未だ頭の奥で響いていた。
「最近、物騒な気配がするの。そして……その中心に、貴方がいるかもね」
(……なんだ?)
空を見上げても、答えは落ちてこない。
月は雲に隠れ、星もいくつかが鈍く瞬いているだけだった。
(何も思いつかない……)
ただ、胸の奥に引っかかるものはある。言葉にできない不安。どこか、遠くから自分を見ている“何か”の視線のようなもの。
ざわつきもないのに、静けさが不自然に感じる。まるで、風の向こう側に“気配”だけが潜んでいるような――そんな夜だった。
セレナが隣にいながらも、何故か“独り”である感覚が、今夜はやけに強く感じられた。
それは彼女を信頼していないという意味ではない。ただ、背中に重くのしかかる“何か”が、今は一人でしか向き合えないように思えた。
背後で、どこかの家の犬が一声だけ、吠えた。
まるで“気づいている”とでも言うように。
俺は息を吐き、膝に肘を乗せて俯いた。
吐いた息が白くないのが、妙に不自然に感じるほど、体の芯が冷えていた。
この夜は、ただの夜じゃない――
そんな予感だけが、静かに胸の内に根を張っていた。
そして――
「シュッ!」
夜の静けさを裂くように、鋭い風切り音が走った。
直後、矢が一本、俺の足元すれすれに突き刺さる。
土を裂き、石を弾き、わずかな熱を残してそこに突き立った矢は、まるで「狙えば当てられた」という意思そのもののように感じられた。
即座に構えを取り、周囲を警戒する。
だが、矢の柄には何かが巻き付けられているのが目に入った。
紙――しかも、封蝋ではなく、ただ巻かれているだけの粗雑な方法。けれど、それが逆に急を要する“私信”であることを物語っていた。
手に取る。
紙は薄く、指に湿り気が残るほど冷たい夜気を吸っていた。
一読しただけで、胃の奥が冷たくなる。
『セレナの剣は本来、光の側にある。2日後、山岳の巡礼地にてお前を待つ。
来なかったら、セレナにも被害が及ぶと思え。
――ライアン』
視線が、知らず震えていた。
「……玲の仇……!」
思わず、言葉が漏れる。
あの人――玲を、あいつは殺した。
生きていた。悪ではなかった。ただ、未来を持っていた。未熟で、温かい“子供”だった。
俺は、微笑みながら首を斬られた玲の姿を思い出す。
(そして今度は――セレナまで脅しの道具に使う気か)
紙が、手の中でくしゃりと潰れる。
怒りは静かなまま、しかし確かに熱を帯びていた。
燃えるような激情ではない。底の方からじわじわと這い上がる、黒く重たい怒り――
かつて憧れていた騎士団。
かつての“光”。
それが今、俺に“闇”として矢を放ってきた。
その憧れは、もはや崩れ落ちていた。
地面に突き刺さった矢を見下ろしながら、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、夜のような深い影が宿っていた。
「ライアン……お前、覚悟しておけよ」
その一言は、風に乗って溶けた。
次の瞬間、俺は矢が飛んできた方向――森の先を睨みつけた。
木々は音ひとつ立てず、そこに“気配”はない。
気配も、気配の痕跡すら完全に断たれていた。
だが、わかる。
俺にこの矢を撃てるのは――
そして、こんな風にセレナを巻き込むような手段を選ぶのは――
ライアンしかいない。
夜がまた、ざわめいた。
空気がひとつ、確かに“変わった”気がした。
この戦いは、もう“止められない”。
俺の中の何かが、静かに、確かに、覚悟へと変わっていくのを感じていた。
背中には冷たい風が吹いていた。
だが、その奥では、ゆっくりと、確実に――
戦いの“焔”が燃え始めていた。
山岳の巡礼地――。
昔、聖なる祈りが捧げられた場所。
かつては、命の安寧と魂の救済を願う者たちが、険しい山道を超えて辿り着いたという。
石造りの祭壇と、風雨に晒され苔むした十字架。
そこに立ち尽くし、空を仰いで祈った者たちは、何を信じ、何を託したのだろう。
けれど今――
その場所には、もう祈りなど届かない。
あるのはただ、剣と矢と、殺意のぶつかり合い。
血と怒りと“正しさ”のぶつけ合い。
誰かの赦しも、誰かの涙も、きっと届かない。
そして、俺はそこへ向かう。
望んだわけでも、求めたわけでもない、でも――選ばされた戦場へ。
「……セレナ。俺は、また間違えるかもしれない」
そう呟いた声は、夜風にかき消された。
だが、それでも構わない。
たとえ選んだ道の先が後悔に塗れていたとしても――
この手を汚す覚悟は、もうとうにできていた。
血に染まる未来を思い浮かべながら、
俺は、静かに目を閉じた。
そしてそのまま、ゆっくりと立ち上がる。
夜が――俺を見下ろしている気がした。
まるで、選ばれた“闇”を見届けようとしているかのように。
背後では、再び犬が遠吠えを上げた。
乾いた音が、夜の丘を突き抜けていく。
俺はそれを背に受けながら、
決戦の地へと、歩き出した。
"夜を継ぐ者"として




