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68話 もう戻れない夜

 エンドはまた、あの頃のように暗い顔をしていた。

 まるで何かを飲み込んで、胸の奥に沈めているような瞳。


 2年前

 カムシャン連邦で、彼が私との間に一歩の距離を置いたときと同じだった。

 優しさのようでいて、それはどこか拒絶にも似た距離。

 まるで、私に“被害”を加えないようにしているかのように。


「エンド、大丈夫?」


 そう問いかけると、彼はほんのわずかに顔を上げて、微笑んで見せた。


「大丈夫だよ。それより、早く“魔眼の吸血鬼”の情報を集めないとな」


「うん……」


 私も頷く。けれど、心の中にしこりのようなものが残っていた。


(……多分、何か隠している)

(多分、それは――私のため)


そう思った。きっと本人は隠しているつもりなのだろう。

けれど、私はもう知っている。彼が苦しむとき、こうしてわずかに声が遠くなることを。


だから、私は静かに、けれどはっきりと伝えた。


「エンド、私は決してどこにも行かない。だから……あなたも、どこにも行かないでね」


一拍の沈黙。

その後で、エンドは短く、けれど確かに答えた。


「行かないよ」


その声は、かすかに震えていた気がする。

けれど私は、責めることはしなかった。

ただ、胸の奥でその言葉を何度も繰り返しながら、彼の瞳を見つめていた。


 まるで、私を安心させる


「エンド、血は……大丈夫?」


 そう問いかけた声に、彼はほんの一瞬だけ迷うような沈黙を置いてから、静かに答えた。


「あぁ。……貰うよ」


 その声音は、どこか遠慮がちで、けれどどこかで決意しているようにも聞こえた。


 私が頷くと、エンドはそっと身を寄せてくる。

 首筋に彼の息がかかる。ひやりとした吐息が肌を撫でた瞬間――


 カチリ。


 牙が肌を貫いた。

 皮膚のすぐ下、血液の流れに触れるように。深く、確かに。


「……あっ」


 小さな声が漏れた。

 やっぱり、くすぐったい。少しだけ甘い感覚すらあって、慣れているはずなのに体がびくりと反応する。


 けれど、今日は――違っていた。


 いつもより、吸っている量が多い。

 一滴二滴ではなく、まるで“渇き”を埋めるように、彼は長く、深く血を求めていた。


(……ねぇ、エンド。どうして?)


 そう問いかけたくなるくらい、彼の吸血には“執着”のようなものがあった。

 まるで意図的に――私をここに繋ぎとめようとしているかのように。

 どこにも行かないで、と、言葉ではなく行動で伝えてくるみたいに。


「……ふふ」


 くすぐったさと、ほんの少しの切なさが胸に広がる。

 血が吸われていくたびに、逆に彼が“ここにいる”ことを実感できるのが不思議だった。


(私が必要だって、そう思わせたいんだよね)


 だったら、いいよ。


 私は逃げたりしない。

 この首筋は、あなただけのものだから。



 今日は、血を多く吸いすぎたせいか――

 セレナは少し顔色を悪くしたまま、早めに眠りについた。


 ベッドに横たわる彼女の胸は、静かに上下している。

 眠っていてもなお、どこか儚げで、美しい銀の髪が枕に広がっていた。


 俺の腕を離さずに眠る彼女は、あまりにも無防備で――あまりにも優しすぎた。


 窓の外を見ると、今日の月には薄く雲がかかっていた。

 まるで“正義”が、少しずつ“闇”に染まり始めているかのように。


 俺はそっと手を伸ばし、彼女の髪を撫でる。

 指先が銀糸をすくうたび、罪悪感と決意が胸の奥に降り積もっていく。


「……ごめんな、セレナ」


 誰に許してもらいたいわけでもない。

 ただ、今の俺には――この言葉しか浮かばなかった。


「俺は、また独りで行くよ」


 彼女にこの闇を背負わせるわけにはいかない。

 その優しさも、光も、傷つけたくなかった。


 だから俺は、静かに立ち上がり、そっと宿の扉を開ける。

 夜の空気が冷たく頬を撫でた。


 このまま何も言わずにいれば、彼女はきっと俺を追うだろう。

 だから言葉にした。せめて、何も背負わせずに去るために。


 俺が進む先は、血の匂いと裏切りの待つ場所。

 その中心で、“誰かの正義”が俺のすべてを否定してくるなら――

 俺は迷わず斬る。


 たとえそれが、かつて信じた光であっても。

 たとえその果てに、もう戻る場所がなくなるとしても。


 構わない。


 「……守りたいものがあるからこそ、俺は、世界を断罪する」



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