第37話 夜のぬくもりは、春のように
「そんでさ~人生って、結局なんとかなると思うの。やっぱオレ、ポジティブだしさー」
カナオは両手を後ろに組み、空を見上げながら、のんびりと話し続けている。
(……話始めたら、止まんないな。こいつ)
どこまでも呑気で、遠慮のないテンション。
でも、不思議と嫌悪感は湧かなかった。
(まぁ……多分、いい奴なんだろう)
そう思った矢先――
「あっ! あそこに見えるの、俺ん家がやってるラーメン屋なんだぜ!」
カナオが指を差した先、そこには大きな朱塗りの看板が掲げられた店があった。
東霞楼――目立つ名前だ。朱と金で縁取られた暖簾が風に揺れ、人の出入りが絶えない。
「俺も手伝ってるし、会いたくなったらいつでも来てよ!」
カナオは胸を張って言いながら、ふっと遠くを見るような目をした。
「色々あったけどさー……この街は、まだ生きてんだぜ」
その言葉には、いつもより少しだけ重みがあった。
おどけた声とは裏腹に、どこか遠くを見つめる目。
まるで、自分自身に言い聞かせているようだった。
店の中は賑わっているようだ。
湯気と油の香りが混ざり合い、広場にまで漂ってくる。
ガラガラと開く戸の音に続いて、声が飛び交っていた。
「ラーメン一丁!」
「ハイボール!」
「酢豚お願いしまーす!」
客の注文はラーメンに留まらず、酒も料理も飛び交っている。
まるで“何でもアリ”な、港町らしいごった煮の食堂だった。
「は〜い、ちょっと待ってねー!」
カウンター越しに忙しく動く女将の声が聞こえる。
気さくで朗らかで、活気のあるその声は――カナオの母親、なのかもしれない。
「常連さんに愛されてんのよ、ウチは!」
カナオは得意げに笑うと、大きく手を振って、店の中へと走っていった。
「んじゃ、手伝い行ってくるから――またな!」
ガラガラ、と扉が閉まる音。
ほんの数秒で、店の喧騒に彼の声はかき消された。
「……エンド」
セレナの声に振り返る。
「ん?」
「……いいね、あの店」
セレナは噴水越しに、忙しく動く店の光景を見つめていた。
人の笑い声、湯気、香り、灯り――
どれも戦場にはない“温かさ”があった。
「……そうだな」
俺も、静かに同意した。
生きることに必死なこの街で、
誰かが誰かのためにラーメンを作ってる――
それだけのことが、こんなにも大きく見えるなんて。
宿に着いた。どうやらこの宿は“1組1部屋”までの規則らしい。
(まぁ、人も多いし、そういうものか)
部屋は簡素だが清潔で、木の壁には香のような穏やかな匂いが染みついていた。
荷を下ろした直後、セレナがぽつりと呟いた。
「エンド。……ずっと我慢してたでしょ」
「え?」
彼女はすっと近づいてきて、まるで歯医者のように俺の唇を指で持ち上げた。
「牙、見えてる……本能、抑えてる証拠ね」
「……まぁ、ちょっとだけな」
曖昧にごまかす俺に、セレナはため息のような声を漏らした。
そして、ベッドの端に腰を下ろすと、無言のまま上着の襟元を下げて、
白く滑らかな首筋を露わにした。
「……いいのか?」
「いいよ。私たち、もう共犯者みたいなものでしょ。
ここまでの道のり、あなたと私で――一緒に背負ってきたんだから」
その言葉に、喉が自然と鳴った。
ゴクリ。
自分でも驚くほど、理性が薄れていく。
(……ほんとに、旨そうだ)
少しずつ、セレナの首に顔を近づける。
温かい体温が、肌越しに伝わってくる。
――プシュッ
牙が皮膚を貫いた瞬間、セレナの肩がピクリと震えた。
「っ……ん」
抑えた小さな吐息が漏れる。
すぐに、舌先に血の温もりが触れた。
血が舌に触れた瞬間、世界の色が静かに変わっていく。
滴るそれは、かつての俺が知っていた“血”とはまるで違った。
鉄の味でも、暴力の象徴でもない。
蜂蜜に似ていた。
けれど、ただ甘いだけじゃない。
火にかけられて少しだけ焦げた、琥珀色の蜜のような香りが、喉の奥を優しく満たしていく。
澄んでいて、温かくて、だけどほんの少しだけ切なさを孕んだ、そんな味だった。
吸えば吸うほど、身体が癒えていく。
けれど同時に、胸の奥がじんわりと、泣きたくなるように熱を帯びる。
これは、“赦し”の味だ。
たった一滴に、彼女の覚悟と哀しみと、優しさが詰まっている。
ただの血じゃない。
――それが分かっていたのに。
「っ、もう終わり!」
不意に、セレナの手が俺の額を押しのけた。
「ああ……」
本気で、口を離したくなかった自分がいて驚く。
舌に残る甘さが、名残惜しくてたまらなかった。
「吸いすぎ。だいぶ吸いすぎ」
セレナの声が少しだけ震えていた。
そして――その頬が、わずかに紅く染まっていた。
「しかも……くすぐったい」
どうやら、吸血という行為には“受ける側”にも何らかの快楽や刺激があるらしい。
吸血鬼の特性によるものか、脳が錯覚を起こすという説もある。
(……ほんとに、吸血なんだな)
「今度から飲み量、制限ね。
やりすぎると――自分で採血したやつ、渡すから」
「ええっ……」
思わず、声が漏れた。
採血したやつと、直接吸うのとじゃ“幸福感”が違いすぎる。
例えるなら……
壁越しのぬくもりと、誰かの腕に抱きしめられるのくらい違う。
たぶん、そんな感じ……いや、うまくは言えないけどな
でも、セレナから直接吸うということが、ただの“行為”じゃなくて――
“救われている”って実感そのものなんだって、今なら分かる。
「……やっぱ、直接がいいんだけどなぁ」
ぼやいた声に、セレナは肩越しに一言返してきた。
「子供か」
それだけ言い残して、セレナは布団の中へゴソゴソと潜り込んでいく。
「んじゃ寝ます。さようならー」
微かに聞こえたその声には、どこか拗ねたような響きがあった。
でも、それは怒っているわけじゃない。
呆れて――でもほんの少しだけ、照れているような。
布団の中からもぞもぞと身体を丸めて、セレナは小さく背を向ける。
その背中はどこか頼もしくて、それでいて、ちょっとだけ脆そうだった。
しばらくして、静かな寝息が聞こえてきた。
穏やかで、ゆるやかで、なぜか安心する音だった。
(……ずっと、疲れてたんだろうな)
命を削って血を与えて、心を削って一緒に戦って。
きっと、彼女の中にも限界はとうに来ていたのかもしれない。
だけど、俺の前ではいつも平然としていて。
それが悔しくもあり、ありがたくもあった。
外ではまだ、街の喧騒が遠く響いていた。
春の夜風がカーテンの隙間から入り込み、ほんのわずかに草の香りを運んでくる。
戦いも、喪失も、傷も――この街には“季節”がちゃんと流れているんだと、今さら思い知った。
この街は、生きている。
誰かの手で、誰かの願いで――生き延びようとしている。
そう思ったら、心の中に、冬の終わりを告げるような、やわらかな温度が灯った。
布団に潜っていたセレナの肩が、ゆっくり上下している。
その背中に、そっと呟いた。
「……おやすみ、セレナ」
返事はなかった。けれど、それでよかった。
きっと今夜は――少しだけ、夢の中で穏やかでいられる気がした。
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