奇妙な仕事始め
夜中に逃げ出そうと考えなかったわけではない。
でも、マリアに用意された部屋は二階にある一人部屋だったものの必ず応接間を通る部屋で、応接間にはアッシュ達が寝ると宣言されてしまった。
個室に鍵はかかるが、静かな森の中のことだ。
窓を開ける音さえ、彼らの耳に入るだろう。
堂々巡りとなったマリアの一人作戦会議は早々に暗礁に乗り上げてしまい、夕飯も口にしないまま一人部屋のベッドの上で丸くなってしまった。
(そういえば…)
こうやって誰かのいる家で眠るのは久しぶりのことだ。
もう孤児院を出たマリアは一人暮らしで、オンボロアパートは壁も薄いが家に帰れば必ず一人だ。親もいない、親戚もいない、友達もいない。誰からも干渉を受けないことを自由と言ってしまえば、その通りだけれど、こうやって誘拐されたとしてもきっと誰からも心配などされていない。
今もあの誘拐犯が大事に持っているであろう、スマホはきっと一度も鳴らない。
(おかしな話だわ)
誘拐されてやっと、誰かのいる家で眠ることになるとは。
マリアはベッドで丸くなったままうとうとと眠りに落ちていく。
だから音もなくかけたはずの鍵が外されて、誰かが入ってきたことも分からなかった。
――マリアが気が付いた時にはもうカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。
早朝、マリアが応接間に降りると、もう二人の男たちは居なくなっていた。
アッシュだけがダイニングから顔を出して、小奇麗なワイシャツ姿でエプロンをつけている。
「さぁ、今日から仕事だよ。マリア」
働かざる者食うべからずだ、とその有閑マダムのツバメになれそうな顔に似合わないことを言って、ダイニングのテーブルに豪勢な朝食を並べた。
クロワッサン、バターロール、卵焼き、目玉焼き、カリカリのベーコン、トマトのサラダ、温野菜のバーニャカウダ、コーンスープ、味噌汁、鮭の塩焼き、白いご飯。
漬物とオレンジジュースを並べたところで、アッシュが朝食を並べる様子をぼんやりと見ていたマリアを彼はダイニングテーブルにつかせた。
そして彼もエプロンを外して、マリアの向かいに腰掛ける。
「いただきます」
朝日の中では病的なほど白く見える銀髪の麗人が手を合わせて朝食を食べようとする様はなかなか滑稽だ。
マリアがじっと彼を見ていると、アッシュは「あ」と声を上げる。
「ダメだよ、マリア。朝食を食べない派なんて僕は認めないからね。朝食を食べないとロクな仕事ができないよ」
泥棒の仕事の片棒を担ぐ仕事がまっとうな仕事かどうかなど考える余地もない。けれど、マリアは並べられた箸を取った。
「……いただきます」
食べなければ何もできないのは孤児院暮らしの長いマリアは身に沁みてよく分かっている。食べられる時に食べなければ、マリアを助けてくれる人などいないからだ。
幸いお腹は空いているし、ふかふかの白いご飯は思いのほか美味しそうだった。
食べ始めたマリアを少し眺めたあと、アッシュも茶碗を手に取った。
箸の使い方もマリアよりも綺麗だったが、つくづく和食の似合わない人だった。
食べきれるのかと思った朝食は結局二人で無言のうちに平らげた。
食後のコーヒーを出したあと、アッシュは出かけると言い出した。
「しばらく向こうに泊まることになる。その間、僕にひっついて歩いて、僕のことを先生か教授か所長って呼んで。それが当面のマリアの仕事」
それから、とアッシュが応接間のソファに置いてあった旅行鞄をマリアに渡す。茶色の落ち着いたデザインの旅行鞄はどう見ても女性物だった。
「これは君の荷物。中身はこちらで用意したから好きに使って」
「え?」
訊き返してマリアは旅行鞄の中身を確かめる。そこには、夏に着やすそうな無駄に趣味のいい服と、洗面用具、それから、水色のレース。
「……これもアナタが選んだんですか?」
「これ?」
アッシュが覗き込んできたので、咄嗟にマリアは鞄を閉める。すると、アッシュは目を細める。
「下着のことなら心配無いよ。僕は女性の下着に興味ない」
「えっ」
どういう意味かとアッシュを見上げたマリアに、彼はにやりと笑った。
「下着姿の女性には興味あるよ。着て見せてくれるの?」
マリアがどんな反応をするのか分かっていて、からかっているのだ。
マリアは力いっぱい「嫌です」と答えた。
マリアの身支度が整い次第出掛けると言って、アッシュは朝食の片付けを始めたのでマリアは二階の一人部屋に戻ると、部屋を見回した。
家具とカーテン以外は何もない部屋だ。けれど、朝日の中で見る部屋は瀟洒で趣味のいいアンティークで揃えられている。家具にはバラのモチーフの細工が施されていて、備え付けの鏡台があるところを見ると、女性の部屋だったのかもしれない。
窓を開けると柔らかな風が漂い、庭のバラの香りを運んでくる。
本当に避暑としてこのコテージにやってきたのなら、素直に素敵だと言えたかもしれない。
(何か、残しておこう)
けれど調度品を傷つけるのは気が引けて、マリアは取り上げられなかった荷物の中からメモ帳とボールペンを取り出してメモを鏡台の引き出しに放り込む。
”誘拐されています。助けてください。***-***-*** 橋本マリア”
自分のスマホの電話番号を書いた。
管理人でもいい、誰か気付いてあの誘拐犯が持つスマホに電話を掛けてくれないだろうか。
マリアが電話に出なければ、きっと不審に思うだろう。
誰かの善意にすがりたかった。
マリアは身支度を整えると窓を閉めて、部屋を後にした。
二階から降りたマリアを待っていたのは白麻スーツのアッシュで、彼はマリアの小さな企みに気付いているのかいないのか、「行こうか」とコテージを出た。
庭の隣の車だまりにいつの間にか用意されていた国産の軽自動車に乗り込んで、マリアは誘拐犯と仕事へ出かけることになったのだった。
※
コテージから三時間ともう少し。山奥にわずかな田んぼが見えた頃、車はようやく停まった。
山林に隠されるようにしてある寺の山道だ。長い階段の上には本堂があるのだろうが、急な階段の先は下からは見えない。
荷物を置いて車を降りると、アッシュは階段をのぼり始める。
「これをのぼるの…?」
思わず零したマリアを振り返って、アッシュは笑う。
「これも仕事だよ、マリア」
車に残されていても、きっと何もわからない。マリアは溜息をついて階段に足をかけた。
階段は長かった。けれど、本堂のある頂上は山林のセミの声が遠くなり、どこかヒヤリとした空気が満たされている。
境内は掃き清められているが人気はない。石畳や手水場、寺務所は古く、まるで山の中に埋まってしまうのではないかというほど静かだ。
本堂は背の高い山林を背負うように建ち、その奥は昼間であってもまるで深い洞窟の入口のように見えた。
「あ、ちょっと」
普通の人なら異様な雰囲気に引き返してしまうような本堂へ、アッシュは何の気負いもなく靴を脱いで上がり込んでいる。
マリアが追いかけると、アッシュは懐中電灯を取り出して彼女を振り返る。
「見たいなら来てもいいけど、そこで一人で待ちたいならご自由に」
遠いセミの声は頼りなく、静かな境内は涼をとるには少しばかり湿気と不気味さが多い。
マリアは仕方なくアッシュに倣って本堂へ上がり込んだ。
誰も居ないようだったが、管理はされているのだろう。
本堂も、境内と同じで薄暗いがアッシュが懐中電灯で照らした限り、傷みどころか埃も見えなかった。
板張りの本堂の奥には立派な金色の仏像が据えられている。
「思っていたより新しいな」
アッシュはそう呟くと、立派な仏像の脇を懐中電灯で照らしながら何かを確認し始める。
「……新しいって…まさかその仏像を盗むつもり?」
「あいにく、僕は東洋美術は専門じゃないからなぁ」
そう言いながらアッシュがつつっと指先で仏像の台座の下にある板を動かすと、ガコンと何かが外れる音がする。そして、ぎ、ぎ、と台座が動いたかと思えば、立派な金色の仏像が回転し始める。
「な、なにそれ…っ」
お寺の仏像が動き出すなんて、怪談以外で聞いたことがない。
「からくりなんて、面白いことを考えるね」
アッシュは口笛を吹いて、金色の仏像の裏から現れた新たな仏像を懐中電灯で照らした。
それは、木目の曲線から削り出されたような、質素な仏像だった。
けれど、柔らかな身体の曲線を木だけで表した姿は先ほどの金色の仏像よりはるかに優美で、価値や信仰など分からないマリアでも目を奪われた。
「美しい。これなら美術品として価値がある」
専門ではないと言ったくせにアッシュは熱心にその仏像を調べ始めた。
台座から指先、顔まで照らしたところでアッシュは急に懐中電灯の明かりを落とす。
「え、何。急に…」
真っ暗になってしまった本堂の奥で、アッシュは仏像と顔を突き合わせているようだったが、マリアの目には彼の銀髪がわずかな光を反射するようにしか見えなかった。
しばらくして、ぎ、ぎ、と台座の動く音がする。
再びアッシュが懐中電灯を点けると、あの優美な仏像は姿を消して金色の仏像が座っていた。
まさかあの仏像を盗んでしまったのだろうか。
けれど、マリアが見渡してもアッシュの脇には優美な仏像の影すら見えない。
「マリア、帰るよ」
「え?」
アッシュは手ぶらのまま本堂を出ようとする。それにマリアも慌てて続く。
「帰るって、どういうこと」
「今日はここでおしまいってことだよ」
山にはやっぱり不似合いな革靴を履くアッシュを追って本堂の外へ出ると、こちらに向かって声がかかった。
「誰だ、アンタたち」