冷たい手
不機嫌な狼が少し前方を駆ける。原因は先刻の自分の態度。解っているだけに関わり合いになりたくない。面倒だと、コートを羽織ったその背が語っている。
見知らぬ館を上階目指して駆け上がる。何が、誰が待ち受けているのか、想像が朧ながらについている。
「相手が誰でも最低限だけしか傷付けない」そう約束したのはかなり前な気もする。果たして守ってくれるのかは解らないが、それでも期待しないよりはマシだ。
不意に足を止め、ブレットは巴椰を制した。
「先刻の“花”がいる。迂回しようか」
「撃たないのか。いつもなら所構わず、節操なくガンガンやってんのに」
「ヒトを色気狂いのように言うのは止めないか、未来の伴侶だぞ」
何も間違ったことは言っていないが、それでも苦笑いを浮かべる。理由は解る、故意に嫌がらせをしたのだ。
廊下を回って別ルートを探り、ブレットは巴椰の手を取って駆け出した。
「お前には俺が居てやる。だから不安そうにするな、あのトカゲならきっと大丈夫だ」
「解ってるけどさ……カトレアだぜ?」
「だからどうした。主人を止めるのは従者の役目だ、果たせないなら心中するまで。俺には理解できんが」
興味なさげに、しかしこちらを心配してくれている。迷惑だろうと、解っているのに自分は卑怯かもしれない。こんな時だというのにわざと心配させている。何故かは解らない。
広い館だった。内部は外から見たときよりも遙かに容量オーバーしている。花畑同様、海同様、兎に角自身を疑わせるのだ。常識が通じないのは今に始まったことではないが。
迂回して敵の居ないところを狙って行くも、ついにはふらりふらりとどこからともなく溶け出すようにそれらは現れ始めた。
「誘われたのか。つくづく俺の心理をよく読んでいるな、あの化け物は。ケモノでもないくせにこちらに干渉するなど、初めからおかしい」
「また罠に嵌められたのかよ阿呆」ブレットの片腕に引っ付き、巴椰は悪態を吐いて周囲を見回した。
のっぺらぼうがこちらを見つめる。実体を持たず、中身は花だという。目のないモノに見つめられるとはなかなか滑稽だと思う。
前後囲まれたのを確認し、ブレットはそっと巴椰の手を離した。
「そのドアを蹴破って行け」目前の何の変哲もないドアを視線で指し、ブレットは長銃を引き抜いた。
「後から必ず行ってやる。なぁに、心配するんじゃない。俺がこんな奴らに負けるとでも思ってるのか?可愛い伴侶だな」
「お前の心配なんかするわけ無いだろ、自惚れんな」
勝手な思想をつらつらと語る狼をその場に残し、巴椰は指された通りにドアへと向かった。何一つ躊躇わず、声すら掛けず。
扉が閉まると同時にそれを背で封じ、ブレットは手近な一体を撃ち抜いた。
「つれないだろう。それがまた魅力的だ。あんなに頑なな子が俺の前でだけ特別な顔を見せてくれる。それを思えば、お前達の相手をするのも代償だと思えるさ」
蠢く異形のモノは応えない。それを解っていながらも自慢げに、どこか寂しげに吐く。彼の歯車もまた、少しずつ軋みだしていた。
握っていた手の温もりが既に無い。元々無かったのだ。美しき白銀の狼のその手は、いつだって冷たい。いつだって、ヒトらしい温もりをちゃんと感じなかった。
心配しないわけがないだろうと、次に何かを言われたらいってやるつもりなのだ。ここの面々は皆、心配させてくれない。
部屋の中にはただ、上へと続く階段のみが鎮座していた。天井を突き抜け、上へ上へ。誘われるように、巴椰も駆け上がった。
心配なのは一人じゃない。全員がそれに値する。自分が無力なのが腹立たしい。もっと力があれば、少しでも手助けが出来れば、変わっていたこともあるかもしれないというのに。
手の差し伸べられたのは、頂上の見えたそのときだった。
「お疲れさん、巴椰」
聞き慣れた、親しい人にだけ向ける暖かい声。懐かしく感じてしまうのは、不安だったからかもしれない。
その手に触れ、巴椰は顔を上げて彼を見た。
「……何だよ、元気そうじゃんか。心配して損した」
全くもって可愛げのない言葉が漏れる。心と口がそぐわない。
握った手には全く違う温度が通い始める。愛しいあの狼とはまた違うーーあァ、違う。このヒトだって愛しいのだ。その意味をどう取ろうとも、嘘ではない。
両腕で巴椰を抱き、朔門冴その人は咲く花のような笑みを浮かべた。