第44話 新たな気づき
宿屋の部屋に戻った僕は、夕食までの空き時間を利用して、ベッドに寝転がりながら例の古びた本を開いていた。
相室のノクスは、向かいのベッドに腰掛けて自分の革靴の汚れを落としている。布で念入りに磨きながら、彼は呆れたような視線を僕に向けてきた。
「どうだ、その銅貨三枚の哲学書は。やっぱりただのポエムだったか?」
「いえ……。まだ読み始めたばかりですが、なかなか興味深いですよ」
僕は愛想よく微笑んで返事をしたが、内心ではすでに、凄まじい衝撃に心臓をバクバクと鳴らしていた。
魔導師ギルドから「読む価値もない」と酷評されたという、『事象と認識の境界線』。
確かに、普通に文字面だけを追えば、この本は突飛なポエムにしか見えない。さっき本屋に並んでいたような具体的な技術論が一切書かれていないのだ。
代わりに書き殴られていたのは、こんな抽象的で難解な文章だった。
『炎を生むために、火の精霊に祈る必要はない。
魔法とは、術者の内なる世界(認識)を、現実に上書きする行為である。
世界は極めて強固な織物だ。そこに己の望む新たな糸をねじ込むのであれば、術者の編み上げる糸は、世界の法則よりも強靭で、緻密で、一切の矛盾がない絶対的なものでなければならない。
己の理に一縷の疑いでもあれば、世界の正しさが容赦なくそれを弾き飛ばすだろう』
(……やばい。鳥肌が立ってきた)
一般的な魔導師たちがこれを読めば、「詠唱もせずに強く念じれば魔法が使えるとでも言うのか? バカバカしい」と一蹴するだろう。
だが、物事の抽象度を「自分が認識し理解しうる極限」まで引き上げて捉えることができる僕には、この文章が指し示している「本質」が痛いほどによく分かった。
(妄想で魔法が使えるなんて、そんなお花畑なことは一言も書かれていない。むしろ逆だ。これは、魔法を成立させるための『恐ろしく厳密な絶対条件』を説いているんだ)
僕はベッドの上で身を起こし、本を握る手に力を込めた。
僕が森でのサバイバル中に構築し、維持できている魔法の方程式は、両手で数えるほどしかない。
僕は自分が「物理法則に囚われているせいで方程式が競合し、ストック容量の限界を迎えている」ことにはずっと前から気づいていた。
だからこそ、既存の枠組みの中でどうにか矛盾を減らそうと苦心し、この本屋でも「本職の魔導師のセオリー」を学んで、ストックを最適化しようとしていたのだ。
だが、この本が示しているアプローチは、僕の前提を根本から覆すものだった。
僕はこれまで、魔素という未知の力を使って、地球の『物理法則』や『化学反応』を忠実に再現しようとしていた。
何もない空間から水を生み出そうとした時、僕の中にある「質量保存の法則」という理科の常識が、「そんなことは絶対にあり得ない」とエラーを吐き出すからだ。
僕は、『地球の科学法則こそが、世界で唯一の矛盾のない絶対の正解だ』と固く信じ切っていたのだ。
だから、科学的にあり得ない現象は絶対に起こせないし、無理に起こそうとすれば自分の中で『科学的な矛盾』が生じて魔法が崩壊すると思い込んでいた。
(……でも、違ったんだ)
理屈を構築する際、地球の科学のルールという枠組みに「完全に」縛られる必要なんて、最初からどこにもなかったのだ。
(そうか。僕は『識の原典』で世界を純粋に観測しておきながら、それを現象化させる最終段階で、自分自身の手で『地球の常識』という分厚いフィルターをかけて、マナの可能性を殺していたんだ)
地球の科学法則を参考にして理屈を組み立てること自体は、間違っていなかった。
ただ、地球の厳密すぎるルールを「絶対の正解」にする必要はなかったんだ。マナというファンタジーの要素を前提に組み込み、僕の純粋な知識と想像力を使って、質量保存の法則すらも無視した『自分だけの新しい理屈(ファンタジー法則)』を一から組み立てればよかったのだ。
僕の思考の形が変われば、世界の見え方も変わる。
地球の科学ではなく、自分の中で完璧な整合性を保った、この世界の正しさすらも捻じ伏せるほどの強靭で緻密な新しい理。
それさえ作れれば、僕の魔法は、これまでのストック限界をいとも容易く超えられる。
「……ふふっ」
僕は堪えきれず、ベッドの上で小さく笑い声を漏らした。
ただのオタク高校生だった僕が、この異世界で、誰にも理解されなかった魔法の深淵に手をかけようとしている。
「どうした、ユウ。急に気味の悪い笑い声を上げて」
向かいのベッドから、ノクスが怪訝そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
「いえ、なんでもないですよ。ただ、銅貨三枚にしては、ものすごく質のいい暇つぶしになりそうだなと思いまして」
僕は最高にワクワクした笑みを浮かべ、ノクスにそう返した。
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