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第20話 架け橋

連続投稿4話目

ノクス視点です

(Sideノクス)


 洞穴での生活が数日経ち、オレの体は驚くほどの速さで快方に向かっていた。


 あの子が塗ってくれた特製の薬草の効果もあるだろうが、何よりこの場所の「異常なまでの穏やかさ」が、戦い続けてきたオレの神経を芯から休ませてくれているのを感じる。


 だが、休んでばかりはいられない。


 焚き火のそばで、膝を抱えてじっと火を見つめている少年――その細すぎる背中を見るたびに、胸の奥がチリチリと痛むのだ。


(……この子は、自分が「人間」であることを忘れてしまっているんじゃないか)


 食事を差し出す時のあの異常なまでの距離感。言葉を介さない、拒絶と警戒に満ちた暗い瞳。


 この深部でたった一人、魔物と同じように「生存」することだけに心血を注いできたのだとしたら、彼は「心」という人間らしさを、森のどこかに置き忘れてきてしまったのかもしれない。


 もしオレがこのまま怪我を治して立ち去れば、彼はまた永遠に近い孤独に戻ってしまう。それは、あまりにも残酷だ。


(まずは、言葉だ。……心を繋ぐための道を作らなきゃならない)


 オレは意を決して、少年に声をかけた。


「なぁ、君」


 名前を呼ぶこともできないもどかしさを抱えながら、彼がこちらを向くのを待つ。


 少年はひどく面倒そうに、しかし無視はせずに、その黒い瞳をオレに向けた。


 オレは自分の胸を指差し、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「ノクス」


 それはオレの名前であり、オレが彼と同じ「人間」であることの証明だ。


 少年は小さく頷いた。その反応だけで、オレは救われたような心地になる。


 だが、彼自身に自分の名を問うても、返ってくるのは冷たい沈黙と、怯えたような強張った視線だけだった。


(……やはり、自分の名すら持っていないのか。あるいは、とうの昔に失くしてしまったのか)


 オレはやり切れない思いを飲み込み、目の前で燃える焚き火を指差した。


「ヒィ、ト」


 火。命を繋ぐ温もり。


 少年は怪訝そうな顔をしたが、オレは諦めずに繰り返した。


「ヒィ、ト」


 君は人間だ。魔物じゃない。言葉を持つ、尊い存在なんだ。


 そのことを、一つひとつの音を通して思い出してほしかった。


 少年は深く、本当に苦しそうに溜息をついた。


 その溜息さえも、オレには「失われた言葉の記憶を、懸命に手繰り寄せようとする苦悩の現れ」に見えて、胸が熱くなる。


 そして、ついに彼の唇が動いた。


「ヒィト」


「そうだッ!! その通りだ、よく言えたな!!」


 オレは思わず立ち上がろうとした。直後、脇腹に激痛が走り、不恰好に悶絶してしまったが、そんなことはどうでもよかった。


 彼が、言葉を発したのだ。


 その震えるような、けれどもしっかりとした響きは、凍りついていた彼の時間が、ほんの少しだけ動き出した合図のように聞こえた。


(……できた。通じたんだ、今……!)


 オレは溢れそうになる涙を堪え、彼を力一杯褒め称えようと肩に手を伸ばした。だが、少年は怯えたように身をすくませて避けた。


 本当なら抱きしめてやりたかった。だが、彼はまだ人との接触を恐れている。オレは空振った手をどうにか引っ込め、彼に「素晴らしい」と伝えるべく親指を立てた。


 それからの時間は、オレにとって至福のひと時だった。


 水、干し肉、毛皮。


 身の回りにあるものを一つひとつ指差しては、音を教える。


 少年はそのたびに、少し投げやりな、それでいてどこか「必死に音をなぞる」ような健気な態度で、オレの言葉を繰り返してくれた。


「ア、ヴァ」


「アヴァ」


「素晴らしい! その調子だ、君は本当に賢いな!!」


(……いいぞ。やっぱり、君は光のある場所にいるべき人間なんだ……)


 少年はオレが言葉を教えるたびに、ひどく警戒したような、探るような目でオレを見てくる。


 その警戒心の強さこそが、彼がこの地獄で生き抜いてきた証なのだろう。


 オレは、その傷ついた魂を少しずつ、少しずつ解きほぐしていきたいと心から願った。


(今は、まだ何もわからなくていい。……いつか、必ずこの森の外に出よう)


 オレは、彼が街の賑わいの中で、誰の顔色を伺うこともなく、腹一杯の美味い飯を食べて笑い合う姿を想像した。


 この子が失ってしまった、奪われてしまった「子供としての時間」を。


 オレの手で、できる限り取り戻してやりたい。


 焚き火の照らす少年の横顔を見つめながら、オレは確かな手応えを感じていた。


 一歩ずつ、確実に。


 この孤独な生存者を、人間たちの世界へと導くための「架け橋」を築いていくのだと。



【読者の皆様へ】

誰かがこの物語に目を留めてくださったこと、そして「面白かった」「続きが気になる」と楽しんでいただけることが、今の私にとって何よりの喜びであり、執筆の大きな力になります。

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