第21話 ユウ
連続投稿5話目
ノクスがこの洞穴に転がり込んできてから、一ヶ月ほどが経過した。
当初は動くのもやっとだった彼の怪我は、驚異的な速度で回復していた。今では洞穴の掃除をしたり、僕が狩ってきた獲物の解体を積極的に手伝ったりしてくれる。
そして、その合間に行われる「言語の授業」も、僕にとっては驚きの連続だった。
(……なるほど。この音の並びは、動作の『対象』を指定するルールなんだな)
僕は地面に座り、ノクスが木の枝で書いている「文字」を凝視していた。
本来なら、文法も構造も全く異なる異世界の言語を一から覚えるなんて、数年単位の時間がかかるはずだ。だけど、僕には『識の原典』というチート級の観測・解析デバイスがある。
僕は自分の中にあった「日本語」という強固なフィルターを一時的に取り外し、ノクスが発する音や書く文字を、純粋な「情報の波形」として受け止めるように意識を集中させた。
固定観念を捨て、解像度を上げる。
すると、ノクスの発声時の喉の震え、特定の単語を言う時の視線の動き、そして幾何学的な文字の形状の規則性が、まるでAIが機械学習で言語モデルを構築するように、僕の脳内で一つの「系」として組み上がっていくのだ。
「……アヴァ、エ、セト(水を、外に、捨てる)」
「ーーーッ!!(そ、その通りだ! お前、今、文章の構造を完全に理解して……っ!)」
僕が法則を理解してボソリと呟くと、ノクスが弾かれたように声を上げた。
まただ。彼はこちらが一つ正解を出すたびに、宝くじに当たったような顔をして驚き、そして感動のあまり涙ぐんだりする。
(……この人のリアクション、相変わらず大袈裟だなぁ。AIの翻訳精度が上がっただけなのに)
僕にとっては、『識の原典』でデータのパターンを照合し、事前に組み上げた翻訳の理を通しているだけだ。
経験値が溜まってきたおかげで、最近では彼が喋る「音の羅列」が、僕の意識の中で勝手に意味へと変換され始めている。まだ完全な翻訳とはいかないけれど、彼が何を伝えようとしているのか、その「輪郭」ははっきりと見えるようになってきた。
ノクスは満足げに頷くと、今度は地面にさらに複雑な文字を書き込んだ。
この世界の文字は、直線と曲線が組み合わさった、図形のような形をしている。
「……ノクス。これは?」
僕はあえて覚えたての単語を使い、地面の文字を指差した。
「ーーー(これは、お前の名前だ)」
ノクスの言葉が、『識の原典』の解析を経て、僕の脳内でぼんやりとした意味を結ぶ。
お前の、名前。
(……僕の、名前?)
ノクスは、僕が「自分の名前すら忘れている」と思い込んでいるらしい。
だから、僕が本名(個人情報)を隠して名乗らないのをいいことに、彼は地面に一つの文字……いや、名前らしき綴りを丁寧に書いた。
「ーーー。ーーー、ーーー(ユウ。お前は、ユウだ)」
「……えっ?」
僕は思わず素っ頓狂な声を漏らした。
今、こいつはなんて言った?
聞き間違いかと思った。だけど、地面に書かれた文字を『識の原典』で読み解くと、それは紛れもなく僕が地球でかつて呼ばれていた名――「ユウ」に極めて近い発音を示す記号だった。
(……偶然? いや、それとも……僕が寝言で日本語でも喋ってたのか?)
困惑する僕をよそに、ノクスは慈愛に満ちた表情で、僕の頭を撫でようとして……寸前で思い出したように僕の警戒心を慮って手を止め、代わりにひどく優しく微笑んだ。
「ーーー、ーーー(ユウ。いい名前だろ?)」
彼がその名前をどうやって導き出したのかは分からない。
ただ、『識の原典』を通して伝わってくる彼の感情の波形は、どこまでも澄んでいて、下劣な打算や僕を洗脳しようとする敵意は、驚くほど微塵も感じられなかった。
(……本当に、何なんだろう。この人は)
僕は地面に書かれた「ユウ」という文字を見つめ、少しだけ複雑な気分になった。
言語の学習が進むにつれ、彼という人間の嘘偽りのない「善意」が、フィルターを通してダイレクトに伝わってくる。
それが、僕が必死に築いてきた「異世界の人間はヒャッハーな野蛮人しかいない」という人間不信の防壁を、少しずつ、けれど確実に蝕んでいくのを感じていた。
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