【幕間】魚々島 洋 ー瞼の兄ー 其の二
二日前、早朝。
烏京が洋と同盟を組んだ日と同様、ベスパに乗った青沼は廃スタンドを訪れた。
《道々の輩》は夜行性で、不定期に短い睡眠を取る。各々が自由に暮らす猫のような生活様式だが、カフェテラス式の朝食だけは全員顔を出す習慣がいつしか生まれた。
青沼が来るのは決まってそのタイミングで、二、三日に一度。洋は満面の笑みで朝食を振る舞い、情報交換をしてから眠りにつく。残された青沼は蓮葉のご機嫌を取り、帰宅する。
普段はそんな流れだが、その日は違った。
洋が部屋に引っ込んだ後、青沼が烏京を呼び出したのだ。
青沼と烏京の距離は、初対面以来変わっていない。洋お抱えの情報屋と新参の同盟相手。呉越同舟とは言え、肝胆相照らす仲ではない。烏京自身、自ら胸襟を開くタイプではない。やけに馴れ馴れしい髭面の中年男を容易に信用する気もなく、この距離は不変かと思われた。
「ちょっと、堤防まで歩きませんか?」
廃スタンドを離れる時点で、剣呑な話なのは察しがつく。何かの罠の可能性もあるが、青沼は一般人だ。仮に百人の兵隊に待ち伏せされても凌ぐ自信はある。
「──承」
堤防を登ると、緑と潮の香りがする風が吹き抜けた。
平たい石を一つ拾い、サイドスルーで投げる。遙か先、豊かな河面に達した石は、飛沫を光らせて三度跳ねた。青沼には波紋が見えないほどの遠投だった。
「──それで、俺に何用だ?」
川を見たまま問う烏京に、青沼は相好を崩した。
「折りいってお願いがあります。
洋くんからお兄さんについて訊き出してくれませんか?」
「──何を言っている?」
烏京は眉間に川の字を浮かべた。
青沼が洋から、死んだ兄の情報を探すよう指示されているのは聞いている。だが。
「俺が訊く必要が何処にある──
貴様が訊けば、それで済む話だろうが」
「いやあ、それがですねえ。
案外その辺りに、洋くんの地雷がありまして」
「──豚に繊細さは無縁だと思うが」
「普段の洋くんを見てると、そうですよね。
でもお兄さんの話題は、本当にタブーなんです。
例えばそう、烏京くんが洋くんと対戦した時。
洋くんは挑発しても、航さんは罵らなかった。
違いますか?」
「それは──尊敬の念があるからだ。
魚々島 航の武勇を知らぬ輩はいない。
松羽には実際に戦った者も存在する。
俺にとって魚々島 航は──魚々島の象徴だ」
航と刃を交えたという兄弟子は、その敗北を手柄のように誇らしく語ってくれた。《最強の海洋漂泊民族》への強い憧れは、その時、烏京の胸に灯されたのだ。
もっとも、その反動から《陸亀》の洋を「面汚し」と断じ、軽んじた点は否めない。魚々島への過剰な思い入れが、自身の敗北を招く結果となった。反省すべき過去だ。
「それはラッキーでしたね。
もし貶してたら、同盟は有り得なかったかと。
洋くんから完全に敵視されたと思います」
「──そこまでか」
「そこまでなんですよ」
青沼の神妙さに嘘はない。新参の烏京に、洋の地雷を踏まぬよう警告してくれている。そしてどうやら本気で、洋の地雷原に送り込むつもりのようだ。
「その兄のことを──俺に訊けと?」
「私じゃ無理なんですよう」
青沼によれば、一年の付き合いで親しくなったにせよ、一般人と輩の間には、やはり理解しきれない部分があるのだという。感情の機微を読むに長けるからこそ、地雷原を前に二の足を踏むらしい。
「航さんが亡くなって、もう五年のはず。
それくらい経てば、悲しみは落ち着くものです。
でも洋くんはそうじゃない。
心のかさぶたを自分で剥がしてる感じというか。
航さんが死んだ時間に、あえて残り続けてる。
何だか、そんな気がするんです」
淀川を逆流した海風が、激しく二人を叩いた。
意外な洋の一面だが、第二戦で見せた妹への入れ込みを思えば合点がいく。兄にも同様の重い感情を持っていたなら、地雷と化しても不思議はない。
「──俺に出来ると思うか?」
「烏京くんしかいないじゃないですか」
言い分はもっともである。まさか蓮葉に頼むわけにもいくまい。
とは言え、およそ自分とは縁遠い任務である。
人と打ち解け、話を訊き出すなど柄ではない。どちらかといえば罵倒や毒舌に才を感じるくらいだ。
「なに、烏京くんは洋くんのお気に入りですから。
多少踏んでも、キャラ的に許されるはずです」
「何だそれは──何処に根拠がある」
「おっさんのカンです」
「──勘で俺を死地に送るつもりか」
「でも、烏京くんも知りたいでしょう?
航さんの過去と、何故亡くなったのか」
烏京は言葉に詰まった。
流石というべきか、舌先一つで人を動かすのが恐ろしく上手い。この口車、後学にしたいくらいだ。
魚々島 航の死因について、烏京は何も知らない。洋と戦う前に訪ねた、《陸亀》の男も何も知らなかった。そもそも圧倒的な情報網を誇る《畔》ですら掴めていない情報である。
《道々の輩》の風聞から確かなのは、日本最強の男が「殺された」こと。事故や病死ではなく、何者かに敗北、或いは暗殺されたらしい。この噂は衝撃をもって広がり、畔も否定しなかったので事実なのだろう。しかし、それ以上の調査報告は挙がっていない。洋の探す犯人、その手がかりの一切が、五年前から不明のままなのだ。
「これを見てください」
青沼が取り出したのは、スリーブに収められた古めかしい写真だった。
背景は海と空。偉丈夫とぽっちゃりした少年が肩を組んでいる。男は笑顔だが、少年はぎこちないそれだ。
「これが──魚々島 航か」
「ええ。隣りの子供が洋くんですね」
航の姿形を見るのは、烏京も初めてだ。
齢は二十歳頃、対する洋は十代前半か。海辺だからか、どちらも上半身裸で写っている。
弟に合わせ身を屈めているが、身長は約180cm。大男ではなく、引き締まった精悍な体躯。体格に比して広い肩幅、長い腕と指。写真越しですら強者の風格が伝わってくる。
顔立ちは細く端正で、洋とはあまり似ていない。しかし満面の笑みはどこか今の洋を彷彿とさせるところがある。はじける陽光のような、翳り一つない表情は、明らかに肩を組んだ弟に向けられたものだ。
反面、洋の方はどこか気恥ずかしそうで、いかにも表情が固い。憎らしいほど余裕のある現在の豚と比べれば、まるで別人のようだ。まだ「引きこもり」だった頃の写真なのか。だらしない身体は鍛え方が足りず、兄に比べるべくもない貧弱さである。
確かに──こういった写真一つ取っても、青沼には見えないものがあるのだろう。
ならば自分にも、役割が見出だせるかもしれない。
「──何を、訊き出せばいい」
写真を返す烏京の言葉に、青沼は顔を綻ばせた。
「どんな細かいことでも構いません。
年齢や経緯、基本的な情報は聞いているんです。
でもそれ以上の生前の話ははぐらかされて。
性格は『クラゲ』なんだそうですが……
子供の頃の洋くんの話も、わりと嫌がられます」
「わかった──機を見て尋ねておく」
「お願いします。急がなくて構いませんので」
「話は、これで終わりだな──」
「もう一つだけ、いいですか?」
立ち去りかけた烏京を呼び止めた青沼だが、その口はいつになく重くなる。
「まだ何か、あるのか?」
「ええまあ……
これはここだけの話にしてもらいたいんですが」
「──何の話だ」
躊躇うように唇を吸い込むと、青沼はようやく口を開いた。
「……蓮葉ちゃんは。
航さんより……強いと思いますか……?」




