19手目 伝言する少女
歩美先輩に負けた私は、翌日再戦を挑んだ。結果は……負け。この前と同じ角引きかと思ったら、穴熊に囲まれてそのままボコボコ……あれはへこむわぁ……。
というか、穴熊って卑怯じゃない? 美濃囲いより堅いし、振り飛車党の敵よ。敵。
私はいきどおりながら、廊下を直進する。部室とは逆方向。今日も再戦する気だけど、ちょっと用事を思い出した。その用事を済ませに、私は1年1組の教室を目指す。
放課後だから、いない可能性が高いけど……なんだか無駄足な気がしてきた。明日の昼休みにしようかしら……でもここまで来ちゃったし……ついでに……。
1組のドアは開けっ放しだった。男女の笑い声が聞こえる。私は首だけのぞかせて、教室内をぐるりと見回した。おお、いるいる。放課後なのにご苦労なことで。
だけど、誰も私に気づかないわね。
「すみませーん」
大声で挨拶すると、室内にいた生徒が一斉に振り返った。
同級生だし、気兼ねする必要も無いでしょ。私はぐっと胸を張る。
「松平って男子いません?」
私がそう尋ねると、1組の生徒はみんなお互いの顔を見合わせた。
そして、ニヤニヤし始めた。
……なによ、感じ悪いわね。
私が内心不快になっていると、男子のひとりが教室の奥に声をかけた。
「おーい、松平、また女子が告白しに来たぞ」
……はあ? 一発ぶん殴ってやろうかしら。
私が腕まくりをした途端、生徒の影になっていた机から、ひとりの男子が立ち上がった。
その男子の容貌に、私は息を呑む。
「俺になにか用か?」
……え? なによこの金髪男……いかにも不良ですって感じの……。
背は170台後半。スポーツをやっているのか、体格はよかった。
とはいえ、筋肉質という感じでもなく、たぶん体育会系じゃない。
顔はまあイイというか、ちょっとファッションモデルっぽいところがあった。
ただ目つきがどこかよそよそしくて、まったく愛想がない。
さすがにこれで将棋はないでしょ。人違いだったかも。
「あ、あの……松平……くん……?」
「ああ、俺が松平だ……で、なんの用?」
ど、どうする? 私がドギマギしていると、後ろの生徒がまたニヤニヤし始めた。
こ、これはマズい。誤解を解かないと。えーい、ぶっちゃけちゃいましょう。
「升風の千駄って人、知ってる?」
私が千駄会長の名前を告げると、相手の表情が変わった。
え? もしかして本人? ……とてもそうは見えないけど。
「知ってるぜ……つーか、なんでおまえが千駄さんのこと知ってんだ?」
「せ、先週、将棋の大会で偶然……」
将棋という言葉を聞いて、野次馬がぽかんとし始めた。
そりゃそうよね。とてもそういうシチェーションじゃないし。
松平くんも、なんか迷惑そうな顔してる。趣味をばらしたのは不味かったかな?
「千駄さんから、なんか言われたのか? 俺にメッセージとか?」
「えっと……よろしく……だって……」
わ、我ながら内容がしょぼすぎる。
私が言葉に詰まっていると、松平くんは髪をかき上げた。
こういうタイプで将棋指す人間、初めて見たわ……いや、偏見だけど……。
私がそんなことを考えていると、松平くんはふと顔をあげる。
「もしかして、女子将棋部?」
か弱い乙女をにらむな。
私も負けじとにらみ返して、首を縦に振る。
松平くんは大きくタメ息をついた。タメ息を吐きたいのはこっちよ。
せっかく名簿をチェックして来てあげたのに。
適当なことを言ってその場を離れようとしたとき、松平くんが口をひらいた。
「おまえ、もしかして駒込に指示されて来たか?」
「指示……?」
「千駄さんの話は口実で、駒込歩美の使いっ走りじゃないか、って意味だ」
今のは聞き捨てならないわね。なんで私が使いっ走りなのよ。ふざけないで。
私は猛然と抗議する。
「ただの部活の先輩よ。だいたいあなた、歩美先輩と顔見知りなの?」
「ああ、中学のとき、散々お世話になった」
松平くんは苦虫を噛み潰したような顔をした……もしかして、過去の因縁ってヤツ? なにがあったのか知らないけど、訊くのは止めときましょ。触らぬ神に祟りなし。
私は退散の準備をする。
「と、とにかく、そういうことだから。じゃ」
なにがそういうことなのか、私にも分からなかった。
踵を返し、廊下を駆け抜ける。数メートル進んだところで、教室から松平の声がした。
「おい、あの駒込って女には気を付けろ。あんまり口車に乗るなよ」
○
。
.
静かな部室に、チェスクロの音だけが響く。56秒で私は金を敵陣に打ち込んだ。
詰めろ──
私が指を放し、チェスクロを叩いたところで、歩美先輩は8五桂馬。
……詰みよね。同歩は8四金、同銀、8三金、9四玉、8四金。取らずに9四玉は、8三馬、同玉、7三飛、9四玉、8三銀、8五玉、8六金。ほんとに簡単な詰み。
「負けました」
私が頭をさげると、歩美先輩も礼を言ってチェスクロを止める。
感想戦前にただよう、恒例の沈黙タイム。先に口をひらいたのは、歩美先輩。
「もうちょっとなにかなかった? 全体的にあっさり指してたみたいだけど……」
「あっさりと言うか……いまいち穴熊の崩し方が見えないんですよね……」
私が言い訳すると、歩美先輩は「ふむ」とわざとらしくうなった。
そして一言。
「それは困ったわね」
うぅ、確かに……私もこの状態は不味いと思ってる。おじいちゃんが穴熊を指さないから、私は穴熊に対する経験値が低い。でも、この前の大会を見る限り、振り飛車には穴熊というのが普通で、他の戦法を採用する人はあまりいないみたいだった。この前の飯島流引き角だって、歩美先輩がハンディを背負ってくれたのかもしれないくらい。だって穴熊に組まれると、全然勝てる気がしないから。
ただ、私が集中できない理由は、それだけじゃなかった。
あの駒込って女には気を付けろ。あんまり口車に乗るなよ。
……どういうこと? 私も最初のストーキングにはうんざりしたけど……そんなに悪い先輩じゃないと思う。本人が言うほど過干渉ってわけじゃないし、他人の悪口を言うわけでもない。ちょっと無愛想で、将棋キチってのが玉に傷。そんな感じの先輩。
私の疑念をよそに、歩美先輩は将棋のことしか考えてないみたいだった。
「プロでもそうだけど、居飛車側の穴熊採用率は凄く高いわ。アマチュアの振り飛車党が使う対抗手段は……3つくらいかしら。1、相穴熊にする。2、穴熊に組まさせない。3、腕力で押し潰す」
……3番目は策なのかしら? なんか暴力で捩じ伏せてるだけのような?
「香子ちゃんは、穴熊は指さないの?」
「指さない……ですね……」
「だったら、相穴は難しいわね。あれも経験値の問題だし……穴熊に組ませない方法は、昔は藤井システムがあったけど、今はどうかしら。地方のアマチュアレベルなら、いくらでも旧バージョンが通用するかも……ただ香子ちゃんの場合は……」
歩美先輩はそう言いながら、今日も絶賛観戦中の八千代先輩を見た。
「八千代ちゃんはどう思う?」
八千代先輩は眼鏡をなおし、まじめな顔で答えを返した。
「そうですね……藤井システムは体系的ですし、今から6月に間に合わせるのは無理だと思います。一手一手に意味がある戦法は、どうしても暗記の要素がありますので」
八千代先輩の回答に、歩美先輩もうなずき返した。
「そうね……残念だけど、新人戦を視野に入れる限り、3しか選択肢がないわ。とりあえず対穴熊戦を鍛えて、当日はいつもの形で終盤ねじ伏せることね」
歩美先輩は、ぱちぱちと端の香車でビニール盤を叩いた。
「ただ、そうやって棋風改造を先延ばしにしてると、いつまでたっても進歩しないわ。たまには穴熊を指したりしてみるのもいいかもね。それに……」
歩美先輩は、ぎっしりと本の詰まった棚に目を向ける。
「そこに部費で買った棋書もたくさんあるし、適当なの読んどいて」
うーん、そう言われてもですね……私が知ってる将棋の本は『羽生の頭脳』くらいなんですよ……それは実家にあるから……でも、あれってちょっと古いから、最新の穴熊対策が載ってないっぽい。
「そうそう、藤女のさっちゃんの棋譜は参考になるわよ」
「さっちゃん……? 姫野咲耶先輩のことですか?」
歩美先輩は一瞬きょとんとして、それから言い直した。
「甘田幸子よ。先週会ったんでしょ?」
「ああ、甘田さん……」
幸子だから、さっちゃんか。
冴島先輩もさっちゃんだから紛らわしいと思うんだけど。
「そう言えば、甘田さんも振り飛車党なんですよね?」
「振り飛車党って言うか、三間党。コーヤン流の使い手よ」
うぅ、またよく分からない専門用語を。
歩美先輩は八千代先輩のほうに顔をむけた。
「八千代ちゃん、今年は何人くらい新人がいそう?」
「今年は比較的少ないですよ。会場をチェックした限りでは、15、6人ですね。全員が出るとも思えないので、実質12、3人ってとこでしょうか」
「12、3人……決勝まで3、4回戦か。要チェックなのは?」
「升風の辻、藤女の鞘谷、横溝です。辻くんが頭ひとつ抜けてて、鞘谷さんと横溝さんが同じくらいかと」
ん、その3人は知ってるわよ。ってことは、有力者とは全員会ったんだ。
いや、辻くんは対局してたのを見ただけか。
一方、歩美先輩は、
「あら、なんか面子的に微妙ね」
と返した。
八千代先輩は、
「丸目くんは市外通学ですし、松平くんは……」
と、言葉をにごした。
ん? 松平? さっきの男子だ。
訊こうかどうか迷っていると、歩美先輩は先をつづけた。
「というわけで、香子ちゃん、今年はチャンスよ。層が薄いから」
「んー、層が薄いところで勝っても、なんだか……」
私の慎重な態度に、歩美先輩は意外そうな顔をした。
「あら、そんなことないわ。勝ちは勝ちよ。優勝すれば優勝。それだけのこと」
……? なんだか今の言い回し、気になるわね。私に言ってるんじゃなくて、まるで自分に言い聞かせてるような感じだったけど……気のせいかしら。
「ま、後はクジ運よね」
「クジ?」
「個人戦は全部トーナメントだから。最初に参加者で籤を引いて、トーナメント表を作るの。奇数人ならシードになるかもしれないし、逆にいきなり強豪と当たる可能性もあるわ。辻、鞘谷、横溝の3連戦も、その3人とは全然当たらないことも考えられる」
んー、そっか、トーナメントって、結構運の要素が強いのよね。
だからスポーツでは、総当たりのリーグ戦をするわけだし。
私が考え込んでいると、歩美先輩はふたたび玉を定位置にもどした。
「じゃ、もう一局指しましょ」