17手目 苦悶する少女
さあ、この飛車先突破、どう受けるのかしら? ……ん、もう指すの?
私が見ている前で、2四角が指された。これは……読み通りだ。私は3三桂と跳ねる。まさかこの桂馬跳ねが見えてないってことはないと思う。
私が困惑していると、先輩はそのまま6八角と引いた。またまた読み筋通り。何よ、不安になっちゃうじゃない。私がなにか見落としてるってこと?
えーい、考えても仕方ないわ。2三歩と受けましょう。次に2一飛で──
「えッ?」
私はあわてて口をつぐむ。
3五歩……? どういうこと? そこはむしろ私が突きたかったくらいだ。先輩が攻めを焦ったようにしか見えない。
もちろん、同歩じゃない。それは3四歩からの反撃がある。だから同銀。
私は数秒で同銀を指し、チェスクロを力なく叩いた。考えがまとまらない。ここで先輩になにかないと、一気に悪くなるけど……ん? 角を持った?
大駒が斜めに移動し、盤上の銀をパチリとしりぞける。
え? え? え? えええッ!? 同角ッ!?
め、メチャクチャな無理攻めじゃない。こんなの私でもしないわよ。
うぅ……もしかして舐められてる……?
いいわよ受けてたとうじゃないッ! 同歩ッ!
私が怒りの指し手で角を取ると、先輩はノータイムで3四歩と置いた。私も勢い3六歩と突く。
3三歩成、同角、4五桂、1五角。
さあ、これで次の3七歩成をどうする気かしら? ……あれ? この局面、どこかで見たような……。あ、そっか。これってさっき読んだ手順と似てる。ただあのときは、角銀交換が入っていなかった。
えっと、どうするんだっけ……そうだ、3七歩成には2五飛で受かってるのよ。1四歩なら同飛、同歩、3七銀……で、でも角銀交換だから、同じようには進まないはず。どこかで分岐すると思うんだけど……例えば、3四歩と置いて……。
私が覆い被さるように読んでいると、先輩の手は駒台ではなく左へと向かった。
5七銀と固める? ……違う。もっと左……端に……。
9五歩……? だ、ダメだわ。さっきから手が当たらなくなってる。
この狙いは……まあ端攻めよね。同歩、9三歩、同香、8五桂、9四香、8六桂ならドハマり。いったん取ってから9二歩と謝るかそれとも……。端を受けながら、左辺を攻撃する手段があればいいんだけど。
……ん、あるわ。これならどう? 私はもらった角を手にし、6三にすえた。
「それはいい手ね」
やった。先輩に褒められた。
って、喜んでる場合じゃない。とにかく、先輩も一気に端を攻めては来られないでしょ。
私の予想通り、先輩は少しばかり時間を使い始めた。30秒が過ぎ、1分が過ぎ……それからまた30秒ほど過ぎたところで、先輩は駒台の桂馬を拾い上げた。
「どいてもらいましょう」
そう言って先輩が指した手は、5五桂だった。要するに角を移動しろってことね。
もちろん、角を渡す気はないけど……でもこれって……。
私は4五角と出て、桂馬を掠め取る。
まさか端ばかりに目が行ってうっかりというオチじゃ……ん?
私は背筋が冷たくなるのを感じた。
先輩は飛車に人差し指をそえ、それを2五の位まで滑らせる。
しまった……両取り……。
一瞬、目の前が真っ暗になりかけた。けれど、盤面を見渡したとき、あることに気付く。
先輩も銀がタダになってるじゃない。びっくりさせないでよ……4八角成、っと。
先輩は間髪置かずに4五飛車。角は取られちゃったけど、こっちは馬を作りながら銀を補充。駒損はしてないわ。ただ、次の4三桂成が気になるのよねえ。受けの形がイマイチよく分からない。
私は金桂交換を回避するのに苦心する。そしてある筋を思いついた。4三桂成には、5四銀と打ってどうかしら? 飛車が逃げれば桂馬をタダで取れるし、3二成桂と入れば、飛車金交換でかえってこっちが有利だわ。
なるほど、結構いい手があるじゃない。じゃあ、4筋は放置しときましょ。他になにか手はないかしらっと。あ、そうだ。端がぶつかってるのよね。ここで同歩としますか。先輩はさっきので桂馬を使っちゃったから、同歩、9三歩、同香、8五桂、9四香で耐えてる。
9五同歩。私が端を取り返すと、先輩は面白そうに微笑んだ。
「難しくなったわね」
そのわりには嬉しそうですね。
「行きがけの駄賃」
そう言って、先輩は9三歩と打って来る。4三桂成の罠には引っかかりませんでしたか。
まあ期待してなかったけど。
さてさて、9三香と予定通り取るか、別の手を指すか。
私は考える。駒を脳内で八方に動かし続けた。
……ぐッ、この局面、手が広過ぎるわ。とても読み切れない。候補を絞らないと……例えば同香、8五桂、9四香に6三銀とガジガジ行くのは? 単に同銀、同桂成は面白くないから、無視して9六桂なんてどう? 同香、同歩なら、先手は歩切れだから次の9七歩成が受からない。同香に代えて8九玉の引きは、8八銀、9八玉、6三銀で終了。7九玉と逃げたら8八銀、6八玉、9九銀成、7二銀成、同金として、もう一回6三銀、7一香、7二銀成、同香……あれ? そこで6二金がある?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
5四飛は6三角打が激痛だから5三飛車?
でもそれは7一角、9二玉、7二金が詰めろ飛車取りだ。
7一香が悪かったのかしら? 7一香に代えて7一銀、7二銀成、同銀、6二金、5四飛はやっぱり7一角、9二玉、7二金が詰めろ……あ、最後の7二銀成に同銀が間違いかも。同玉とすると……6三角? それは8二玉と寄れば受かってるような……ああ、でも4一角成があるのか。速度勝負ね。
同飛、同飛成、8八桂成、3二龍、7二香、5二飛(6三桂成?)、7八成桂、同金、5九角、7九玉……足りないかも……こっちは7二飛成、同銀、同龍、同玉、6三金から詰んじゃうし……5九角じゃなくて3五角と攻防に利かせてみようかしら? 4六桂、6一銀(?)、5一飛成、6二銀、1一龍、5一歩。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ただここで6三香と打ち込まれると、また難しいわね。
泥試合だ。金を2枚渡してるから、先手もかなり受けが利く。
私はちらりと時計を見る。これで5分考えた。9三同香はここで打ち切りね。
次は……放置して6五歩はどう? 9五香と端を詰めて来たら、6六歩。金当たりだけど9二歩成、同香、同香成、同玉、9九香、9三歩。そこで8五桂と踏み込むか、それとも6八金と手を戻すか……。8五桂は無いわね。だって6七歩成、9三香成、同桂、同桂成、同玉のとき、4八の馬が利いてるから攻めが続かないもの。だから、9三歩には一回6八金。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
……素直に行きますか。6七香。今度は馬が利いてないから、8五桂があるわ。6八香成に先手も9三香と成って同桂、同桂成、同玉、8五桂、8二玉。
……うぅ、なにかありそうでなさそう。9三角、8一玉、8二銀、9二玉……。詰まないわね。多分、速度計算でもこっちの方が速いはず。6八金、9六桂、9七玉(9八玉は8八銀で必至)、8八銀、9六玉、9四香、9五歩、9七金、8六玉、7四桂、7五玉に6七歩成……もしかして打歩詰めってオチ……? 6六馬、6四玉……うっそーん……9三角成は同桂成でこっちが詰んじゃうし……。
待って、6六馬じゃなくて6六となら? 6四玉は6三歩、7五玉、6七と、6五玉、6六馬、同角成、同と、7五玉、6四角……。詰むじゃない。あれ? でも最初の6六とのときに6四玉じゃなくて7五玉と寄ると……? 6七と、7五玉の繰り返しは千日手。
……ああ、なんだ簡単じゃない。1回目の6五玉に6四歩、同玉、6三歩を入れればいいんだわ。これで問題は全部解決。ちょっと惚けてたわね。よしよし。これは詰みよ。
さて、ちょっと戻しましょう。9三歩、6五歩に9五香は攻め合って良し。だったら香車を走らないで9二銀と打ち込むのはどう?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
取る手は……ないか。同歩成、同玉、9四香に9三歩と打てないし……8二玉には9一角、7一玉、9二香成くらいかしら。6六歩から攻め合っても……難しいわね。9二銀に同香じゃなくて6六歩なら? 6八金と一回引くか、それともいきなり9一銀不成とするか……9一銀不成、同玉、9五香が詰めろ。8二玉の一手に9二歩成、7一玉、8一と(6三香?)、同……玉? 同銀だと6三桂が王手飛車取りよね。そこで6八金と手を戻せば──
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これ、先手も危ないわよ。後手は銀銀桂を持ってるから、9六桂、9七玉、8八銀、9六玉、9四歩(詰めろ)、同香、9五歩、同玉、6七歩成(詰めろ)。8六香は受けになってないし、7五桂なら8四銀、8六玉、6八とが詰めろ。
うむむ、これは勝ってるのかしら。だとすると……6五歩には単に6五同桂?
でも初見6四歩で死んでるのよね。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
6三銀なら……6五歩、7二銀成、同金、6三銀、6一銀、7二銀成、同銀……。
あッ、これはダメだわ。6二金がある。かと言って6三銀に同銀、同桂成はもっと冴えない。
6四歩じゃ、すぐに死なないみたいね。つまり、6五歩にはごちゃごちゃせずに同桂で先手も指せるってことか。全体的な印象として、単に9三同香と取るのが一番粘れそうだわ。そうしましょう。ここまででさらに10分も使っちゃったし。9三同香。
私は端歩を払い、香車を恐る恐る前に進めた。先輩は口元に手をやる。
「同香か……」
ちょっと意外そう。悪手じゃないと願う。
「同香……」
先輩は首をひねって、もう一度同じ台詞をつぶやく。盤外戦術ですか?
無視無視。先を読みましょう。次は8五桂かそれとも──
しばらくして、先輩は駒台の銀を手にした。だがすぐにそれを戻す。手癖が悪いわね。指すときはパッと指してくださいな。ん、でも銀なんてどこに打つつもりだったの? まさか4三銀でムリヤリこじ開けるとか?
私が左側に視線を向けていると、先輩は再び銀を持って6筋に手を伸ばした。
「自信がないけど……」
6三銀……これはなにかの筋で読んだ。でも形がちがう。
放置して9六歩と伸ばす? 7二銀成、同金、6三銀……これは6二金コースか。だとしたら、すぐに同銀と取って、同桂成、7二銀、同成桂、同金と収めちゃうのはどう?
……あ、それは4二銀があるか。取れないし、飛車を縦に逃げると6一銀の引っかけくらいで潰れちゃうから、7一飛車として──
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
この局面、5三銀成としても、まだ先手は飛車が成れないのよね……5三銀成、9六歩に6三銀(6二銀?)、9七歩成、同香、同香成、同玉、9六歩、8八玉(同玉?)、9七銀、7九玉、6三金、同成銀……ここで先手に詰めろが掛かる? ……5七桂? これは詰めろ? 9六香、6九桂成、同銀なら8八金、6八玉、5九銀まで。同銀のところで同玉なら、5八金、7九玉、8八銀打……私の勝ちだわ。
よし、大丈夫そうね。6三銀には同銀から清算して指せそう。
私は同銀と取った。同桂成、7二銀。パタパタと手が進む。
パシリ
え、引いた? 6四成桂? 私と同じように読んで、先手不利だと気付いた?
でも9六歩とすれば、さっきと似たような展開に……な、ならないッ! 今ので歩を補充したから、9八歩と打てる。そっか、そういう狙いの手なんだ。局面を収めるつもりね。
私はチェスクロを見る。残り時間は10分を切っていた。正確に言えば7分。
一方、歩美先輩も早指しに見えて、ちょくちょく時間を使っていたようだ。残りは13分と、私よりちょっと多いだけだった。20分以上残してるかと思ったけど。
さて、また考えますか……とりあえず9六歩、9八歩で端を詰めるわよね。そこで攻めるか受けるか……受けるって言ってもねえ……この形じゃ……先手より堅くはならないだろうし……。
よし、攻めましょ。そっちの方が棋風に合うわ。と言っても、どこから攻めれば……。
……遅そうだけど、5七歩が確実かしら。そこで6三銀なら、無視して5八歩成、7二銀成、同金、7九金。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ここで5七とは……6三銀、6七と、7二銀成、同玉、6三角、8二玉、7二金、9二玉で……。ん? 意外と耐えてるかも。7三成桂、同桂、同金が詰めろじゃないから、7八と、同金、6九銀で一手勝ち。
と金は遅いようで速いよ、を地で行ってるじゃない。グッジョブ。
私は9六歩、9八歩の交換を入れた後、歩を一枚摘み、5七へ力強く置いた。
さあ、ここから寄せ合い勝負よ。歩美先輩の腕力を見せてもらおうじゃない。
私が鼻息を荒くしていると、先輩は駒台に手を伸ばさず、8五桂と跳ねた。
桂跳ね? これは……あんまり意味なくない? 9三桂成から寄せがあるわけじゃなさそうだし……。私はチェスクロを見る。残りは2分を切ろうとしていた。この一手に時間を掛けるのは無理だ。そう判断して、すぐに5八歩と成る。
先輩はさらに1分ほど使い、7九金と寄った。なんだ、やっぱり9三桂成からの急襲はないわけね。心配して損したわ。5七と。
私がと金を引くと、先輩の右腕が舞うように金を寄る。
……ああ、なるほど、やっと分かったわ。金を逃げるスペースを作ったのね。でも、これは受けになってないような……6八銀と打ったらどうする気? 同金、同とは私の勝ちだと思うんだけど。取らないなら、7九銀不成〜6七桂で足したい。
私は悩んだ。寄せる手がたくさんあるように見えたからだ。好手が複数あるときは注意しろって、おじいちゃんが言ってたけど……どういう意味かしら?
……私は残り時間のうち1分を使い、それから6八銀と置いた。
「んー」
大きく息をつく先輩。ちょっと不利だと思ってるみたいね。凄い真剣に読んでる。もしかしてこれ、勝てるんじゃないかしら? 金星? それとも順当勝ち?
先輩はなんとそこから5分も考え続けた。私も一緒になって読む。
どうやっても私の王様が捕まる順が見えない。
先輩の砦には火が点いてるのに、こっちはまだ健在だ。
私は気を抜かずに読む。先輩は攻防の一手を出さないといけないはず。だけど、端を詰められてるから逃げられないし、駒を追加で打つスペースもない。最善は4六角かしら? 7九銀不成、同玉、6七桂、同銀、同と、同金……そこで4七馬? 次に4六馬からどこかで王手飛車を掛ければ……あッ、7三桂成、同桂、同成桂、同銀、同角成、同玉、4七飛で馬が素抜かれちゃう。秒読みだとこれ指してたかも。危ない。
……ん? もしかして簡単な話だった? 6七同銀に同とが間違ってるんだわ。6八金よ。8九玉、6七と、同金、同金で解体してお仕舞い。7九銀と受けても7七銀……本当にそうかしら? 7八銀打、同銀成、同銀、同金、同玉……次の手が意外と難しい? ……5六飛? これは詰めろよね。5七歩と受けたら、同馬、同角、同飛成はさすがに受けなしか。6八金には8八金がある。
私が読み耽っていると、ついに歩美先輩が動いた。彼女が指した手は──