第1話 エアコンが消えた夏
世の中には、なくてもいいはずなのに、なくなると途端に世界が崩壊するものが存在する。
たとえば、私の大好きな兄――織原徹。
お兄ちゃんと口をきかなくなって、ちょうど一週間になる。
楽しみにしていたプールへのお出かけをすっぽかされた腹いせに、こちらが一方的に無視を決め込んでいた。ほんの少し謝ってほしかっただけ、構ってほしかっただけの、可愛いプチ反抗期のつもりだったのに。
けれど、ここ二、三日、家の中でお兄ちゃんの姿をまったく見かけないことに、私はようやく気づいた。
嫌な予感がして、うだるような夏休みの正午、私は二階の兄の部屋のドアを勢いよく開けた。
――そこは、もぬけの殻だった。
部屋の中は完全にサウナと化していた。容赦ない太陽光が畳をじりじりと焦がし、息苦しい熱気が肌にまとわりつく。去年取り替えたばかりの最新型エアコンが、本体ごと綺麗に消えていた。壁には無惨なボルトの穴と、長年の埃が描いた四角い影だけが残されている。
そして、がらんとした学習机の上に、お兄ちゃんらしい無機質な字で書かれた書置きが、ぽつんと置かれていた。
『部屋が暑いので、しばらく涼しい場所で過ごします。 徹』
……嘘でしょ。
お兄ちゃんが、家出した?
日付を見る限り、もう三日も前からいないというのに、この家の大人たちは誰一人としてその事実に気づいていなかった。
「ちょっと、お父さん! お母さん! これどういうこと!?」
書置きを握りしめたまま、私は階段を駆け下りてリビングに飛び込んだ。冷房の効いた部屋では、週末の昼下がりにふさわしいだらしない光景が広がっていた。大型テレビでは競馬中継が大音量で流れ、父はソファに寝そべって缶ビールを片手に「いけ、そこだ!」と叫んでいる。母はその後ろで、高級ブランドの扇子を優雅にあおぎながら、美容パックを顔に貼り付けていた。
「うるさいわよ、エリー。女の子がそんな大声を出すんじゃないの。テレビの音が聞こえないでしょう」
母が面倒くさそうにこちらを一瞥する。
「テレビどころじゃないわよ! お兄ちゃんの部屋、空っぽよ! エアコンもなくなってるし、三日前から家出してるじゃない!」
私はテレビの前に仁王立ちになり、書置きをテーブルに叩きつけた。
父はようやく画面から目を離し、冷えたビールをぐびりと煽ってから、鼻でせせら笑った。
「家出? 大げさな奴だな。エアコンは故障したわけじゃない。あいつの反抗的な態度が気に入らないから、更生のために一時的に撤去してやっただけだ。どうせその辺のネットカフェにでも逃げ込んでいるだろう」
「そうよ、ちょっとしたお仕置きよ。親戚の集まりにも顔を出さないような生意気な子なんだから、この夏休みに少しは懲りさせなくちゃ。数日すれば干からびて、泣きながら戻ってくるわよ」
母もパックの奥から、歪んだ笑みを浮かべて事も無げに言う。
この、毒親どもが……!
私は心の中で、猛烈に歯ぎしりした。
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