第20話(最終話) 新たに始まる世界で
あぁ、ライナスの声が聞こえる。遠く、近く、定まらないけれど、彼の必死な声が。
私は顔を起こす。たぶん、そうしようとした。
身体の感覚が曖昧で、でも、おそらくはしゃがみ込んでいるのだと思う。
もう輝きを伴わない普通のドレス――の裾がふわりと広がっていたから。清らかな静けさを取り戻した大広間の床の上に。
瞳に映るライナスが、少しぼやけて見える。私、泣いているわけじゃないのに。彼の姿が霞の向こうに感じられた。
こんな彼の表情は初めてだ。辛そうで苦しげで、悲しみと憤りと不可解さと、あらゆる感情が混在しているような、そんな顔を見るのは。
自分の両の手と、そこをすり抜けてしまった私と。理解しがたい状況を前にして苛まされている彼がいた。
胸がキュッと締めつけられる。とても痛い。切なくて、胸いっぱいになる。
彼にそんな顔をさせてしまうなんて、嫌だ。たまらなくもどかしい。
声――出せるのかな。彼の名を呼びたい。私がまだ、完全に滅していないのなら。
《ライナ……ス……?》
「レナ! どうしてこんな……? 何故だ!? お前に触れられない!?」
《私……。私とルナ……ね。私達は、ビギニア様が自らの魂を分かった欠片……なの。ビギニア様がね、そうおっしゃってた。だから……だから、ね》
私は、その先を紡ぎ出せなかった。
身体の感覚がどんどん失せていくのに、嗚咽を漏らしそうになったから。泣き出してしまいそうで。
思わず唇を噛んでしまう。それさえも、本当にできているのかどうかわからぬままに。
ただ、滲んでいるようにも見えるライナスを見上げた。ただひたすらに見つめる。
今や魔王は消え失せ、闇封じは叶った。
その瞬間に、魔王の傍らにいたビギニアも喪われた。そう、彼女も消滅したのだ。……だから。
だから、私も消え失せてしまう。――それが、ビギニアともども魔王を封じた私にもたらされる運命。
でも、そう言えなかった。
けれど、私の瞳に映るライナスは、私が言わんとして言えなかったことを察したようだ。全てを悟った彼の面持ちから血の気が引いていく。
私を見つめる瞳には、まばたき一つなかった。ただ、悲痛を超える感情が荒波のように激しく揺らめく。
私は戦慄きそうになる唇を開いて、ようやくやっと一言だけ告げた。
《ごめんね……》
「……何、を謝る? 何……を?」
《だって……私。私は、消え……》
「消えない! お前は消えたりしない! 誰が消させたりするものか!!」
《……………っ、っっ》
その瞬間、私の姿は弾かれたように大きく揺らいだ。
ライナスの激しい声に、彼の想いが音と化した激しさに、消えゆく身体が――心が揺り動かされたかの如く。
彼は、両の手で私の頬を包み込む。温かいはずの彼の掌、その感触を、今の私は感じ取れなかったけれど。
ふわりと優しく両頬を包んでくれる彼の手は、微かに震えていた。彼もまた、直に触れている感触を得られないのだろう。
もどかしいほどに激しく荒ぶれる感情が、彼のまなざしから伝わってくる。
私を見つめる瞳に灯された光が、とても熱い。強い輝きを放ち、映し出される私をまばゆい光でくるまんとするかのようだった。
彼の声が届く。直接、私の心へと染み通るかのように響いてきた。
「なぁ、レナ。さっき言った言葉を覚えているか? 大広間に踏み込む前に、さ」
《……う……ん……》
「もう一度、言うぞ。俺はいつだって、お前のそばにいる。お前の傍らに、必ずいる。この手を……お前に触れている手を離すつもりはない。――いいな、この手を離しはしない! 絶対に離さない!! この言葉を違えるつもりはないぞ、決して!!」
《……で、も。だけど、私……は》
「レナ、俺とともにいたお前は賢者殿か? 一緒にいてほしいと俺に願ったお前は、賢者殿だったのか?」
《ち……がう……っ。違う……わ!!》
「じゃあ、誰だ?」
《……わ…たし……よ。………私、だわ。ビギニア様……じゃない。私が……望んだの。私が……! そう、私自身が……!!》
「そうだ。レナ、お前だよ。他の誰でもない、レナ自身のはずだ!」
《あぁ、ライナス!!》
刹那、ごく一瞬――束の間にも満たない間、私と彼を包む光が出現した。
何処から? 私達から? わからない。しかし、確かにまばゆい輝きが生じたのだ。
あまりにも短い間だけのことで、ただの錯覚であったのかもしれないけれど。でも、ただ……。
その瞬間の私の瞳に映し出されたのは、ライナスの笑顔。緊迫感を解ききれないながらも、ホッとしたような。
それは、私がよく知っている――慣れ親しんできた朗らかな彼の笑顔だった。
じわり、と視界が大きくぼやける。眦の辺りから何かがこぼれるのを感じた。……そんなはずがないのに。
次の瞬間、両の頬に優しい温もりを感じ取れた。グッと抱き締められる優しい強さも。……そんなのありえないのに。
でも、それでも、私は彼の背に両の腕を回したのだ。そんなふうに身じろげる身体の感覚など、既に失せてしまっていたのに。そのはずなのに、私は彼の身を震える手で抱き締めていた。
これは、夢? 滅する直前の、幻?
私には、何もわからなかった。そのまま、気が遠くなってしまった私には、何一つ。
そして、そうして――。
自らの寝息のような穏やかな呼吸音を感じながら、私はフッと瞳を開いた。
どうやら私は、最上級の装飾が施された天蓋付きのベッドに横たえられているらしい。所々に大地の王国――王家の紋章が刺繍されている豪奢なベッドに。
王家、もしくは、王家に近しい者達のために使用される貴賓室のものであるように思えた。
だが、それを気にする余裕は、すぐになくなる。
視界に入った者の姿に一瞬、呼吸するのを忘れてしまったのだ。鼓動が深く大きく波打つ。
信じられなくて、どう感じていいのかもわからなくて、ただ瞳を戦慄かせるしかなかった。
私の視界いっぱいに映る、安堵したような朗らかな笑顔。それが、私の心にも身にも広がっていく。
「ラ……イ……ナス……?」
「あぁ、レナ。……そろそろ、お前も目が覚めると思ってたよ。さっき、お前の隣で眠っていたルナも目覚めたからな」
「ルナ……!? あ、ルナは!?」
「バルコニーにいるよ、兄上と一緒に。眠っているお前を無理に起こしてはいけないから、と」
「……ルナは無事なのね!? 私……私も、私も……生きてる……?」
「当然だろう? お前が俺の前からいなくなるなんて、絶対にさせない。この手を離したくないんだ」
「あ……」
その時、ライナスが両の手で私の手を包み込むように握っていることに気づいた。愛おしそうに、大切そうに、しっかりと。
確かな温もりを感じて、そっと私も握り返す。その温かさにホッとした。
あぁ、私は生きてる。滅してない。ちゃんと彼のそばに、彼と一緒に、ここにいる。
ツゥーッと眦から枕もとへと伝うものを感じた。次第に視界が滲みゆく。
やんわりと私の手から眦のほうへ、ライナスの手が移った。柔らかに触れてきた指先が、私の涙を優しく拭う。
その指先から感じられる温もりが嬉しくて、私は彼の手に自らの手を重ねた。伝わって来る温もりが嬉しい。
自然と、自分でも気づかないうちに微笑んでいたのだろう。彼の微笑みもまた深まる。
互いの瞳に映る自分は、じんわりと満ちていく喜びに彩られた笑顔となっていた。
「離さないでね、私を」
「あぁ、レナ」
「一緒にいられるのね、私達」
「もちろんだ」
ライナスは重ねていた私の手を握り返した。
それに促されるように、身を起こそうとする。そっと背に回された彼の手を支えに、彼に身を委ねるようにして起き上がった。
ライナスと顔を見交わす。
互いの表情にある微笑みにホッとした心地で、互いを抱き締めた。この温もりを失うことがないように。ずっと、ともにいられるように。
そう、決して離れない、と。絶対に離れることはない、と。
そんな私達を、バルコニーから室内へと戻ってきたライオネルとルナが微笑ましそうに見守っていてくれた。
後日、ルナから聞いたのだが、彼女もまた、ビギニアの消滅直後と思われる刻に消えかけたらしい。それを引き戻してくれたのは、ライオネルだったとも。――その刻の私とライナスのように。
それからの数週間は、私とルナの体調を気遣って静養の日々となった。
そうして、世界へ目を向ければ……。
闇封じが成された瞬間であろう刻に、闇の眷属達もかき消えていったという。
同時に、各王国の領内において石化されていた人々や自然が、元の姿に戻ることが叶ったとのことだった。
水精霊の郷も例外ではなく、意識不明だったウォーリィの父であり長のウォルタスは、元の元気な姿に回復したそうだ。
風精霊の郷では、長ウィンローの頼りになる右腕として、兄ウィンダーが才覚を振るっているという。
火精霊の郷では、長ファイナとファルの婚儀が行われ、彼女の友ファイーレは火の神珠を祀る聖域守護を任された者達の要として務めているということだ。
各精霊達の良き報せは、時折に私とルナの様子を見に訪れてくれた地精霊の長グラディアからもたらされた。
そんなある日、私は大地の城の大広間に参じていた。
無事に闇封じを成した光の神剣を、王家へと奉納するためである。光の王ライオネルへ丁重に返し、玉座の後方の壁に掲げることになるのだ。
今は、再び一切の輝きを失ってぼろぼろの状態である神剣。
それが収められた鞘ごと、私は両手で掲げ持ち、玉座へと歩んでいた。深紅の絨毯上を、王との謁見に相応しい厳かなドレス姿で静かに。
私の隣には、ライナスが随行してくれている。
前方の玉座には、ライオネルとルナが座していた。
少し離れたところには、重臣達が恭しく神剣を奉納する儀を見守っている。
私は、玉座から立ち上がったライオネルとルナを前にして頭を垂れた。両手に掲げ持つ神剣を差し出し、深くお辞儀をする。
「偉大なる光の王――ライオネル国王陛下、並びに、ルナ王妃陛下に申し上げます。無事に闇封じを成したご報告とともに、聖なる光の神剣をここに奉納いたします」
「大義であった。――本当に、本当にありがとう、レナ。君にはね、とても感謝しているよ」
「……ライオネル様」
恭しく顔を起こした私に、ライオネルは落ち着いた笑みを向けてくれる。
光の王としての毅然とした面持ちから、不意に灯された微笑みはどことなくライナスに似ていた。
とはいえ、彼は国王だ。光の王たる彼に神剣を手渡すまでは気が抜けない。私は注意深く、これ以上はないくらい丁寧に、彼の手へ神剣を差し出した。
――その瞬間。
私の手からライオネルの手に渡る間際に、神剣がサラサラと霧散し始めてしまう。ぼろぼろだったとはいえ、こんなにも脆く儚く崩れゆくなんて。
「え……!? ど、どうして……っ?」
動揺する私の周囲にも、ライオネルやライナスを始めとしてどよめきが静かに広がっていく。
そのざわめきが、衝撃のような驚愕の声へと変わったのは、直後のことである。
霧散する細やかな粒のいくつかが、淡い光の砂のようにキラキラと舞い始めたからだ。
それだけではない。
ほのかに煌めく砂のような粒が、人の形を作り上げていく。――よく見知っている人の姿に。
まるで幻影のようにユラユラと、ふわふわとした人影が、私達を見つめていた。それも、優しく温かな微笑顔で。
私はドキリとした。不穏を訴えるかのように、鼓動が早くなる。
だって、現れた人影は……。
「ビギニア様!? まさか……!?」
《案ずることはないぞえ。我はもはや滅した者じゃ。そなたの闇封じは、ちゃんと成されておる》
「で、も……」
《これなる我は、我であって我ではないのじゃ。そうじゃな……残留思念やもしれぬなぁ。永の眠りにつく我の何処かに、そなたとルナに伝えておきたいことがあったのじゃろう。――耳を傾けてくれるかえ?》
それは不思議な語りだった。
ゆらゆらと揺らめくビギニアが、自らのことを他者のように話すのだ。
しかも、狂気が抜け落ちて、ただ静謐な微笑みを浮かべていた。夢見ているかのような幸福感が、その微笑顔に漂う。
徐々に、揺らめきながら、人の形が淡くなりつつある中で。
しかし、私達に向けられたまなざしも微笑みも、温かで優しかった。私とルナが幼い頃からずっと見てきた、慣れ親しんだ微笑顔である。
呆然となりながらも佇む私の隣に、ルナが玉座から駆け寄ってきた。
ビギニアは私達二人を交互に見やる。慈しむような、愛おしそうな、それこそ万感の想いをたたえたまなざしを向けてくれた。
私は、知らずと息を呑む。
気がつかないうちに、私とルナは互いの手を祈るように繋いでいた。ただじっと眼前のビギニアを見つめたまま。
そんな私達二人へ、彼女はそっと手を差し伸べて頬に触れる。いや、触れられたという感触は全然なかったが。
でも、彼女が私達を見やるまなざしにある温もりは、限りない優しさに満ちていた。
《――幸せにおなり》
「…………っ、っっ!」
《我は、そう伝えたかったようじゃな。レナもルナも、それぞれが見出した愛する者と、決して分かたれることなきよう。幾久しく、ともにあれるよう願うておる……と》
「……はい。はい、必ず……っ」
涙ぐんでしまう。
ビギニアの声が、あまりにも慣れ親しんできた優しい声だったから。赤ん坊の頃からずっと、私達を育んできてくれた温もりが伝わってくる言葉だったから。
思わず彼女のほうへと身を寄せ、腕を回して彼女を抱こうとした。私もルナも、どちらからともなく。
でも、彼女はやんわりと頭を振って身を引いてしまう。溶けゆくかのように、光の雫となって霧散する中で。
ただ、夢見心地であるかのような穏やかな声だけが、ふんわりと響いた。それさえも、輝ける砂塵のように消えてゆくのだけれど。
《神々に創られ、始まりを司った黎明の賢者ビギニアは、もうおらぬ――滅した故な。終わりを司った――魔王と呼ばれし終焉の賢者エンディオも、封じられて二度と目覚めぬ。我ら二人、もはや分かたれることを望まぬ。二人で、永き眠りという幸福な刻に漂うのじゃ》
「ビギニア……様」
《この世界は、神々の手を離れた。神々に遣わされし我らは失せ、そなたら皆々の世界となろう。――よう生きるのじゃよ。ともになぁ、愛する者とともに……》
「ビギニア様……っ!!」
私とルナはぐるりと大広間を見回した。消えゆく声の、その行く先を求めるかのように。
けれど、ビギニアの気配は完全に消失してしまう。何もかもが光の雫となって舞い散るように霧散してしまった。
私の手に、もはや神剣の姿はない。私の瞳に、ビギニアの姿が映し出されることもない。その声が、耳もとに届けられることも。
もう二度と――。
私達二人は、互いの身をギュッと抱き締める。たった今のこの刻こそが、養い親たるビギニアとの別れであったと実感していた。
幸せになるように、と。愛する者とともに幸せであれ、と。私達自身の世界である、ここで。
ビギニアが伝えてくれた言葉が、想いが、私とルナの心に優しく染み込む。限りなく温かいものが溶け込み、そっと包み込んでくれるかのように。
かくして、終焉の魔王エンディオによる闇の脅威は永久に去った。
そうして同時に、黎明の賢者ビギニアも永久に喪われたのである。
しかし、月日は平穏に過ぎていく。
復活した光の王が王妃とともに大地の王国にあり、その守護のもとで世界は滞りなく刻を重ねていった。
そうして、季節が移り変わり、一年という時間が経った頃。
大地の王国の城では、光の王ライオネルと王妃ルナが見守る中で盛大な婚儀が行われようとしていた。
大広間ではなく城内随一の麗しい庭園で行われるのは、婚儀と祝宴を兼ねたものだ。
雲一つない陽光が清かに注ぐ中で、私は今、ライナスとともにあった。金糸で美しい刺繍が施された絨毯の上で、光の王夫妻が座す玉座へ向かう刻を待っている。
純白の最上質の糸で編まれたドレスに、可憐な花々の刺繍が施されたヴェールをつけた私。
そうして、王族の男性が婚儀でまとう厳かで豪奢な装束をまとったライナス。彼の胸もとには、私が手に持つブーケと同じ花が一輪挿されている。
心地よい季節の、心地よい佳き日だ。
私は頭上高くに広がる大空を見上げた。ヴェールがふわりと舞う。本当に心地よくて、自然と笑みがこぼれる。
「気持ちいいな。去年の、ルナ達の婚儀も良い天気だったのよね」
「俺達も天候に恵まれて何よりだ。レナのドレスが、陽射しで輝いて見えるよ」
「フフ、私はもう勇者じゃないわ。でも、ライナスにそう言ってもらえるのは嬉しい!」
「勇者でも勇者じゃなくても、俺にはまぶしいよ……お前の姿は、いつもな」
「それは、あなたもだわ。いつも、いつだって、私を照らしてくれる……とても安心するの。あなたがそばにいてくれると」
そう、ライナスが傍らにいてくれたら、私はいつだって――。
彼を見つめる私の微笑みは、ますます明るく輝いた。喜ばしい気持ちのままに。
そんな私に応えるように、彼もまた微笑みが深まる。私を安堵させてくれる、いつもの彼の朗らかな笑顔だ。
自然に溢れてくる微笑顔が、互いの心をさらに和ませてくれる。――何と幸せな、これ以上はないほどの幸福感なのだろう。
その瞬間、高らかに光の王ライオネルの号令が響き渡った。楽隊が厳かな中にも華やいだ音色を送り出す。
ライナスが私へと腕を差し出した。私は、その腕を取る。
「さぁ、行こう。レナ!」
「えぇ、ライナス!」
互いへの想いに満ち溢れる中、私達はとびきりの笑顔で歩み出した。
まばゆい陽光が注いで輝ける、美しい庭園に集う人達の祝福を浴びながら。
この世界で、私とライナスは新たな一歩を始めるのだ。神々の手を離れ、賢者も魔王もいない――私達自身の世界で。




