想曲・陸~償~
腰掛けている巨大な門の扉が、ゆっくりと閉じられていく。常に開け放たれているはずのその扉が閉まるのは、魂を現世へと還す時だけだ。
一つの魂の運命を変える為に、一つの魂が捧げられる。
来世と、記憶。彼の先に待つのは、ただ苦しみだけだ。死した後も、その苦しみは終らない。
重厚な音を立て、ゆっくりと閉じていく冥府の門。その先で、こちらに向かって進んでくる一隻の船を見つけた。その船上に、彼女の姿はある。
完全に閉じた門の前で、船頭が困惑したように櫂を止める。問うように見上げてきたその船頭に、隣に立つ彼は無言で此岸の岸辺を指差した。
戻れ。そう指示した冥府の門番に、船頭は素直に従う。慣れた手つきで櫂を操り、船を反転させて来た道を戻っていく。
遠ざかっていく船影を見送り、視線を手元に落とす。
鬼籍帳に刻まれていたその名が歪み、数秒で綺麗に紙の上から消え失せた。
これで、彼女は生きていける。
これで、彼女の中から彼が消える。
「・・・・・・・・」
鬼籍帳を閉じ、立てた膝に顔を埋める。拳を握り締め、自身の身の内に潜む激情を必死に押し留めた。
「・・・・・・・主」
長い長い沈黙を経て、傍らに在り続けた気配に呼びかける。ゆっくりと顔を上げると、そこには静かな深緑の双眸があった。
数秒、その深緑の双眸と対峙する。
再び門の扉が開いていく音を聞きながら、口を開いた。
「兄の魂を、救っていただけませんか?来世がないとしても、灼熱地獄に堕ちることだけは…」
すっと細められた深緑の双眸。白刃の煌きを宿したその瞳に、それでも臆する事無く見据え続け―――…。数秒の、後。
閉じられた瞼。微かに洩れた溜め息。
「代償は、君の来世だ。僕の仕事を、永久的に手伝う事になる」
主の役目は、冥府の門の監視だ。迷い出る魂があれば黒色の小舟を操り彼岸へ導き、冥府の川の水底に沈む亡者が現世へと牙を向かぬよう終始監視する。万が一にもそのような事があれば、此岸の岸辺に辿り着く前に亡者を屠るのだ。
それは、自身の命を賭けた仕事となる。
敗北は、消滅と同義語。
「それでも、構いません」
終焉は消滅。永久に続く仮初めの生に、それでもその心が曲げられることは無く。