想曲・伍~理~
鬼籍帳に刻まれたその名前を見た時、一瞬我が目を疑った。
そこに記された名。それは、自分の大切な人が愛した女性の名前。
先天性の心臓病を患っていた彼女の命が残り僅かだという事を、彼は知っていた。もちろん、あの人も悟っていることだろう。けれど、本当に別れの時がやってくるなんて―――…。
「人はいずれ死ぬ。その理は覆らない」
鬼籍帳を手に言葉を失っていると、上から平淡な声が降ってきた。思わず顔を上げ、その深緑の双眸が宿す輝きに出かかった言葉を飲み込んだ。唇を噛み締め、顔を伏せる。
「兄は…」
その先は言葉にならない。けれど、彼には訊きたい事は伝わったようだ。
「契約に応じた。代償を払うと」
込み上げてきた激情を押し留めるように、瞼を閉じる。深く息を吐き出し、必死に震えを押さえ込んだ。
わかっている。彼の心が、どれだけ一途なのかという事を。
その命が繋がることが叶うと知れば、どんな犠牲だってきっと厭わない。あの人は、一度大切な人を失っている。再び掴んだその宝物を、零れ落ちるままにしておくはずがない。
遠い昔。理を冒して、自分はまだ幼い兄に告げた。自分が亡くなったのは、兄の所為ではないのだと。助けにきてくれてありがとうと、それだけ伝えれば、きっと彼は罪を背負わなくてすむだろうと思ったから。
だけど、自分の考えは甘かった。泣き出しそうな兄の笑みは、あれは納得ではなくて。未だに彼の心の奥底には、弟を見殺しにした罪の意識が根付いている。
「…代償は、来世ですか?」
問う声が震えるのは、どうすることも出来なかった。
数秒の間。珍しく返答を躊躇った彼に、嫌な予感を覚えて顔を上げた。
目が合った、深緑の双眸。
「―――記憶」
短い返答に、紫暗の双眸が見開かれる。
「そ…んな…」
記憶――大切な女性の中に、兄はもういないのだ。
兄の記憶が消えることはないだろう。けれど、自分を忘れた大切な女性を見て、心優しい彼はどれだけ傷付くだろうか。
「それでも…?」
縋るように、彼を見上げる。
しかし、返された答えは無情なものだった。
「言ったはずだ。契約に応じたと」
例え、彼女の中に自分がいなくなったとしても。大切な人が、生きていけるのなら。
兄の選択に瞼を落とす。万語を含んだ溜め息が、その唇から洩れた。




