12話 捻れた世界
微かな輝きを瞼越し感じ、穣司は目を開く。
はじめに目に入ったのは、半透明に透けた自分が、薄暗い結晶回廊に映っている姿だった。それはいくつもの細かな面に乱反射して、螺旋軌道を万華鏡のように照らされている。
煌々とした砂塵となって、元の世界から移動してきた時とは違い、半透明でも人型の自らの姿が映っている事に、穣司は新鮮さを感じた。
「おお、ジョージよ。随分と早い報告だの」
あの老人の声と共に、筋骨隆々の姿が浮かび上がる。
好好爺然としながらも、厳かな雰囲気も漂わせているあの老人だ。加えて茶目っ気もある。
穣司はその声に安堵してしまう自分に苦笑いした。
老人との付き合いはあまりにも短い。ただの一度だけ、成り行きで酒を飲み交わしただけである。体感時間にして半日も経過もしていない。それでも不思議と旧知の仲のように感じられた。
おそらく老人の性格によるものもあるだろうが、それ以上に穣司が安心してしまうのは、多少なりともお互いの事情を知っているからだろう。それに言葉も通じるのだ。
いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どうやって。所謂5W1Hを理解をしていれば、状況の把握は出来る。
しかし初めての異世界での出来事は、理解の範疇を大幅に越えていた。何も分からないまま、あれよあれよと事態は進んでいったのだった。
だからこそ、老人の声に心が安らいだ。
「いやぁ、異世界の地に降り立ってみたものの、立て続けに色々とありまして……ね。それでとりあえず報告でもしようかと思いました」
「ほう、何があったのだ?」
「実はですね――」
穣司は異世界で体験した事を、出来る限り主観を交じえずに、順を追って淡々と話始めた。
まずは、地上から光が放たれた事。それから汚れた地上に降りて、瀕死の少女を救った事。その少女に涙を流され、赤らめた顔のまま靴にキスをされ、終いには豊かな胸に、手を引き寄せられた事。襲い来る巨獣と共に島全体を癒した事。そして癒した後に巨獣に懐かれた事だ。
「――と、言う訳なんです。何言ってんだお前って思われるかも知れないんですが、俺も正直、自分で何を言ってるのか分かりません。」
「うむ、うぅむ」
ガルヴァガは目を瞑り、髭を撫でながら、思案する。が、咀嚼するには素材が少ないのか、直ぐ様、目を開いて答える。
「いかんせん、これだけでは何とも言えぬな」
「あー、ですよね……。あ、そうそう、そう言えば言葉があまり通じなかったですよ」
「何? どのような感じだ?」
「俺の言葉はどうにかって様子で、聞き取れているみたいなんですが、相手の言葉はさっぱりでした。辛うじて単語が聞き取れるって感じでしたね。相手の女の子が気を使ってくれて、俺にも聞き取りやすいように、単語で話してくれたんで、なんとか意思疎通は出来たんですが」
「……ほう」
穣司の言葉を聞いたガルヴァガは眉間に皺を寄せて呟いた。
言葉が通じにくかった。それだけの事で、先程の短い思案とは違い、深い思考に沈んでいる。
時折「……しかし」「……だとれば」「寸前であったか」等と呟き、眉間に皺を寄せて自問自答しているようにも見えた。
そして長い思考の末にガルヴァガがようやく口を開く。
「ジョージは母国の言語が、遥か未来の先でも同じ言語だと思うか?」
「未来ですか? えっと、どうなんでしょう。人や文化を含めて国を形作るものが、今と変わりがないなら、多少の変化はあっても、元になってる言葉は同じじゃないでしょうか」
「ふむ。ではを言い方を変えよう。ジョージは大昔の者と、詰まる事なく会話出来るか?」
「古文は得意じゃないんですが、1000年くらい前なら……。でも、滑らかな会話は難しいかも知れませんね。書き言葉は古文で、ある程度は習いましたが、話し言葉がどうだったのか分かりませんし」
「うむ。つまりはそういう事なのだろう」
「へ?」
「おそらく儂の想定より遥かに時が進んでいるのかも知れんな」
「えっと、想定よりも時間が進んでいて、現代語だと思っていた言葉が古語になっていたって事ですか?」
「おそらく……な。これは憶測でしかないが、ニナの世界は管理者の手から離れたも同然だからの。世界の独り歩きが加速しておるのかも知れん。もしかすると1000年2000年程度の相違ではないのかも知れんな」
「は、はぁ」
穣司は気の抜けた声で答える。
世界の管理者だの加速だの言われても理解不能だ。何を言われたところで、頭には疑問符しか浮かんでこない。
それでも言葉の問題の理由が分かったのは収穫だ。解決方法があるかどうかは別にしても、なぜ通じなかったのかという答えは得られた。最初から通じないものと分かっていれば、やりようはあるのだ。
元々穣司は英語が堪能ではなかった。だから元の世界でも、身振り手振りを交えながら、単語を駆使して会話していた。不便ではあるが、それでも世界一周の旅に問題なかった。それをこの異世界でも同じようにするだけである。
しかしながら残念に思う気持ちもある。
ただ旅行するだけなら、単語だけの会話でも構わない。異国の地で移動する時に、最初にやる事とは宿と移動手段の確保だった。チェックインしてしまえばこっちのもので、あとは好きなように歩き回り観光する。食事や買い物にしても「これが欲しい」と伝われば問題なかった。国境においても答えるべき言葉は決まっている。入国目的や宿泊先、滞在日数や次の目的地を聞かれる程度のものだ。それに答えるにも単語だけで問題はない。そのいずれにも会話らしい会話は必要がなかった。
それでも今回の行く先は異世界だ。今までの常識では通じない面もあるだろう。事前に情報を得る事が出来ないというのは、行く先の文化を知らないという事だ。歴史的建造物を見ても、どのような経緯で建てられたのかも理解出来ない。それに知らず知らずのうちに、不作法をしてしまうかも知れないだろう。なにより折角の異世界だ。誰もが気軽に行けるようなものではない。だからこそ会話が出来ないのが口惜しい。会話が弾めば旅の楽しさも倍増するだろう。それに穣司は異世界の酒場で店主や客と、他愛のない会話を肴に酒を飲んでみたかったのだ。
「……言葉ってどうにかならないですかね?今でもどうにか意思疎通は出来るんですが折角なので。それに言葉が通じれば、何か新発見があるかも知れませんし。あ、いや、今の能力でも十分過ぎて、何を欲深い事を言ってんだって、思われるかも知れないんですげど、その……」
穣司の言葉は途中から萎んでいき、語尾に至るころには、蚊の鳴くような声にまで小さくなった。
これ以上望むのは贅沢な気がしたのだ。死の恐れがなく、空も飛べて、傷も瞬く間もなく治せる。まさに人智を越える力を授かっているのに、さらに力を求めるには申し訳ない気持ちになっていた。
「うむ? 言葉を更新すればよいだろう?何をそんなに困っておるのだ」
ガルヴァガは、さも当然の事にように言った。
「え?出来るんですか?どうやってですか?」
「言葉を知りたい相手から言語を複写すればいいだろう」
「えぇ……」
穣司は困惑しながら呟く。これだけでは意味が分からなかった。
それを察したのか、ガルヴァガはしたり顔で言う。
「儂が与えた能力を思い出すといい。ジョージが少女を救った時は、傷の癒し方なぞ知らなくても問題なかっただろう?それと同じ事をすればよかろうて。分かりにくいなら、相手の頭に手をかざし、言語知識を吸い出して、自らの脳裏に焼き付ける事を想像してみるのも手だの」
「ああ、確かに……。結構何でもありなんですね、この能力って」
「そうであろう?地球は儂等の世界とは異なるから、ジョージには有り難みが薄いかも知れんが、儂等の世界の者に力を与えれば誰もが喜びの涙を流すものよ。……いや、ジョージにそうしろと言っている訳ではないのだがな」
「いえいえ、もちろん俺も喜んでますよ!……って、もしかしてガルヴァガさんが地上に降りたら、人々は泣いちゃうぐらい喜ぶとか?」
「まあ、そうなるだろうて。神の力を微かにでも感じられる者なら、我を忘れて喜びの声をあげるだろう」
「あー、だからかぁ」
「うむ?」
「あ、いえね、助けた女の子が顔を赤らめながら泣いてたものでして。……その理由がなんとなく分かりましたよ」
「ふむ。神の力を感じ取ったのかも知れぬな」
「それで発情したみたいになってたんですね。おかしいと思ったんですよ。靴の先にキスをしたり、いきなり俺の手を、胸に引き寄せて押し付けたりで……。性欲が無くなったのは勿体ない気はしましたけど、今となっては良かったって思えます。あれで平常心を保つ自信はないんで」
穣司はすっきりとした表情で言う
ようやく謎が解けたと穣司は思った。あんな美人な少女が、自分にそんな事をしてくる訳がないと思っていたのだ。それもこれもこの能力のせいだと分かれば納得も出来た。
ようするに吊り橋効果などの類で惚れられた訳ではなく、神の力を感じて喜んでいただけなのだ。あの行動も喜びの表情なのだ、と。
それにガルヴァガが性欲をなくした理由も身をもって実感した。もしも性欲が残ったままであれば、よほどの聖人でもない限り、行為に及んでしまうだろう。勿体なくは思うが仕方がない事だと理解出来る。あれでは行く先々で、性人になってしまうに違いない。
しかしそんな考えは直ぐ様、否定される。
「む……さすがにそこまではならんぞ?」
「えっ!?」
「儂が、儂の創った世界に降りたとしても、儂に触れようとする者はおらぬぞ? 触れる事すら畏れ多いといったように見えるんだがの。それに触れたところで発情はせぬ」
「えっ!?」
「その娘の性癖ではないかの?」
「痴女……って事ですかね? あ、いや、異世界の文化的なもの……かも」
「さて……のう。神の力を感じ取って、歓喜したのは確かだろうが、それ以上の行動は、もしかするとそうかも知れんな。次からは言葉が通じるであろうし、いずれ分かる事だろうて」
「そうですけど……。行く先々で似たような事になりそうで怖いですね。まぁ、借り物の力とはいえ、女性に好かれるのは嫌な気はしないんですけど、気疲れしそうですね。贅沢な悩みなんでしょうけど」
「女に好かれるとは限らんだろうて」
ガルヴァガは口角を吊り上げて言った。
「まさか、同性も?」
穣司は冷や汗が流れるのを錯覚しながら聞き返した。
「かも知れぬな」
「なにそれ怖い!」
「くっ、冗談だ、冗談。そう、慌てるでない。相手に、その気がない限りは、大丈夫だろうて」
ガルヴァガは吹き出すのを堪えながら言った。
穣司の反応が愉快で仕方がないというように見えた。
「そんなに笑わないで下さいよ。あ、そうだ。なるべく能力を使わないようにすれば大丈夫ですかね。もしくは能力を最小限に抑えるとか」
「それも手ではあるが、勿体ないのう。折角の能力であるぞ?好きなように使い、持て囃されれば良かろうて」
「俺は旅先で特別扱いされたい訳じゃないんです。異国人はいつまで経っても異国人。現地人のように扱われる事がなく、あくまで旅行客として扱われるのは分かります。そういう意味では特別扱いかも知れませんが、それでも俺は現地の人と同じ飯を味わい、一緒に歩き、触れ合いたい。俺はそういう旅がしたいんです。それに言葉が完璧に伝わるってだけで上等なものですよ。もちろん能力を使って楽しむつもりもあります。ただ、そっちの方向に楽しみを見出してないだけです」
気が付けば穣司は熱を込めて語っていた。
嘘偽りない本音だ。授かった能力はとてつもなく凄いもので、まさしく神の力だ。だが借り物だ。そんな力を使い、持て囃されたところで嬉しくはない。それに穣司は国賓のような扱いを受けたい訳ではないのだ。あくまで一介の旅人として扱われたい。それだけだった。
「……そう、だったのう。だからこその……いや、なんでもない」
ガルヴァガはくすりと笑い、遠い目をした。
何か思う事でもあったのか、笑い顔がいつのまにか哀愁を帯びた表情に変わっている。
だが、それも束の間で、すぐに元の顔に戻った。
「さてとジョージよ。他に何かあるか?」
ガルヴァガの言葉は、締めの言葉の様にも感じられた。
おそらく今回は、これでお開きなのだろうと穣司は思った。
「いえ、今回はこんなところです」
「そうか。ならばよし。言葉の件は実に有用な報告であった。ありがたく思うぞ」
ガルヴァガは厳かな雰囲気を漂わせながら、穣司の肩を叩きながら礼を言った。
まるで大企業の創設者が、一端の社員を激励しているかのようだった。
「いえいえ、とんでもないですよ。また何かありましたら報告します」
穣司は反射的に自分の首の前で、手のひらを左右に振った。
否定を意味する手振りではなく、謙遜の意味が込められている。
ガルヴァガをそれを知ってか知らずか、特に何も言わずに「ではな」と告げ、姿を消した。
そして穣司の意識が遠のく。手足の感覚が薄れていき、眠りに落ちるように意識も消えていく。
再び意識が覚醒すると、生身の身体に戻っていた。
結晶の回廊ではなく、森の匂いが立ち込める、あの島だ。
しかし、周囲が薄暗くなっていた。空を仰いで確認すると、抜けるように広がっていたはずの青空は、いつの間にか暗くなっている。まさか何か異変が起こったのかと思うが、すぐに杞憂だと分かった。
青空が紅掛空色に変わり、日が暮れていただけだった。
それでも疑問は残る。あの老人との会話は、それほど長いものではなかったはずだ。体感時間で、一時間も経過していない。浮遊霊の如く、この地を離れた時は、太陽の位置は高いところにあったはずだった。
それなのに既に日が暮れているのは、一体どういう事なのだろうか。
(時の流れ……か?)
穣司はガルヴァガの言葉を思い出し納得した。
おそらくこれが、その現象なのだろうと。
ならば、とりあえずは問題ないだろうと穣司は考える。自分が解き明かす事柄でもないし、なによりこの事はガルヴァガに伝えてある。
それに、この世界を離れない限りは、時間の相違を感じないのかも知れない。問題があるとすれば、報告する時に、場所を選ばないといけないという程度だ。
結晶回廊での数十分が、この世界で数時間経過しているのであれば、残された生身の身体を長時間放置していまう事になる。怪我を負う事はおそらくない。それでも数時間も立ち尽くしていたら、気味悪がられるだろう。下手をすれば死んだと思われて、埋葬されるかも知れない。
それ故に次からは報告する場所を考えなければならないな、と穣司は思った。
視線を地上に戻すと、獣の姿は消えていた。
そして入れ替わるようにアンジェリカと仲間たちが揃っていた。
幼い少年少女達や、妙齢の女性達が多いように見える。年老いた夫婦も見られるが、青年といえるような年齢の男はいないようだ。
その誰もが自分の目の前で、目を瞑り、手を前に組んで、地に膝をついて祈っている。傍らにはツインテールの少女が、同じようにして祈っている。
まるで神と崇められているような気がして、穣司は気まずい気持ちになっていた。
(俺を神と勘違いしている……のかな)
穣司は声を掛けるべきか悩む。
成り行きとはいえ、今は神ともいえる存在になっている。だから間違いではないのかも知れない。
それでも、あなたが神様ですかと問われるなら、なんと答えるべきなのか。
(この世界の神様は、女神だよな)
もちろん否定するべきだろうと穣司は考える。
しかし同時に疑問も浮かび上がる。女神というのであれば、神は女性なのだろう。それなのに何故、男の自分が崇められているのか。
(女神様……忘れられたのかな)
以前なら神という存在を信じていなかった。
せいぜい神という単語を知っているだけである。
穣司にとって神とは、神話にある常軌を逸した行動が、あまりにも荒唐無稽で、面白おかしいという印象しかない。読み物としては中々面白いが、どれも現実味に欠けている創作物という認識だ。
風習で手を合わせる事はあっても信心はなかった。熱心な信者というだけならともかく、しつこい勧誘をしてくる者とは、距離を置いていたぐらいである。攻撃的な集団などもっての外だ。吐き気を催す程に憎らしい。
だが、今はガルヴァガという存在を知り、別の世界ではあるが神の存在を知った。
そして女神ニナこそが、この世界を創造したと聞く。
しかし、忘れ去られてしまったのか、少女達は女神ではなく、自分のような借り物の贋作を崇めているように感じられる。それではあまりにも女神ニナが不憫だ。
ならば女神ニナのいう存在を、皆に知らせないといけないなと、穣司は強く思った。
穣司は一度、咳払いをする。
少女達の顔が一斉に上がった。誰もが安堵の笑みを浮かべている事に、穣司は申し訳なく思う。
それでもまずはやる事がある。物事を正しく伝えるには、正しい言葉が必要だ。
穣司はアンジェリカの元に向かう。
集団の先頭にいる彼女の元までたった数歩で辿り着ける。
その短い間でも、少女達の眼差しが突き刺さり、良心が痛んだ。
「アンジェリカ、頭に、触れるね」
穣司はゆっくりと短く告げる。
元の世界では他者の頭に触れるのは、失礼な行為と見做される国もある。
だからこそ念の為に聞いてみたものの、アンジェリカは頬を赤らめて「ハイ」と頷いた。
穣司はアンジェリカの頭に右手を置いた。
その瞬間に彼女は痙攣したかのようにびくりと動く。そして続け様に熱い吐息が漏れた。
穣司は無視を決め込み、彼女の有している言語を抽出する想像を掻き立てる。
その途端に彼女の言語が濁流のように流れ込んできた。その言語を脳に焼き付け、自分の物にしようと念じるだけで、彼女の言語をすんなりと学習する事が出来た。
スピードラーニングなんて次元ではなかった。瞬く間にバイリンガルだ。日本語含めてしまえばトライリンガルである。
「あー、えっと。これで多分、ちゃんと言葉は通じると思うんだけど、聞き取れているかな?」
「あぁ……。私共に合わせていただけるなど、なんて畏れ多い」
アンジェリカは感極まったのか涙を流した。
それだけはなく、他の子達も頬を濡らしていた。誰もが喜びの涙を流している。
(うわぁ……)
穣司はその光景に、それほどの事なのかと、気まずさを感じた。
それでも言葉が通じた事には安堵する。これで女神ニナの事も伝えられるだろう。そして自分がこの世界の神ではないと、彼女達の勘違いを正す事も出来る。
しかし、あまりにも大袈裟とも言える態度に、穣司は若干怖気づいてしまった。
自分の事まで正直言わなくてもいいのではないか、という考えが過る。地球から来た、ただの旅人である事を伝える事もないだろう、と。
例えば自分は女神ニナの親族だというのはどうだろうか。叔父であるガルヴァガから力を授かったのだから、あながち間違いでもないような気がした。
一度でも嘘を吐けば、更に嘘を重ねる事になってしまう。だから穣司は嘘を吐くのが苦手だった。別に誠実に生きてきた訳ではない。いつかボロが出てしまいそうで面倒なだけだった。
とはいえ彼女達の期待を裏切るには荷が重い。それほどまでに彼女達の視線には熱を帯びている。だから嘘を吐くのも仕方がないかと考えていると、背中を誰かに引っ張られる。
振り向くとそこには、屈託のない笑顔の少女がいた。
傍らにいたツインテールの少女だ。目を細め、満面の笑みを浮かべている。
肌の色といい、髪色といい、アンジェリカの仲間なのだろう穣司は思った。
しかしこの子だけはアンジェリカ達とは違い、涙を流していない事に気付く。
そのあまりにも嬉しそうな顔につられて、自分も笑顔になってしまうのが分かる。そんな愛らしい少女だ。泣かれるよりは、笑顔で懐かれる方が穣司には好ましかった。
「どうしたの?」
穣司は柔らかな声で少女に言った。
だが少女は答える事無く、穣司に飛びつくように抱き着ついた。
頭をこすりつけてくる姿は、まるで動物の愛情表現のようにも見える。
なぜ抱き着かれたのか不明だが、その姿が愛玩動物のようで微笑ましい。穣司は頬が更に緩んでいく気がした。
そうして少女は顔を戻し、穣司を見上げなら、笑顔でこう言った。
『はじめまして。そして、おかえりなさい。おとーさん』
少女の言葉に、穣司は笑顔のまま、時間が凍り付いた気がした。
アンジェリカ達に、女神ニナの存在を知らせる事。そして自分の事を何と言うべきか、などと考えていた事の全て吹き飛んでしまった。




