10話 苦と涙と微笑みと
アンジェリカは新緑に満ちた森を走る。
先程までは薄暗く禍々しくもあった森だ。それが神力により精力を取り戻した。
森と共に生きたダークエルフだからこそ感じられる、生命力に満ち溢れた木々達。森の喜びの声が、一陣の風と共に、さざ波となって広がってゆくのが分かる。これ程までに美しく、活力に満ちた森を見た事がない。
「早く皆の下へ行かなければ」
アンジェリカは自分が救われた時、仲間達も救われていたものだと思っていた。
全ての事が終息した後だと勘違いしてしまった。神が降臨し、死の淵から救いあげていただいた事に、すっかり気持ちが舞い上がってしまっていた。思いの丈を告白し、持ち合わせる全ての感謝の念を伝えたかった。
しかし、再び現れた黒き獣達を目の当たりにした時、その考えは浅さかなものだと実感した。
鮮血に染められた角と牙。それだけで仲間達に何があったのか理解した。守護るべき人達に何が起こったのか。そして、なぜ自分だけが救われたのか。
今ならその答えはすぐに導き出せる。
真摯なる祈りが天に届いたからこそ、主が降臨なされたのだ。偶然だったとはいえ、真の神器の使い方で、祈りを捧げた。だからこそ、自分だけが天上の御方に、知覚していただけたと言える。
それに引き換え仲間達の神への祈りは、ただの常套句にしかすぎない。心から祈りを捧げていなかったに違いない。だからあの御方に気付いてもらえなかったのだ。
当たり前の話だ。あの大いなる存在からすると、自分達のような存在は、蟻のようにちっぽけだ。ダークエルフでも、地に這いつくばり痛みにもがく蟻の存在に、気付く事はないのだから。
「それにしても――」
アンジェリカは走りながら、先程に起こった奇跡を思い出す。
神に抱きかかえられたまま、目の当たりにした光景を。
巻き起こる光と風は、まさに生命の息吹だった。
春陽のように暖かい光と、全てを癒す柔らかな風。
大地は癒され浄化した。それどころか、悪意で覆っていたかのような、重苦しいまでの暗雲までもが消え去った。吐き気を催すような濁った魔素も、今では透き通るような静謐さを感じられる。死者の如き島が、生者の島へと生まれ変わったのだ。新たなる始まり地の胎動が感じられた。
まさに神の御業。地上に生きる者には、起こす事の出来ぬ奇跡だった。
「――何て素晴らしいのかしら」
あの荒れ狂う恐ろしい黒き獣が、一瞬にして大人しくなった。格の差を瞬時に理解したのかも知れない。そして癒しの風を浴びた黒き獣は、子飼いの獣のように懐いた。あの風を受ければ無理もないだろう。
その風を傍らで直に浴びた自分も蕩けそうだったのだから。
アンジェリカにとって、こういった感情を抱くのは、初めての事だった。
そのために先程は、思わず神の手を自ら胸に押し当てた。心臓を捧げたいという気持ち。それに加えて、胸の高鳴りを敬愛する御方に知ってもらいたい。という気持ちも含まれていた。
これ程までに貴方様を愛し、敬い、信仰します。という意思表示だ。
だがアンジェリカは異性との付き合い方を知らない。
以前はそれどころではなかったし、神器の担い手としての責務があった。必要以上に男性と接触する事もない。だからこそ男性との距離感が分からなかった。
それ故に初対面の相手の手を、自らの胸に押し当てるという事が、痴女じみた行為だとは、アンジェリカは分からなかったのである。
逸る気持ちを抑えきれないアンジェリカは力強く走る。今はただ、神が降臨した事を、仲間達に告げ知らせたかった。信仰を忘れた愚かなダークエルフに、救い手が差し伸べられた事を伝えたい。その一心で森を駆けた。
そして地面に呆然と座り込んでいる二人の子供を見付ける。
「チコ!ニーニャ!」
「ア、アンジェリカ様……僕、ここで何を」
チコと呼ばれた朝寝髪のような短髪の少年が答える。
ニーニャと呼ばれた、髪が腰まで伸びている少女は、少年の腕を掴み、寄り添うように座っている。
「無事よね? 他の皆がどこに行ったか分かるかしら?」
「え、あの、はい。他の皆はもっと遠くへ逃げたと思います。ニーニャが転んじゃったから、僕は助けようとして、その……。僕、生きているの?」
チコが不安そうな面持ちで答える。
傍らのニーニャは無言で身震いしていた。
黒き獣の眷属ともいえるあの獣達から、どんな目を受けたのか思い出したのだろう。おそらく生きながらにして、噛み砕かれ、引き千切られたのだ。痛みに喘ぎ、絶望を感じながら、最期の時を迎えたに違いない。
「ええ。チコもニーニャもしっかりと生きているわ。あなた達も神の御業を、その身で感じたでしょう?」
「神……さま、ですか?」
「あたし、わからない」
「あなた達……それ、本当に言っているの?」
アンジェリカは眉間に皺を寄せ、冷たく言い放つ。
「ひっ、ごめんなさい!」
子供達は慌てて反射的に謝った。
その姿にアンジェリカは苛立ちを感じる。
子供達は、怒られるのが嫌だから謝罪している。ただ、それだけだ。心が全くこもっていない。きっと神に祈りを捧げている時も、似たようなものだったのだろう。だからあの御方に気付いてもらえなかったというのに。
子供達は大切な仲間であり、守護るべき存在だ。アンジェリカもそれは理解しているし、その使命を背負っている事を自覚している。それでも、あの神々しい力を、その身に感じておきながら、その意味を理解していない事が、腹立たしく感じる。
ここでダークエルフの一団が、滅んでもおかしくはなかった。それを慈悲深く救いあげてくださったというのに、何故その有り難さが分からないのか。
アンジェリカはダークエルフが、神を崇めなくなった一端を、垣間見た気がした。
神の御業の素晴らしさが理解出来ない程に、先祖達は愚鈍だったのだ。だから神への信仰が薄れた。そして自惚れの果ての神頼み。あまりにも愚かだ。
自分であれば、絶す事なく神の素晴らしさを、次の代に伝えてゆくだろう。であれば信仰は今でも続いたはずだ。
とはいえ、もしもの話を考えていても意味がない。大事なのはこれからだとアンジェリカは考える。
今はこの不敬な子供達を躾なければならない。平手打ちでもして、目を覚まさせるべきだろう。自分達がどれだけの幸福の上に立っているのかを、知らしめなければならないのだから。
アンジェリカはそう思い、子供達に一歩踏み出す。
その直後、背後から強大な力の波動を感じた。
慌てて振り返ると、神器の光が天に上がっていた。地上に生きる矮小な存在には、打ち出す事が到底不可能な極大の光柱だ。それと共に、煌めく粒が雪のように舞い降りる。まるで祝福の光が、ゆらめき落ちているようだった。
「す、凄い!」
「わぁ、きれい……」
子供達は怯えた表情から一転して、笑みを浮かべて空に見惚れていた。
その笑みが、神の微笑みに重なって見えた。
アンジェリカは、目を瞑り、歯を軋ませる。
(ジョージ様は真っ先に私を心配して下さったというのに、私はこの子達に何をしようと……)
今、必要なのは叱りつける事ではない。あの御方のように「大丈夫だよ」と、優しく声を掛け、安心させる事だ。
あの言葉と微笑みに、どれだけ心が救われたのか計り知れない。
それなのに自分は、傷の癒えたばかりの子供達相手に、何をしようと考えたのか。あまりにも自分は未熟だと、アンジェリカは自省する。
「いえ、謝るのは私の方ね。ごめんなさい」
「い、いえ、そんな事!」
「痛くて……怖くて……辛かったでしょう? でも、もう大丈夫よ。痛いのも怖いのも、いなくなったの。だから……安心していいのよ」
アンジェリカは、子供達を抱き締め、柔らかに言った。
「うっく、うぁぁ、うぁあああ」
「うぅ、あぁぁ」
子供達は堰を切ったように泣き出した。
いくつもの大粒の涙が、少年少女の頬を伝い、アンジェリカの両肩へと落ちる。
親を失った子供達だ。目を覚ました後も、周りには頼れる大人はいなかった。きっと心細かったのだろう。
アンジェリカは幼き日々を思い出す。
親しい者の死。そして神器の担い手になったあの時の事を。
辛い日々だった。親の死を悲しむ間もなく、神器の担い手の責務を押し付られていた。残された者の為、ひいてはダークエルフの存続の為。聞こえてくるのは鼓舞させる声ばかりであった。アンジェリカもまた、期待に応える為に己の心を殺し、ダークエルフの為に研鑽を磨いた。
あの時、誰かの優しい声はあっただろうか。
あの御方のように、慈愛に満ちた微笑みをくれていただろうか。
アンジェリカは子供達に、幼き日の自分を重ねる。
泣く事が許されなかった少女。その幻影を一緒に抱き締める。
そして子供達に悟られる事無く、幻影と共に静かに頬を濡らした。
しばらく泣いた後、子供達の呼吸は、次第に落ち着いた。
アンジェリカは頃合いをみて、朗らかに語りかける。
「ねえ、チコ、ニーニャ。皆を探しに行きましょう。きっと皆も無事よ」
「はい!」
二人の子供の活気づいた声が、重なって返ってくる。
チコとニーニャからは、憂いを帯びた表情が消え去っていた。




