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先ほどまでの湿っぽく重たい不快な空気は感じられなかった。
神社の鳥居を潜った瞬間から結界内に足を踏み入れたようであった。
「さっきの奴はここには入ってこれないのか!?」
「そうみたいですね」
流星は自分を襲った声の主の恐怖が起こる原因を思い返したが何も心当りがなかった。
境内に入る前は、いつもどおりに自転車を必死で漕いで長い上り坂を登りきり、神社の鳥居前まで辿り着いた。
荒い呼吸を整えようとしたその時にあの恐怖の出来事が起きたのだった。
今はその恐怖から解放されたという安堵のためか、無意識のうちに溜め息が洩れた。
指先が自分の意思に反して小刻みに動き続けているのに流星は気づいた。
震える指先に意識を集中させているが、仔猫を掴んでいる指先の震えが止まらない。
「さっきのはいったい何だったんだ!?」
息を吐くように言葉が出た。
「あれは赤双眼の妖魔とは明らかに違いますね。流星は障りのある魔物たちに何かつけ狙われているんですかね?」
仔猫は前足で顔を撫でて毛繕いを始めた。
「俺じゃなくて……タケルお前がじゃないのか!?」
呆れたとしか言いようがない表情を浮かべながら、手の内に居座っている毛玉に向けて言った。
「そんなことあるわけないじゃないですか! ボクは可愛いだけがとりえの人畜無害なとるに足らない仔猫ですからね!」
タケルは短い四肢で流星の掌に立ち上がっると、真っ直ぐ流星の眼を見据えて威張ったように言い放った。
それを見て流星からは苦虫を噛み潰したような表情の苦笑いしか出なかった。
「……だろうな……」
「それってどういう意味ですか!?」
「だって、お前は神社の結界の中に入っても大丈夫なんだから。相当な小物なんだろう?」
「……」
それを言っちゃおしまいと言いたげな情けない顔をして、タケルはすねてしまいそっぽを向きながら鼻を鳴らしたのだった。
神社の境内は暖かな柔らかい空気が満ちていた。
参拝者の為に規則正しく配置された石畳の上を歩き進めて行くと御神木があった場所へ着いた。
「若木はまた少し成長したかな?」
流星はその場に膝をついてかかみ、御神木の切り株を覗き込んだ。
”かえして”と繰り返し言い続けてくる赤い双眼の妖魔の存在と”饕餮”だと流星のことを揶揄する声の主の存在が恐ろしくてたまらなかった。
他人の知識不足を見下したことがなかったとは断言することはできないと自分の心がそう叫んでいる。
テストの点数で成績の優劣がつくため、自分より点数が低い友人の答案用紙を見たら優越感が浸れた。
成績表の通信簿を友人と見せ合えばやはり優越感があった。
空手の試合では技を繰り出す技術の知識が相手より上回っていて試合に勝利すればやはり優越感に満たされた。
その優越感を得たいがために勉強に励み知識を欲した。
優越感に満たされたいがために空手の技術の知識を欲した。
勉強しても解らないことが許せなかった。
練習しても技を習得できないことが恐ろしかった。
恐怖から逃れるように知識を欲したのは確かだった。
それが”渇望”だと言われればそうかもしれない。
流星は自分が強欲で何でも貪る欲望に囚われた大食大欲の”饕餮”へと変化してしまうのではないかという恐怖が全身を駆け巡った。
物思いに耽っていると香木の白檀の香りが風に乗ってやって来た。
顔を上げると鳥居の前に以前見かけた少女が立っており、こちらへ視線を向けていた。