二十六、裏切り者のさえずり
照廈尉次も少し遅れて葬憶隊壊滅の報告を受けた。反音念育成計画案の練り直しを考えていた矢先のことである。
第一報の段階ではまだ詳細は掴めないが、彼の脳裏には二つの考えが閃いた。
一つはこの騒ぎに乗じて清川蛍を無期限で保護すること。甥が口を挟めない今なら反音念を事実上テルイエ技研の所有資産とすることも容易いだろう。
もちろん喉の損傷は祓念刀による物理戦闘には支障をきたさないし、葬憶隊としては二ツ星でも戦力を手放す道理はなかろうが、重要なのは権利の所在だ。元より彼女が未成年のうちに手を打つつもりではあった。
もう一つは『これは偶然か?』
性能試験が失敗に終わり、蛍はしばらく反音念としては動けなくなった。同じ日に実動部隊の過半数が活動不能に陥った。
ハナビにとってはこの上ない幸運の連続だが、後者が彼女の罠であった場合――状況から見てほぼ間違いない――恐らくいつでも仕掛けられたはずだ。前者も意図的に引き起こされたことで、葬憶隊襲撃はそれに合わせられたのではないか。
思案しながら秘書に指示を飛ばす。なるべく納琴近郊に留まりたいので、移動を伴う予定はリモートに切り替えるか可能なら日程を変更するように、と。
そこでふいに着信通知が入り、尉次はディスプレイ上の名前を見ただけで確信を深めた。
技研内は職員証と虹彩認識による情報管理が為されている。高職位者にのみ入室が許された最奥部の会議室は、もちろん高周波機器による録音盗聴妨害が施されており、機密性は極めて高い。
向かいに座した反音念プロジェクト主任の温井順企は、タブレット上に幾つかの資料を提示しながら述べた。
「改竄されていました」
「あぁ、なるほど」
「予測されていたんですか?」
「いや……葬憶隊の話は聞いただろう。偶然にしては出来すぎだから、このほうが腑に落ちる」
温井は頷いて詳細を説明する。
――対象は清川蛍に関する全てのデータ。反音念としての能力はもちろん、日々の食事内容、運動、睡眠、体調の変動などの生体情報も含まれる。
あらゆる数値は専用のシステムによって一括管理され、計画修正や試験内容の作成に用いられているのだが、それらの数値に何者かが手を入れた痕跡が見つかった。
つまり前提条件が正しく試算されていない状態で試験が設定されていたわけだ。そのうえで『敢えて少し難しく』したものだから、まずい結果になったのは当然と言える。
「外部から侵入された形跡はありません。内部犯です」
「一応聞くけど君じゃないね?」
「私ならもっと狡猾にやりますよ」
珍しく嫌味っぽく言って、温井は小さく溜め息をついた。
「所長の仰るとおり、葬憶隊の事件と無関係とは考えにくいでしょう。つまりハナビの手の者ががいる……技研か『反音念チーム』かはまだ分かりませんが」
「そうか。どのみちまだ葬憶隊に連絡がつくかどうかもわからないし、まずプロジェクト参加メンバーを洗ってくれ。報告は逐一頼むよ」
「はい」
「……ちなみに現段階で怪しいと思う人間はいるか?」
「いいえ。そもそもこういった事態を念頭に置いて選抜したメンバーですし……使われたのは偽造IDで、ある程度の知識があれば反音念チームの人間にも犯行は可能です」
――ただし彼らはこちらに常駐しませんので、技研のネットワークに接続できるタイミングが限られている。三人の中に犯人がいた場合、発信元を探知できずとも、改竄が行われた時間帯を割り出せば特定できるでしょう。
私が彼らを疑う理由はもう一つ、システム自体には手を加えられていないことです。そちらを操作したほうが、データ改竄より遥かに有効的で、かつ発覚しにくいにも関わらず。
恐らくできなかったのでしょう。単純に、プログラムを書き換える時間がなかったから――。
「私も同意見だ。技研側の内部犯ならまず外部からの攻撃を装って、IDも誰かのを拝借するだろう。でなければそもそも痕跡を残さないか」
「ええ。反音念チームに濡れ衣を着せるために敢えて杜撰にやった可能性もありますが」
「なんにしても特定を急いでくれ。いつハナビが動くかわからない」
「はい」
退室する温井を見送りながら、尉次はまだ考え続けていた。
犯人の所在がどちらにしても確実に言えることが一つだけある。
――そいつは人間だ。音念ではない。生きている本物のヒトで、相応のレベルの技術者だ。
どれほど高い知能を以て巧妙に擬態したとしても、蛍の近くをうろつけばすぐに彼女に感知される。それに技研にせよ支部の技術部にせよ、反音念プロジェクトに関わる職員はいずれも高度な専門知識を要するのだから、付け焼刃や演技で装えるものではない。
最初からこちら側にいた人間が心変わりしたのか、それとも内通者を知らずに引き入れてしまったか……いずれにせよハナビに『選ばれた』のは間違いないだろう。
彼女は生き延びる手段として『敵の一人を寝返らせた』のだ。何をどうやったかはわからないけれど。
『さよなら、パパ』
なぜかふいに、そんなフレーズを思い出した。十年前つぐみが死んだと思われる直後に聞いた言葉――あれはきっと、ハナビの産声だった。
つぐみは尉次をパパとは言わない。物心ついたころから「お父さん」と呼ばせていた。そうしてほしいと生前に留理子が言っていたから。
もしかしたらあの怪物はその時点ですでに知っていたのかもしれない。尉次が本当はつぐみの父親ではないことも、反音念を作るために、彼女に半ば無理強いした結果ハナビを生み出させたことも。
照廈尉次は人の親ではないが、化け物の親ではあるのだと。
尉次はおもむろにプライベート用の端末を取り出した。ドキュメントボックスから呼び出したのは古い実験記録ファイル――記載された被験者の名前は、留理子。
彼にとっては写真などよりずっと詳細な思い出に浸ることができるもの。数字を見るだけで、そのとき留理子がどんな顔で何を言ったのか、実験室の温度や匂いまですべて脳内で再生されるのだ。
(ねえ留理子。僕はもう一度、君の娘を殺さなきゃならないと思ってたけど)
父や兄がやたら愛人を作るのは、妻だけでは物足りないからだ。
尉次は違う。たった一人でも、この世の誰より尉次の好奇心を満たしてくれる人がいた。だから亡くしたあとも後妻を求める気などさらさらなかった。
他の被験者では意味がない。二人で始めた研究だから、留理子が示した数値しか使えない。
(考えを改めるよ。あれは僕らの娘だ。僕は今度こそ、自分の娘を殺すことになる。もう一人の僕らの娘を使ってね。
だからきっと君はものすごく怒るだろうけど、許してくれよ)
最後の一言だけはもしかすると口に出していたかもしれない。盗聴対策と防音設備に囲まれた部屋の中で、誰も聞いてなどいないけれど。
眼を閉じれば留理子の顔が浮かぶ。想像する。
きっと彼女はまた泣きそうな顔で、無理に微笑もうとして失敗したような形にくちびるを震わせて、こう言うだろう、と。
――尉次さんて本当、なんでも思い通りにしちゃうんだから。
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