二十三、ナンバー:『ブラッディ・レッドの肖像』
タケは眼を見開いた。しかし――最初にナギサもそうしたように、迷わずそいつの首を刎ねた。
流れるような剣戟の隙間に深い溜息を忍ばせながら、女傑はあくまで落ち着いて、その懐かしい姿を崩しにかかる。
「姉さ――」
――違う。これは弟でも、その音念でもない。
口の中でそう呟いて、脳裏に去来する残像を払うべく目の前の偽者を斬る。心に波紋ひとつ立てぬことを己に課して。
終波武の五つ下の弟、勇は十六歳で思念自殺をした。原因は父との諍いだった。
そもそも娘に厳しい名前を付けたのは、もし男児が授からなかった場合に、代わりに男として育てて浮木流剣術道場を継がせるためだったという。弟が生まれてその話は白紙になったが、タケ自身は剣を振るうのが性に合っていた。
一方、勇は父からの重すぎる期待に畏縮していた。何より彼自身は竹刀よりも絵筆を好んだ。
絵には詳しくないから、勇に画才があったかはわからない。ただ自室で彼が筆を滑らせるときの表情は、剣術道場で見るそれよりずっと明るく、活力に満ちていた。
母は父の言いなりで、弟自身も引っ込み思案で友人が少なかった。姉だけが彼の理解者であり、唯一の鑑賞者だったから、才能など計りようもない。
勇の絵は小品が多かった。身の回りの小物のデッサンや、近所の風景のスケッチ……柔らかな筆致と小ぢんまりした画面に、性格が表れているようだった。
『次は人物画に挑戦したいんだ。姉さんを描いてもいい?』
『モデルならもっと綺麗な人になさいよ。お隣のお嬢さんとか……それとも頼んだけど断られたのかしら』
『はは、実はそう。……でもさ、たまには姉さんもよその女の子たちみたいな洋服着て、化粧とかしてみたらどう』
『終波の家に女の子はいないのよ』
タケがそう言うと、勇は寂しそうに微笑んだ。
父は息子の画業が単なる趣味であるうちは目溢ししていたが、ある日「本格的に絵をやりたい。道場は継がない」と宣言されて、堪忍袋の緒が切れてしまった。部屋に乗り込んで作品や絵の道具をすべて木刀で叩き壊したのだ。
勇は怒り、しまいには涙さえ流して抗ったが、結果は激しい折檻である。
剣術師範の腕で加減もせずに滅多打ちにするものだから、タケが割り込んで止めるしかなかった。でないと弟は死んでしまう。
『ほら……姉さんのほうが、おれより強い。だったら道場だって姉さんかその旦那さんが継げばいいだろ。今日び跡目は息子じゃなきゃ嫌だとか、父さんは考えが古いんだよ……』
『お父さん、私からもお願いします。勇に無理強いするのはやめてください』
『女が口を挟むんじゃない!』
この一件で大怪我をした弟はしばらく寝込み、そして傷が治りきらないうちに姿を消した。
父は片意地を張ってしまい、タケが一人でほうぼう探し回ったが、見つけたときにはもう弟は息を引き取っていた。よくスケッチをしていた、幼いころ姉弟の遊び場だった竹林の奥で。
傍らには勇の顔をした怪物がいて、タケを『姉さん』と呼んだ。そいつは弟の血でタケの肖像画を描いていた。
……そこからどうやって帰ったのかは覚えていない。
息子の死を知った父は『おまえが男だったら』とだけ呟いた。母は泣いていた。
それから終波家には不幸が続いた。まず弟の自殺を理由にタケの縁談や見合い話は尽く破談にされ、道場からも門下生の足が遠退いていった。
勇の音念が目撃されるたび、大なり小なり被害を伴っていたので、その批判が向けられることも少なくない。まず母が心労で病み、続いて酒浸りになっていた父も体を壊した。
事件に始末をつけるため、タケは当時まだ数が少なかった音念研究者の旺前麒三郎や、彼の出資者であった照廈駒吉と接触した。
女性の剣道家が珍しいのか駒吉には妙に気に入られた。彼はすでに既婚者だったが、粉を掛けられたと思ったことも少なくない。
駒吉は開発中の音念駆除用の発振器を、タケのために軍刀型にする提案をした。出資者の意向には麒三郎も逆らわず、近接戦闘が前提になるなら必要だからと、防護服も仕立てた。
『私はね、旺前くん。私の美しい剣士の活躍が見たいんだ』
祓念刀は何度か作り直されてきたが、銘は初代から一貫して『蔵六』。
タケは初め、音念を弟の仇と思っていた。発声の機序を理解してからは、彼の無念がこの世に留まっているようでやりきれなかった。
だからこの手で間違いなく滅ぼしたのだ。
四十年以上経った今、勇の音念が戻ってくることなど絶対にありえない。
先に送り出した部隊が壊滅し、愛弟子のナギサさえ無残にやられたのも、恐らく似たような状況に陥ったせいだろう。これは罠だ。
心を静かにして、無心に斬る。清流をたゆたうが如く。
しかしいかにも悪夢らしく、もう何体斬り捨てたかしれないが、無限とばかりに蘇る。先日の『偽の新種』と同じように。
いったいどこにそれだけの材料がある、と言いたくなるが、思えば楽器を持つ音念など前代未聞だ。音念自身が新たな音を生み出せるなら、なるほど終わりなどあるはずもない。
この戦場の要は勇でもギタリストでもない。あのギターだ。
勇を無視してそちらを斬りたいが、今や複数に分裂した弟の幻は、悲しげに微笑みながら割り込んでくる。
「姉さん」血染めの肖像画を差し出してきたときもこんな表情だった。「無視しないでくれよ。父さんと違って、姉さんはちゃんとおれを見てくれたろ?」
「姉さん」
「こっちを見てよ」
「姉さん」
「姉さん」
やめてくれ。
「姉さんはおれにこう言ってほしいはずだ」
消えてくれ。
「……おれが死んだのは、姉さんのせいじゃないよ」
「おれが弱かったからだ」
「一人じゃ父さんに立ち向かえない。男のくせに、女の姉さんより弱い」
「だから姉さんはずっと強くあり続けなくちゃいけなかった。まさに父さんの理想どおりだ。……性別以外はね」
「つらかったろ? 本当なら結婚して誰かの奥さんや母親になってたはずなのに、おれの後始末でそれも叶わなかった。照廈駒吉なんかと関わったから」
「だから」
偽物たちはタケを取り囲み、笑顔を歪に歪めたまま、声を揃えて続けた。
『ごめんよ、姉さん。おれのせいで不幸にして』
「……違う……私は、そんな言葉は聞きたくない……」
嘘だね、と弟擬きが嗤う。――おれたちは姉さんの願望から生まれた、だから姉さんの思うことは全部わかるんだ。
哂う。微笑う。
さざなみ揺れる俤の群れが、老いた姉を取り囲む。
後戻りのできないタケの半生を、斬っても斬っても消えない紛い物の残像どもが、懐かしい笑顔で嘲っていた。
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