十九、ナンバー:『The black scratches』
数ヶ月後には中学生になる息子を、華奢な腕で驚くほど軽々と抱えたまま、母サユリは炎に包まれた廊下を難なく突っ切っていく。目的地は資料室から一番近くの非常口。
すでに消防車の赤色があたりを取り囲んでいる中、ワカシはそっと地面に下ろされた。
「子どもが出てきたぞ!」「社長の息子じゃないか!?」という野次馬たちの喧騒に、自分は助かったのだと安堵する。
けれどもすぐ違和感に気づいた。――なぜ誰も、母には言及しないのか。
はっと振り返った地獄の中に、まだその人は悲しい微笑みを浮かべて立ち尽くしている。陽の下に出るのを躊躇うように。
「……ごめんね」
それが最後に聞いた母の言葉。
サユリは、……彼女の顔をした人ならざるものは、役目を終えたと言わんばかりの満足げな微笑を湛えたまま、炎の中に溶け崩れていった。風に吹かれる砂山のごとく。
思わず手を伸ばしたワカシを、背後から消防隊員が抱える。大人の力に抗えるはずもなく、太い腕の中でもがきながら、少年は声の限りに泣き叫んだ。
――お母さん! お母さん! ……待って、お母さんが……まだ中にいるんです……!
入院中に葬憶隊員から音念について学び、あれがそうだったのだろうと理解した。
その多くは性質上、生み出した当人や、その周囲の人間を襲う。しかし例外も少なからずあるらしい。
つまり息子を案じる母の最期の祈りからだって、音念が生じることはあるのだ。
紛れもない母の愛に生かされた。深い感謝と思慕の念は、同時に惨状をもたらした遠因である父への怒りになった。
そもそも磯彦が裏切らなければ、サユリはもちろん逸見だって死なずに済んだのだ。ワカシの顔と身体が爛れることもなかった。
父は多忙を口実に、使用人たちを代理に寄越して自分では一度も見舞いに来なかったが、後から思えばそれが幸いだった。もしあのとき直接顔を合わせたら、きっとワカシは取り返しのつかないことをしただろうから。
絶え間ない身体の痛みに夜も眠れず、気の休まらない日々の中で、憎悪と憤怒は果てしなく膨れ上がった。生来極めて温厚な少年には到底持て余すほどの熱で、自身の心さえ焼け焦げてしまいそうだった。
激しい怨嗟の苦しみを理解してくれたのはたった一人だけ。
だから彼女の教えに従って、今の道を選んだ。
「捨てられない怒りは他でやり過ごすしかない。化け物なら斬っても罪には問われませんし、人を殺すよりは有益です」
「……あなたもそう?」
「あなたと同じか、……それ以上に」
……。
あれからずっと父への憎悪を音念駆除に昇華してきた。そうして十二年が経った今、照廈雀嗣はふたたび母の顔をした音念と相対している。
これは偽物、敵の罠だと己に言い聞かせても、腕が思うように動かない。
怪物ならいくらでも屠れる。でも、……母親を模したそれを即座にそう断じられるほど、ワカシの傷は浅くはなかった。
頬の上の火傷痕が疼く。
――音念は、ボクを守ってくれたのに。
*♪*
同じころ匡辰も、亡霊と呼ぶべき存在と対峙していた。
それは一人の男の姿をしている。ぼさぼさの黒髪に浅黒い肌、葬憶隊の暗色の制服を身に纏い、首元には朱赤の襟締め。
右頬にある古い切り傷も記憶にあるままだ。
「飯綱班長……」
「よう椿吹、久しぶりだな。萩森とは仲良くやってっか? つーかその恰好、そっか、おまえも班長やってんのか。そりゃいい!」
なんて悪趣味なことをする。
呻きたくなりながら祓念刀を構え直した。こんな、誰が見てもそうとわかるあからさまな偽物に、わずかにでも動揺してしまう自分自身こそが許せない。
けれども、同時にこうも思う。――完璧な罠だ、と。
匡辰を陥れるのに『彼』ほど適した手段はない。
もしこれが鳴虎の姿をしていたなら、むしろ迷わず斬るだろう。彼女の細かな仕草や表情の作り方といった身体的な特徴や、言い回しや声のトーンなどに表れる精神性を、誰より熟知している自負があるからだ。
それに本物の鳴虎とは今でも毎日のように顔を合わせているのだから、まず違和感のほうが勝る。何より……彼女を穢されることが我慢ならない。
けれど、彼は。
「――なあ椿吹、俺が死んで何年経った?」
その声には悪意が滾っている。
*♪*
混乱は瞬く間に全体にまで広がった。他の中級音念も次々に増長しながら変形し、各々が見知った誰かを模して立ち現れる。
死者ばかりではなく存命の身内や、中には人でないものも含まれていた。
たとえばモモスケの前に居るのは段ボール箱に入った痩せた仔猫。それがどういう意味を持つ存在なのかは、思わずといった風情で口から洩れた「なんで」という科白と、彼自身の表情が物語っている。
エッサイの前にいるのは彼と似た面影の中年の女で、恐らく母親だろう。
邪悪な虚構たちは明らかに統一された意図を以て作り上げられていた。それぞれ何らかの感情――それも恐らくほとんどは内心に残された古い爪痕――を強く惹起させる存在と対峙させ、戦意を奪おうとしている。
コハルの前方には三十代後半くらいと思われる男性が佇んでいた。彼女はその顔にまったく見覚えがなかったが、音念もコハルを無視してどこかへと歩き出す。
「ちょっと!」思わず声を掛けてしまい、しまったと口を閉じ直したところではっと気づいた。
ショータが固まっている。そして男もまた、彼の前で立ち止まった。
「おい、面倒は起こすなと言っただろ。俺は忙しいんだ……」
少年は怯えた表情で男を見上げる。そしてにわかに肩を震わせて、何ごとかを叫びながら、しゃにむに祓念刀を振りかぶった。
しかし斬撃は弱弱しく、幻影はわずかに霞んだだけ。
「やっぱガキなんか生ませるんじゃなかったな。でなきゃとっとと捨てりゃあよかったんだ」
「ッ……クソ親父!」
「――本当、あんな男の子どもなんて産むんじゃなかった。あんたがいなきゃ、もっとお金も貯まるし、離婚だってできるのに」
ショータの叫びを嘲るように、音念は瞬時に形状を変えてみせる。今度はコハルにも見覚えのある、彼の母親の疲れ切った表情には、本物のそれより濃い影が落ちているようだった。
その姿と残酷な放言に思わず身体を強張らせた少年を、闇色の凶手は情け容赦なく叩き飛ばした。
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