十八、ナンバー:『業火の追憶』
迸るソロギターを伴奏に、大小問わずその場の音念たち総てが、風船のごとく膨れ上がった。
いくら斬っても即座にもとに戻る。霊体破壊を伴わない三ツ星以下の攻撃は痕さえ残らず、焼け石に水の様相を呈した。
ワカシは中級音念の群れを切り抜けて騒念に肉薄する。
そして白刃を振りかぶった瞬間、気づいた。
エレキギターは完全に男の身体から独立している。つまりこの騒念の一部ではないということだ。
彼ら自身の身体は不安定な微粒子の集合体でしかないため、本物の道具は扱う以前に持ち上げることすら困難だという。だがもちろん感情のない非生物が音念を生ずることはない。
ならばこの、ギターの形をした幻影は一体なんだ?
ワカシの疑念をよそに、騒念は祓念刀を恐れる素振りもなく淡々と告げた。
「――セットリスト一曲目。『業火の追憶』」
「……!?」
ギターから哀愁漂うメロディが流れる。途端、それに繋がれた中級……もとい、もはや上級音念の位に到達した個体が目前に割り込んできた。
むろん単にそれだけなら驚くに値しない。ワカシが思わず怯んだのは――そう、彼はその音念を眼にした瞬間ひゅっと喉を鳴らした――擬人型に形態変化したそいつが、にわかに燃え上がったからだ。
目が合った。
それは微笑んでいた。懐かしい人の顔が、踊り狂う橙色の炎に嬲られながらそこにいた。
その光景は否応なしにワカシの記憶に直結する。忘れたくても忘れられない、忘れるはずもない、十二年前の地獄の一日のことを。
薔薇色の口紅を載せたくちびるが、柔らかく動いた。本物の人間みたいになめらかに。
「――ワカシ」
「ぁッ……、な……」
まともに喋れもしなかった。ただ嘆息めいた音だけが喉から滑り落ちて、ぜいぜいという虚しい木枯らしに変わるだけ。
目の前にいるはずのない人が居る。もちろん本人ではない、何らかの手段で作り出された偽物に決まっている。
わかっていても、知らず、刃を持つ手は震えていた。
なぜならこの顔は。この声は。何もかもが記憶にあるとおりの、
「お母さん……」
思わず呟いた声は、まやかしの炎の中に溶けていった。
*♪*
役員を務めていた母は忙しい人だった。息子を会社に連れてきても、しばしば社長室や会議室などで勉強しているように言って、自分は会議や打ち合わせに行ってしまう。
ワカシも待つのに慣れてしまって文句ひとつ言わない、大人しくて真面目な子どもだった。
彼女の秘書・逸見啄実はそんな彼を気遣って、飲みものやおやつを出したり、話し相手になってくれた。だから決して印象の悪い人ではなかったのだ。
運命のあの日もテルイエの研究所の資料室で母を待っていた。そこには研究開発に関する標本や書籍などが置いてあって、どれも小学生には難しい内容だったが、他に暇を潰せるものもない。
そうしていたら逸見が来て、いつものように雑談をした。
すると彼女が急にワカシの手を取って、こんなことを言い出したのだ。
「私のお腹に、あなたの弟か妹がいるのよ」
異様に真剣な眼と強張った笑顔が怖かったし、何を言っているのか理解できなかった。
もっと分別のつかない幼児だったなら喜んだのかもしれない。だが哀しいかなワカシは聡く、小学六年生ともなれば最低限の性教育は学校で習っている。
あくまで生物学的な機序の理解のみとはいえ、彼女の言葉に大いなる社会的問題があることだけは、充分に察することができたのだ。
「いつも放ったらかしのお母さんと違って、私はあなたと遊んであげてるよね。私のこと嫌いじゃないでしょ?」
「え、あの……」
「ねえワカシくん、もし私が新しいお母さんになるって言ったら、どう思う? 嬉しい?」
「――何をしてるの」
返答に窮していたら母の清百合が帰ってきた。
彼女は息子と秘書のようすが尋常ならざることにすぐ気づき、即座に二人を引き剥がすと、ワカシに部屋の外に出ているように言った。
そう、彼女は夫の不貞をとうの昔に知っていたのだ。
ドアを閉めた瞬間から、二人の言い争いが始まった。
『いい加減別れてくれない? 何も退職しろとは言わないから』
『しつこい上に最低の女ね、息子まで巻き込むなんて。信じられない。妊娠だって本当なんだか』
そんなやりとりが続き、次第に二人の声が荒々しくなっていく。
ワカシは罵声を聞きながらドアの近くで立ち竦んでいた。なぜなら『了承なく目の届かない場所へ行ってはならない』と躾けられていたから。
泣きそうになるのを何度堪えたろう、悲しくて最悪な時間は、とうとう地獄に取って代わられた。
どちらともしれない金切声に、物を落としたり壊す音が続いた。部屋の中で異常なことが起きているのは明らかで、怖くて思わずドアから離れた直後、――最初の爆発が起きたのだ。
資料室の標本には燃えやすい薬品や化学物質も使われていたらしい。そして後の科学捜査により、喫煙者でもあった逸見が持っていたライターが発火源となって、室内の可燃物に燃え移ったことが明らかになっている。
つまり思念自殺が先で、火災は偶発的に起きた事故だ。
ワカシは吹き飛ばされたドアの下敷きになった。その後も小規模な爆発が続いたので、結果的に戸板は爆風や煙から少年を守る盾の役目を果たしたが、同時に脚を挫いて脱出手段を奪いもした。
腕の力だけでなんとか這い出したときにはもう廊下まで燃え広がり、建物全体が惨劇に呑み込まれつつあった。
「うわぁあぁッ……!」
ぱくりと開いた資料室の戸口は、赤紫色の火炎が長方形に切り出されて、額縁に収められた絵画のようだった。中は廊下など比にならないほどの火の海だ。
そこから降りかかる化学物質混じりの火の粉に肌を焼かれ、耳をつんざく非常ベルの絶叫を浴びながら、ワカシは床の上に転がったままもだえ苦しんだ。
視界は煙に埋め尽くされて、息もできない……。
「ワカシ!」
絶望と苦痛に意識を失いかけた直後、急に誰かに抱き上げられて、気づけば目の前に母の顔があった。
「おか……さ……」
「早くここを出ましょう」
サユリは見たところ無事だった。荒れ狂う炎の中にあって、火傷はおろか顔や服に少しの煤すらついていない。
それがどれほど異常かを考える余裕などなかったワカシは、ただ安堵して母の腕に縋りついた。
→