十六、紛い物のシンフォニー①
蛍は今日も技研にいたが、少しいつもと状況が違った。訓練室ではなく機械室側で待機している。
隣には反音念チームが四人とも、さらには照廈尉次までもが揃っており、他のエンジニアたちも含めて表情が険しい。
といっても何か不味いことが起きたわけではなかった。もしあるとしたら今からの話だ。
今、硝子の向こうには音念の姿がある。ぐにゃぐにゃにとろけた外見の、中級程度であろう擬人型が一体で、取り巻きはシルエットもはっきりしない低級の散開型が四体ほど。
規模はあくまでこの瞬間の推定値で、いずれも現在進行形で成長を続けている。
訓練室内には音念生成用に組み上げられた音が満ちていた。音楽と呼ぶにはテンポも節もめちゃくちゃで、聞いていてかなり不愉快だ。
蛍の訓練の進捗度は逐一記録されているが、それはあくまで発声の大きさや肺活量などが主で、実際の戦闘における効果を必ずしも保証しない。よって実戦形式の試験を行うことになった。
目の前のこれらはいわば『試験問題』というわけだ。だから今日はボイストレーナーは来ていない。
(……)
音念の用意が終わるまで暇なので、蛍はたびたび周囲を伺っていた。
釜寺さんはもちろん、珍しく御手洗さんも真面目な顔。温井さんは忙しく部下たちと尉次の間を行ったり来たりしているが、内心は蛍をよく思ってないらしいから、今の心境もいかほどのものか。
蛯沢さんだけは心配そうにこっちをちらちら見ている。医者としては蛍の、いや、つぐみの身体への負担が気にかかるのだろう。
「冷却始めます」
すでに硝子の向こうは闇で満たされていた。音念のひとつひとつの大きさなど、もはや眼で見てもわからない。
すぐ傍のモニターには訓練室内の気温が急激に下がっていくのが表示されていた。最終的には氷点下に到達するそうだが、またすぐ温められるので上着の用意はない。
「蛍さん、準備はいいかな?」
「……」
「イヤホンと緊急停止ボタンを渡します。押せば機械室が通知を受けて訓練室内を再冷却しますが、音念の完全停止には数分程度要しますので、余裕を持って行動してください」
「まあでもあんまり怖がらなくていい。うちは低減スピーカーと併用だから、葬憶隊の同じ設備よりも安全性は上だよ」
尉次が言うといささか説得力に欠ける。十年前にそうした奢りで娘……いや姪を死なせているのに。
などと詰っても仕方がないし不可能なので、蛍はにこりともせずに頷いて、訓練室に続く扉に向かった。ドアノブがはっとするほど冷たい。
背後の全員の緊張を感じながら戸を開くと、痛いくらいの冷気が吹き込んできた。
誰かが「寒い」と言いかけて声を押し殺す。冷やして動けなくしているとはいえ、訓練室に充満した人工音念が、わずかな音に反応しないとも限らない。
出る直前に見ていたモニターの表示によれば、中にいるのは超級音念の群れだ。この場の全員を容易く皆殺しにできる規模。
自分一人だけ入り、ドアを閉める。
ふうと吐いた息が真っ白に凍てついた。寒い。
訓練室側は電灯を点けておらず、唯一の光源である機械室と隔てられた硝子の窓は、今は音念に塞がれてほとんど見えない。自然の暗さに人工物の闇が溶け混じって、水墨画のようなダークグレーのまだら模様を描いている。
曖昧な人型も見える。冷凍されて変な恰好で固まっているそれが、視線だけぐるりと回して、闖入者たる蛍を見る。
マネキンのような、まったく感情のない顔だった。
『じゃ、解凍しますよ。ガンバレ』
イヤホンの中で御手洗さんが呟いた。
部屋の端から温かい空気が流れ込む。一気にすべて溶け出さないように少しずつ。
蛍は白い息を吐きながら、どれが最初に動き始めるのか注視する。一応腰に祓念刀も提げていたから、癖半分、気持ち半分で腐草の柄に触れた。
今日は使わないけれど、ずっと一緒に戦ってきた相棒は蛍に勇気をくれる。
やがて左端の一体が、蛇の鎌首のようにゆらりと頭をもたげた。じゃりじゃりという砂を削るような耳障りな音が、ボリュームタブを捻るように、加速度的に大きくなっていく。
「――ッ!」
炭を練り固めたような凶手が伸ばされた。蛍は飛び退いてそれを避け、お返しとばかりに一声を投ずる。
音念の体表が散り散りに砕けてゆき、長く叫び続けることで、崩壊は芯にまで到達した。隣の個体も余波を食らって半壊し、ぶるぶる震えて何やらワアワア叫び出す。
つられて別の音念も騒ぎ出し、訓練室内は一気に怪物オーケストラの大演奏会と化した。
『ィヤアアァ! ァァァアアア!! アー!!!』
『うぇあああ゙うぅうぉお゙ぅぁぁあぃいぃ゙え』
『魑エ縺九陋阪谿矩涸繧呈カ医――』
いかにも人工物らしい無意味な音の羅列。声の調子もバラバラで、性別も年齢もぐちゃぐちゃに混ざって聞こえる。
チューニングのズレたラジオのうめきか、アナログテレビの砂嵐のような雑音に包まれたそれが、部屋中にこだました。
制服を着ていても音圧に骨が軋む。密閉空間だから反響が耳に痛い――壁材の吸消音機能が追いついていない。
頭がガンガンして気づけば鼻血が垂れていたが、蛍はかまわず叫び続けた。
非常ボタンを押す気はない。それより頭数を減らせば楽になる。
ならば、攻撃あるのみ。
「っ……! ッ、……」
息継ぎした隙に反撃を受け、殴り飛ばされて床を転がった。壁にぶつかった瞬間はさすがにクラクラしたものの、――そのままでいては殺される、と脳が判断するより先に身体が跳ね起きる。
不思議なほど怖さはない。脳内物質を滝のように浴びて、すでに理性は酩酊の彼方にある。
――私はハナビを倒すんだ。こんな紛い物に手こずってる暇なんか、ない。
『……うわ。やっぱ設定キツすぎじゃ……』
耳の奥で御手洗さんがぶつぶつ言っている。それで自分の口から血が垂れているのにやっと気づいたが、かまわず息を吸った。
喉が痛いかどうかすら、もはや考えてもいない。
「――――――――! ッふ、……!」
攻声とともに血飛沫を噴いた。
イヤホンの向こうで複数の悲鳴が上がる。何人かが中止という言葉を口にしたので、蛍はぎょっとしてガラス窓を睨んだけれど、
『……』
蛯沢さんが沈んだ表情で首を振っていた。
私はまだ戦えるのに!
……などと思っても誰にも届かず、急速に室内の温度が下がり始め、同時に怪物たちのそれとは異なる変な音が響く。音念低減スピーカーが作動したらしい。
中途半端な試験終了に、思わず肩を落とした、その瞬間。
「ッ!?」
――まだら模様の凶手が、蛍を叩き飛ばした。
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