十五、憂愁メヌエット③
カン!――木刀のうなりが思考を妨げる。
いきなり鳴虎が攻めかかってきたので、時雨はなすすべなく防戦に回った。何しろ彼女の攻撃は速くて間隔も短く、気を抜いたら痛い目に遭うこともすでに身体が知っているので、必死に刀を返して防ぐしかない。
背後になど構ってはいられなくなった。妙な話だ、どう考えたって音念にすり潰されて殺されるほうが、鳴虎に打たれるよりずっと痛くて苦しいだろうに。
いつの間にか、祓念刀を取りに行くことを忘れていた。それに気づくのにさえ少なからぬ時間がかかった。
音念が怖い、殺されたくない、死ぬのは――……経験のないそれよりも、見知った痛みのほうが先んじて脳に訴えてくるのか。それとももっと単純に、己の度量が狭いだけか。
ともかく冷静になるにつれ、一つの考えが波紋のように胸裏に広がっていく。
鳴虎のことは信じられる。彼女が自分を危険に晒すはずはない。
「っ……ぉお!」
絞り出した掛け声に威勢を任せ、しゃにむに食らいつき、力づくで攻撃を押し返す。鳴虎が少し驚いた顔をして、それからふっと微笑んだ。
「はッ――」
呼吸を細く。身体じゅうの感覚を鋭敏にして、指先までの神経総てを意識して、我がものとするために。
時雨を支配しようとするくだらない恐怖を、全身から追い払うために。
正直に言えば確かに三ツ星が欲しかった。いや、蛍のことを考えれば三ツなんかじゃ到底足りないが、このさい数はさほど問題じゃない。
証だ。己も少しは成長したのだという承認があれば、少しは胸を張れる気がする。
そうでないと、きっと次に蛍に会ったとき、恰好悪くて前なんか向けやしない。
ハナビを倒すという宣言どおり、蛍は時雨の元から飛び出してしまった。
このままだと彼女は一人で戦ってしまう。共闘できるとしたら特務隊くらいで、少なくとも時雨ごときはお呼びじゃない。
(それでも……)
みっともないとわかっていても、心で叫ばずにはいられない。
(……なんでオレはこんな弱ぇんだ。なんでもいいから、オレにも力があればいいのに)
――清川を人間扱いしてやれ。
優しい教官の言葉がじわじわと殴りかかってくる。無茶を言う、あんな数字を見たあとで。
時雨だって接し方を変えたくなんかない。何もかも、ハナビが現れる前のままでいられたらどんなにいいか、蛍だってきっと同じことを思っているだろう。
『あんなやつ、わたしがころしてやる』
……そんな言葉が似合う娘じゃなかったのに。
『ひどいんだよ、まず私は人間じゃなくて、反音念っていう……。
この身体はつぐみの死体……』
夜中に送られてきた衝撃的な告白。
そのあと、朝になってから取り繕うような文章を送ってきたから、送信を取り消したつもりなのだろう。しかしアプリの仕様上、既読のチャットログは時雨の側には残っている。
死体と聞いて思い浮かぶ光景は二つ。
一つは両親。といっても時雨はもちろん現場には直接入れてもらえず、覚えているのは扉や駆け込んでいく葬憶隊員たち越しに見た床の血飛沫と、シートで覆われた塊だけ。
そしてもう一つは、他ならぬ蛍のことだ。
忘れもしない十年前、あてどなく河川敷を彷徨っていたときに、偶然見つけた女の子。
橋の下の草陰に引っ掛かっていたから、単に川べりの道を歩いているだけだったら気付かなかったろう。そのとき時雨は柵を乗り越えて、本来なら立ち入り禁止の、川面ぎりぎりを歩いていたのだから。
最初は死んでいるのだと思った。ぴくりとも動かなかったし、濡れた髪や服がべったり身体に張り付いていたので。
恐るおそる近づいて、そっと手で触れると、彼女の身体は冷え切っていた。けれども奇妙なことに、周りの空気はかすかに温かく――今思えば残留奏だろう――、そしてほんの一瞬だけ眼を開けたのだ。
そのとき唇もわずかに動いていたが、何と言っていたかはわからない。ただ時雨は半色の瞳を見て、その子がまだ生きていることだけは、はっきりと理解した。
どうやって子どもの力で彼女を担ぎ上げたのかは覚えていない。それくらい無我夢中だった。
背負ってすぐはまだ向こうにも意識があって、弱々しい腕が縋りついてきた感触だけは、今でも思い出せる。
あの日からずっと、それが時雨をこの世に繋いできた。死にかけている女の子を此岸に引き留めるために、自分自身もその場に踏み止まらなければいけなかったのだ。
だから自分への『死にたくない』と、蛍への『死なせたくない』がぐちゃぐちゃに混じって、線引きが曖昧になっている。
いっそ区別なんてしなくていいとすら思っていた。同じことだから。
蛍の生存が時雨を生かしている。時雨の生命は蛍の命だ。
彼女が何者であるかなんて、関係ない。
だから、だからせめて。蛍を止められないのなら、どうしても彼女が戦うというのなら、自分も一緒に征きたいのだ。
「……おぉぉおおおッ!!」
「――え!? ちょっ、待――っちッ」
そのとき何が起きたのか、一瞬よくわからなかった。ただ鳴虎がひどく驚いた顔をしたあと、突然時雨の攻撃を受け止めるのを止めて、すごい勢いでうしろに飛びのいたのだ。
当然来るものと思っていた抵抗がないのに時雨も仰天して、慣性の法則に倣いながらつんのめった。あわや顔面から無様に転びそうになった、はずなのに、なぜかあるはずの痛みはなくて、瞬きを数度繰り返したのちも時雨はちゃんと二本の脚で立っていた。
呆然として見下ろした己の身体は、……黒いものに包まれている。
「あ……?」
「時雨! じっとしてなさい、今斬る……」
「待て待て待ってめー姉、なんか違う、これ、……なんだ……?」
祓念刀を掴んで飛んできた班長を制し、壁際に設置された大鏡を見る。ぽかんとした間抜け面の自分と目が合った。
そこに映し出された虚像の己には頭しかない……かのように見える。
首から下は完全に音念に呑まれていた。なのにあるはずの苦痛を感じない。
呆然としている時雨を、鳴虎は不安を湛えた眼でじっと見つめている。手にした祓念刀を抜きかけたまま。
そのとき彼女のポケットの中の端末が、鋭く鳴り響いた。
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