十三、慰みのエチュード③ / 憂愁メヌエット①
蛯沢は、精神科領域においては数値が総てではないと認識している。
数が嘘を吐くということではない。機械では読み取りきれない部分、言うなれば不可視のパラメータがあるという感覚だ。
人の心をホルモンの分泌量だけで測ることはできない。ともすれば音念とは、その証明に等しい。
「正直言って、ハナビを倒せなくてもいいんじゃないかと思うんだよね」
「……え?」
「あ、いや、彼女がって意味だよ、もちろん」
怪訝そうな釜寺の表情に、慌てて補足する。誤解させては面倒だ。
自分も葬憶隊に所属する身であるからには、さすがに音念を野放しにしていいと考えているつもりはない。
ただ蛯沢も人の子だ。個人としての信念は、組織の理念とは必ずしも一致しない。
「……訓練の仕方もどうかな。一人だけガラスの向こうに隔離されてて、こう言っちゃなんだけど、まるで実験動物の扱いというか……」
「あぁ、たしかに……照廈氏の思惑かもしれませんね、それは。誰も彼女の名前さえ呼んではいけないですし」
「そうそう。ここの環境は少し酷だ。実際、彼女は精神的に追い詰められつつある」
すっかり日脚の早くなった空は、すでに深い紺色に染まりつつある。田舎町にはいささか不釣り合いな、近未来的な曲線を持つデザインの外灯が等間隔に照らしてはいるが、あたりは暮れなずんで重苦しい。
隣を歩く同僚の表情もよく見えなかった。
「そういや釜寺くんって、なんで葬憶隊に入ったの?」
「唐突ですね」
「ああごめん、僕はさ、変な話だけど、音念それ自体を悪いものとは思ってないんだよね。
あれは人の心の一部というか、新しい精神疾患の形態だと考えてるから。で、それを研究しようと思ったら、一番多くの症例を扱えるのは葬憶隊だったわけ」
釜寺は頷き「自分もそんな感じです。畑は違いますけどね。でも、なんで今その話を?」と聞き返してきた。
「患者さん……いや、清川さんを見てると思うんだよ、歪だなって」
音念を倒すためだけに生み出された命。それだけでも道徳と生命倫理を一笑に付す、人の道を外れたおぞましい行為だと言える。
彼女を作ろうとしなければハナビも存在し得なかった。両者は表裏一体の存在だ。
そして蛍には人間的な自我がある。反音念としての存在理由を考えれば不必要とも思える感覚――自律的に思考し、快不快を感じ分けて、周囲との情緒的な繋がりを求め、時には悩み苦しむ心が。
同じことは、共に生まれたハナビにも言えるのではないか。
問えば釜寺も首肯した。その可能性は高いですね、と。
「遭遇時の報告でも高い知能があるとのことですし、僕が解析した範囲内でも、彼女の残留奏には相当な複雑性が見とめられます。なんなら素人でも他の個体のものと区別できるぐらいですよ」
「それは騒念だからではなく?」
「過去の事例が少ないのでなんとも。ただ、ハナビは明らかに特別な音念です……あれほど多数の音を保有しながら、まるで名指揮者に率いられたオーケストラのように、完璧に調和している。
正直言って、解析対象としてはこれ以上ないほど興味深いですね」
釜寺はふと足を止めて、
「――でもエビさん、こんな話、他の連中に聞かれたら噴飯物ですよ」
「はは、だろうね。まぁオフレコってことで。
しかし、みんなそれが仕事とはいえ、倒すことばっかり考えてるのは気がかりだなぁ……」
ハナビが発声源であるつぐみを死に至らしめたのは、彼女が蛍を生んだから。その後の十年間は、少なくとも記録の上では、何の事件にも関わっていない。
彼女は永らく沈黙していた。ここ数ヶ月で一気に凶悪化したのは、あくまで葬憶隊と蛍に抵抗するため。
とすると、怪物を真に災害たらしめているのは、人間ということにならないか。
*♪*
あくる日の昼下がり、警報が鳴った。端末を見た萩森鳴虎は「……また城下公園?」と怪訝な声を上げた。
折しも葬憶隊中部支部・実働部隊は班長会議中で、出席していた椿吹匡辰と照廈ワカシも、なんとはなしに顔を見合わせる。
最年少の向かいに坐していた最年長の総隊長・終波タケもまた、思案げに眼を眇めて端末を見る。
誰もが漠然と不審に思った。一度討伐を行ったばかりの場所で、大して日を置かずに二度目の通報なんて、平常時でもあまり考えられない。
「誰が出る? 中級音念五体の報が正しいなら特務隊ではないね」
「あ、じゃあボク行きます。前回は照廈班以外でしたし」
「新人揃いのあんたたちだけじゃ荷が重いでしょ、数が多いし。補助するわ」
「いや、人数を考えたらまずこちらが出るべきだろう」
「よろしい、まず照廈と椿吹が行きなさい。念のため追って沼主を合流させる。萩森班は待機」
男性陣は一礼して慌ただしく出ていく。
ナギサに連絡しているタケに代わり、鳴虎は端末を操作して管理アプリの出動状況を入力した。椿吹班・照廈班の面々を出動中に変更し、萩森班は自分と時雨を支部待機にスライドさせておく。
一人だけ『出張中』の表示になっている蛍の欄を見て、こっそり小さく溜息を吐いた。
同時刻、沼主ナギサは市内の提携道場にいた。
平日の昼間とはいえ生徒の数は少なくない。短縮授業を終えた学生や、シフトの自由が利く社会人など、ここには老若男女が集っているのだ。
暗い世の中に抗うかのように、盛んに威勢のいい声が上がる。竹刀が振るわれるたびに汗が宙に散っては、照明の光を受けてキラキラと輝くのを、ナギサはぼんやりと眺めていた。
穏やかな時間はしかし、鋭いコール音に切り裂かれる。
「……了解。すぐ向かいます」
他の指導員――葬憶隊所属ではない民間人――にあとを任せ、ナギサは祓念刀を手にその場を離れた。背に追いかけてくるようなざわめきを浴びながら。
明るく賑やかな道場内から、静まり返った薄暗い廊下に出るたび、彼女は秘かに息を落ち着かせている。
『あんたに向いた仕事だよ』と、かつて恩師に言われてこの道に来た。たしかに化け物を殺すという点に関しては間違っていない。
だが、未来ある子どもたちに技術を伝えることは、それと全く異なる。
この憂慮に関して詳細をぐだぐだと語る必要はないだろう。なぜなら沼主ナギサという女は今、光を離れて闇に向かうその道すがら、白い頬にたおやかな微笑みを浮かべているのだから。
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