春の目覚め 5
「あっ……ちょっと、リッテリット、そんなにしたら痛い。もっと優しくして」
またもうつ伏せのまま、私は背後のリッテリットを振り返って非難の声をあげる。責められたリッテリットは申し訳なさそうに長いまつ毛をすがめ、私の要求を受けいれた。
「すみません、姫様。これでは? 痛くありませんか?」
「んっ……ひゃっ……痛くはないけど、こちょぐったっ……いひっ!」
うぶげを撫でるような優しい手つきは、先ほどのようにずきずきとした痛みを誘発させることはなくなったが、しかし粘っこくも感じられて、私は曰く形容し難い怖気が背骨を走っているような感覚を覚えた。体験したわけではないので正確かどうかはわからないが、こんないやらしい不快感は痴漢の被害に相当するのではないかと思う。おそるおそる、何かにさわることへの忌避があるような触り方というのが類似点だ。
「あと少しの辛抱でございますよ、姫様。どうかこらえてくださいませ」
もっとも、これは私がリッテリットに頼んだのであって、リッテリットは私の命令に忠実に応えているだけのこと。それを私が咎めるのではまったく筋が通らない。
今の私は、自ら望んで、リッテリットにお尻をさらけ出しているのである。きっと今の私は、羞恥と痛みと痒みへの嫌悪でぐちゃぐちゃの婀娜やかな顔をしていることだろう。
「うん、我慢っ……するからっ……いっきにやってぇ」
あえぎながら絞り出した声もなまめかしく、聞くものによれば艶事のようにも聞こえるかもしれないが。なんということはない、ただの怪我の手当てである。無残にも赤黒くはれ上がった私のお尻は、ところどころ皮膚が裂けてしまっているので、そのままにしておくわけにもいかなかった。結局、なめていれば治るという時代であるが、さすがに王侯貴族であれば、些細な傷の手当てに薬草を練った軟膏ぐらいは使えるものだ。とはいえ、まずはぬるま湯で洗って清潔な布で拭って、なんていうどこぞの衛生観念でものを言う私は、リッテリットに言わせれば神経質な潔癖らしく、この感覚はなかなか理解してもらえない。
「はい、姫さま。これでよろしゅうございますよ」
軟膏を塗り終え、綿布で傷口をおおってしまうと、リッテリットはベッドから降り、私の枕元へと移動した。そして、膏薬が髪につかないように、私の頭を手の甲でなでてくれる。
「ありがと、リッテリット」
「いいえ、姫様。本当に申し訳ありません。その、つい熱くなってしまって……」
「……その言葉。ついカッとなって首ちょんぱしちゃった人が言うとシャレになんないから」
「今は深く反省しております」
ただでさえあまり頑丈でない私のこと、リッテリットの暴走を止めるのは一苦労なのだ。余人の目のある出先ならばともかく、私の城たる青女宮でやられては逃げるあてもない。せめて一人でもリッテリットを抑止できる人材が味方についてくれればいいが、なかなかそう上手くは見つからないものだ。王太子になって以来はすり寄る家も増えたし、特に宮廷貴族連には露骨に取り入ろうとする輩も少なくないが、権勢で転ぶようでは身辺に侍らせるには不安が残る。さりとて、私を忌避していたような日和見ではものの役に立たない。私が気に入らない性質のものでは論外だし、その上王太子つきとしてリッテリットに対抗するにはよほどの家格出なければ務まるまい。
アークレーネの家は私と距離を置いているが、それはリッテリットが実家と疎遠であることを当然には意味しない。むしろリッテリットの父、アークレーネ卿も歳の離れた兄も、成人前からドラ王女にたった一人付き従っていたリッテリットを溺愛しているとの噂だ。ただ、逆にリッテリットの方は本家を割と敬遠しているようで、手紙は書いても滅多に里帰りもしないし、夜会などにリッテリット・アークレーネとして出席しているのを見た記憶もない。リッテリットはそういう席では大抵私の後ろに静かに控えていて、だからというわけなのか、10代最後の今年になってもまるで男の影ひとつないようだった。もちろんリッテリットが寿退職して一番困るのはつまり私なので、それは歓迎すべきことなのだが、将来が心配なのも事実だ。もっとも、雪華北嶺での女の適齢期が10代後半といっても、こと貴族階級においては、20歳を過ぎたらいき遅れというわけでもないのだが。
「猛省なさいな。そんなんじゃ男は逃げちゃうでしょ?」
「心配は無用にございます、姫様。殿方に逃げられたことなど一度もありませんもの。リッテリットの自慢のひとつですわ」
「えー……」
リッテリットはそこそこ立派な胸をはって、妙な自信を披露してくれた。後ろめたさなど微塵も感じさせない様子に、逃げられる以前に近寄られてないだけだ、という事実を提示する勇気はすっかり雲散霧消してしまった。リッテリットが結婚を幸せと思わないなら、それはそれで私が口出しするようなことでもない。もとより私自身、自分がどこぞの貴族を王配として迎えることに何ら期待を抱けていないのだし。
「それよりも姫様です。姫様には好い人はいらっしゃらないのですか?」
「私? 私は……」
そもそも考えたこともないし、だいたい同じ年頃の男の子とは遊ぶどころかろくに話した覚えすらない。おっかない姉やを引き連れてでは、十にもならない男児と打ち解けるのは難しいだろうし、それ以前に話を合わせるのも億劫だ。女子には男子がガキにみえる、なんてよく聞く話ではあるけれど、私の場合はそもそもそういうレベルの問題ではない。
「ま、好き嫌いで相手が決められるわけじゃないものね」
「いらっしゃらない、と」
「これまでは弟の相手で手一杯だったし。今は、そうね。雪見のおのぼりさんに心奪われているの。確か、青馬の皇子様もいらっしゃるんでしょう?」
すれた目つきで笑う私に、リッテリットが顔をしかめる。確かにこれはちょっと毒がすぎたかもしれない。青ざめた馬の騎手は死神、なんて、リッテリットにわかるはずもないジョークなのだけれど、私の表情から何となく察したらしい。
「あのような野蛮なやつばらに姫様が心砕かれる必要などありませんわ。雪の見ごろもわきまえぬ無粋な連中ですもの。北嶺様ももう更衣を済まされましたのに」
憤慨するリッテリットの言葉に、私は少し引っかかるものを感じた。北嶺様というと、自然の厳しい地域によくある山岳信仰の類で、要するに北嶺山脈を自然神に祀りたてたものだ。伝承では春、目覚めたての北嶺様はまず衣替えをするのだと言い伝えられている。
半可通の私に講釈させれば、これは春の雪崩で冠雪が喪失することを擬人化したものといえる。春になり、気温が上がって山の斜面の積雪が解けはじめると、雪解け水が潤滑剤となって、積雪の全層が崩落する全層雪崩という気象災害が発生することがある。これは新雪の弱層だけが滑落する表層雪崩よりおおむね大規模で、ときに深刻な被害をもたらす。雪華北嶺では気温上昇の具合から、実質は夏前ぐらいに発生の時期がずれ込むのだが、伝統的に春の風物詩として畏れられているのだ。
「……まだ日暮れも早いのに、もう衣替えなの?」
「ええ、はい。そう聞いておりますが」
「それ、誰に聞いたのよ」
「次兄からの手紙に書かれておりましたよ。矢音や鬨の声よりも、北嶺様の衣擦れの音の方がずっとうるさい、と」
リッテリットのその言葉で、違和感が確信に変わる。私は、頭の芯をすうっと冷やした寒気を振り払うように、あせって詮索を重ねた。
「手紙って、いつの?」
「ええと……ええ、確か……受け取ったのは一昨日のことでございますね」
「一昨日!?」
リッテリットの次兄は開戦以来、雪華北嶺の貴重な馬主として氷渓関にほど近い馬宿に詰めていると聞いた。一昨日に白銀八重城に届いたということは、その手紙が書かれたのはさかのぼって先週以前。とすると、次兄が北嶺の雪崩の音を聞いたのは、年明けからまだ半月も経っていなかった時分である可能性が高い。それは、いくらなんでも不自然だ。体感だが、今年は例年に比べて極端に暖かい年というわけではない。春の雪崩が本格化するのはまだまだこれからのはずなのだ。もはや寒気などではない、明確な冷気が私を襲う。
「いけない。もし、そうだとしたら、これは……」
「……姫様? ひ、姫様!?」
嫌な予感を振り払うように跳ね起きた私は、怪訝そうな表情のリッテリットを尻目に、腰の高さほどのベッドから飛び降り……足の付け根に走った激痛に思わず腰が砕けてしまった。床にへたり込んで硬直する私にリッテリットが駆け寄る。目の裏に流星群が舞い散るような衝撃で、もう歩くどころか動けなくなってしまった私は、それ以上に強く奥歯を噛みしめて叫んだ。
「天文官! 天文官に会わせて! 今すぐ!」
「は、はい!」
私としては、呼んできてと言ったつもりだったのだが、私もリッテリットも動転していたのだろう、リッテリットは私をあっというまに横抱きに抱え上げてしまった。そしてそのまま青女宮を背に、不香宮へと急ぐ。幸いなことにも、あるいは不幸にも、ちょうど黄昏どきの頃合いで、私たち主従を客観視するものはいなかった。少なくとも、不香宮に入るまでは。
不香宮はいわゆる行政府の役割を持つ宮殿で、宮廷官僚の牙城ともいうべき場所だ。その頂点に立つ宰相のミタス=マゥこそ天華宮でもっぱら王佐に専念しているが、宮廷貴族の主だった面子はむしろこの不香宮を根城としている。つまり、ここに足を踏み入れるということは、私もリッテリットもあまりねんごろにしたくはないお歴々と、否応なく顔を合わせるはめになるということだ。
不香宮に特有の、比較的小さな部屋が並ぶ螺旋廊下を昇っていくと、ドーム状の宮殿建築のてっぺんに天文局がある。私をお姫様だっこしたリッテリットがその扉を開けると、帰り支度をしていたらしい昼勤の面々が一斉に私たちに視線を注いだ。
「アークレーネ女史!? い、いや、姫殿下! 王女殿下ではありませんか!」
そして、局内で見かけるはずもないやんごとなきご尊顔を拝すると、彼らは軽く混乱に陥ってしまった。私とリッテリットのおよそ奇矯な格好もそれに拍車をかけたらしい。なにせ私は夜着のような薄布一枚きりでリッテリットに抱かれており、そのリッテリットもまた王族の身辺に侍るには相応しからざる部屋着もどきのくつろいだチュニックに身を包んでいる。とっさにわからないのも道理ではあるが、リッテリットより気づかれるのが遅かったのには少し切なさを感じた。
「夕さりに折々のお成り、恐悦至極に存じあげます。天文局長の……」
改めて仰々しい礼をとろうとする、恰幅のよい中年ほどの貴族。着物のあつらえからしてもそれなりの立場と思ったら、案の定局長格であったらしいが、私には彼がどこの誰べえかなどさしたる興味もなかった。
「そういうのいいから、記録。年明け一ヶ月の天候記録を、何年か分お願いね」
自己紹介をすっぱりさえぎって用件を伝えると、局長はぽかんと口を開けたまましばし固まってしまった。まあ、王族が不香宮に足を運ぶというのも珍しい事態ではあるが、それにしたってのんきなものである。
「天記録、でございますか? しかし、月毎になどまとめてはおりませんし、王女殿下ともあろうお方が何用にございましょうか」
「私が天記を見るのにいちいち理由が……」
「畏れおおくも雪華北嶺の王女殿下に理非を糺すか、無礼もの!」
渋る局長にいら立った私が文句をつけようとした矢先、リッテリットが暴発してしまった。局長の詮索もよくはないが、だからといって私の言葉にかぶせて叱りつけるというのもたいがいな非礼ではないかと思う。
「は、大変な失礼をいたしました。おい、年明けからの分だ。すぐにお持ちしろ」
おまけに、こんな具合だからなおさらやるせない。これではまるでリッテリットが不満を表したから彼らが従ったように思えてしまう。しかも、天文局の面々は天記を探しまとめながら、ちらちらとこちらに視線を向けてくるので、どうにも居心地が悪い。どういうつもりかと思い、自身を顧みてみると、あっと気づいたことがあった。
「リッテリット、その、あの、ちょっと下ろして」
かく言う私はリッテリットにずっと抱かれていたのだった。興奮していたあいだは何とも思わなかったけれど、冷静になってみるとこれがなかなか恥ずかしい。それでリッテリットも周囲の目に気づいたのか、慌てて私を抱え下ろそうとした。そのしぐさに一抹の不安を感じ、私は少々の注意を喚起することにした。また痛みで悶絶したくはない。
「そっとよ、そっと」
「了解しておりますよ、姫様」
その言葉どおり優しく立たせられた私は、患部を刺激しないようにおそるおそる応接ソファーに腰を下ろした。いささかはしたないが、傷に障らぬように横座りである。リッテリットは如才なく私の背後に音もなく控え、ようやくそれなりの格好がついた。
「お待たせいたしました、王女殿下。ご所望の天記録にございます。とりあえず三年分と今年の書きさしをお持ちいたしましたが、多分に散逸しておりますれば、お手を煩わせることをご容赦いただきたい」
「ご苦労」
ねぎらうのもおざなりに、私はまず麻布の束を開いてみる。これはメモ帳のようなもので、まだ正式の天記録としてまとめられていない今年分の草稿が書かれていた。控えめに言っても、かなり個性的な文字に苦労しつつ読み進めると、今年の所感は、おおむね例年通りの天候で、晴れ基調だが気温は低めとのこと。降雨は4日だが、うち2日は小雨がぱらついた程度と書かれていた。
次に、厚手で丈夫な樹皮パルプの紙で綴じられた本のうち、一番上に積まれた一冊を手に取る。表紙には1314と記されているこれは、去年の記録なのだろう。開いてみると、こちらはさすがに公文書らしく、なかなか洗練された筆致で読みやすい。内容はというと、雨がちで肌寒い日が多く、積雪も数日あったということだ。雪華北嶺の基準で肌寒いとは、つまり日中に氷点下になるということだが、思い返してみれば、確かに去年の今頃はまだ毛皮が手放せなかったような気がする。さらに、年始には飢饉が危ぶまれていたのだったと思い出された。結局夏季には気温も急上昇したので、心配されたような深刻な事態にはならなかったのだが、記録を斜めに読み進めると、記憶と合致する記述が散見された。「北嶺様の衣替え」については、太陽がぎりぎり沈まないようになってようやく発生が記録されていて、これはどうやら遅い部類に入るらしい。
さらに二年分を辿ってみると、両年とも今年と似通った傾向で、「北嶺様の衣替え」は晩春ごろが通例のようだった。つまり、今年も本来ならそのぐらいの時期になっていたはずだと推測される。私はため息をついて天記を閉じると、一抹の希望にかけて局員に尋ねてみた。
「ねえ、ちょっと聞きたいんだけどいいかしら?」
「は。謹んでお伺いさせていただきます」
一番手近な人間に向かって言ったのに、なぜか局長がしゃしゃり出てきた。私はこの局長の横に太いのも、押し込めたようなにやけ面も生理的に気にいらなかったが、答えてくれるなら誰でもいいかと心の中で折り合いをつけ、改めて聞いてみる。
「今の時分にもう北嶺様がお着替えになった、っていったらどう思う?」
「どう、と申されますと」
「そうそうあり得るのかってこと」
その私の言葉に、局長はうんと押し黙って考え込んでしまった。あれこれ思案していることをアピールするように手をあちこちさまよわせ、やあやって回答したことには。
「あまり尋常でもございません。まだ山辺の雪は堅くありますれば、多寡のことでは脱げ落ちはしますまい。しかし、王女殿下が天文にご興味がおありとは。やはりご聡明でいらっしゃる」
打てば響くと期待したわけでもないが、予想の下を行く愚鈍ぶりに嫌気がさしてくる。いちいちおべっかを使うのも癇に障ったので、私は早々に退散することにした。
「そう、それならいいわ。リッテリット、もう行くから」
「はい、姫様。お歩きになられますか?」
「んー……面倒だし、お願い」
ソファーまでの数歩を歩くにもかなり気を使ったこともあって、私は両手を伸ばしてだっこを催促した。恥ずかしいといえばその通りなのだが、一歩ごとに痛みをこらえるよりははるかにいい。それに、リッテリットがえらく嬉しそうなのは悪いことではないし。
「次は地勢局……いや、地図なら書庫でいいか」
「書庫でございますね」
「うん」
それだけ言うと、私はリッテリットの体温の暖かさと心地よい振動を感じながら瞳を閉じた。頭を垂れながらも、目線だけは私を見つめる天文局長を、もうこれ以上視界に収めていたくなかったからだ。それに、不香宮の最上階から天華宮の地下まではそれなりに距離がある。その間に余人の視線を感じないためにも、目をつむってしまうのは有効だと思われた。
「そっちにはあった? リッテリット」
「いいえ、姫様。誰かが持ち出してしまわれたのでしょうか」
ランタンの明かりの元行われた本日二度目の書庫探索は、残念ながら空振りに終わってしまった。
「持ち出した、ってリッテリット。国図でしょ? 勝手できるなんてそれこそ私か陛下ぐらいのものじゃない。写しとるのも死罪で済むかどうかって代物よ?」
この時代、地図というものの価値は極めて高い。戦いをやるのに、地形を知るのと知らないのとでは雲泥の差があるものだ。軍事力を持つ他者に自領の地図を握られるというのは、喉首に刃を突きつけられるのに等しい。もちろん、山師や猟師などは地元の地理を知りつくしているだろうし、土地持ちの貴族だって自領の測量ぐらいは当然にする。だが、雪華北嶺全体の地図を作図し所有することができるのは王家だけだ。そして、それを自由に閲覧できるのも、ごく限られた人間だけに許される特権なのである。
「ともかく、姫様。地図がないのは事実なのですから、いかがいたしましょう? 地勢局に参られますか」
「もう日も沈んじゃったし、閉まってるでしょ」
「では……」
「出直すしかしょうがないか。まあ、もともと私ひとりが一日二日焦ったってどうしようもないことだしね」
こういうとき、わきまえたリッテリットは自分から私に意図を問うことはない。以心伝心というのとも少し違うのだが、わからないことをわからないままにしておけるのも、貴人に仕えるものの資質だろう。少なくとも、私の機嫌を損ねないことに関しては優秀だ。
「では姫様、こちらに」
そう言ってリッテリットが指しのべた腕につかまると、両手のふさがったリッテリットのかわりに私がランタンを持つ。そうして書庫を出ようとしたら、入れ違いに書庫に入ろうとする男の存在に気づいた。堂々たる体格に、威風のある髭面。見上げたリッテリットの表情がじつに嫌そうに歪む。
「あれ? オーロス将軍?」
「これは、王女殿下。かさねがさねの失礼、ご容赦ください」
向き直って立礼するオーロス。リッテリットが私を支える腕に異様な力が入る。
「アークレーネ嬢もご機嫌麗しく。ご父君には苦労をお掛けしております」
「フェルグナウト卿……ええ、父には宜しく伝えておきましょう」
不機嫌そうな様子を隠しもせず、リッテリットが口ばかりの礼を言う。一触即発、というかリッテリットが一方的に噛みついているようにみえるが、なんにせよあまりよろしからざる雰囲気だ。なんとか穏便に治められないかと腐心してみると、ふとオーロスが左わきに巻物を抱えているのに気づいた。先ほどは身体の影に隠れてみえていなかったらしい。
「その抱えているのはなにかしら、将軍」
つと指さして問うと、オーロスは心なしか安心したように、抱えた巻物を手にして答えた。
「国図でございます。無論、持ち出しの許可はぬかりなく。軍議をまとめ申し上げるのに、お借りしていた次第でございます。北嶺の山なりに理解を頂くには、この国図をおいて適当なものがありませぬゆえ」
「えっ……」
「お恥ずかしながら、それでもなかなか了解は頂けませなんで、軍議も長引いてしまいましたが」
「北嶺……それって、山越え、よね」
目を丸くして問う私に、オーロスもまた瞠目した様子だった。
「なんと……いややはり、さすが王女殿下の慧眼には恐れ入るばかりでございます」
「ううん、そうか、そうよね。昼に会ったときにはもう思い至っていたんでしょ?」
あの時、オーロスはこの国図を借りに書庫に来ていたのだろう。やはり雪華北嶺随一の名将、こと軍事に関しては、机上のことであっても一枚も二枚も上手だ。
「あくまで腹案として、でございますが。軍議にかけるほどの確信に至り申し上げたのは、この国図のおかげであります」
「貴方ならできる、そういうことね」
「は。麾下の中軍二万を率いたならば、半月で嶺外領を襲ってみせましょうが」
「どれぐらい山で殺す?」
「2000はみております」
実のところ、私も山越えの作戦というのを考えないでもなかったのだが、勝算といえるほどの計算にもならなかった。ために、すぐに頭の中の引き出しからこの案を放逐してしまったという経緯がある。しかし、雪や寒さに慣れた雪華北嶺の兵を、地形を知悉したオーロスほどの将軍が率いて、半月かけてようやく一割の脱落で済むとなれば。
「オーロス将軍。連中は来るよ。今まさに天嶮を越え、万年雪を踏み崩して進軍しているよ」
「な、何……!?」
「アークレーネの馬番が季節外れの雪崩の音を聞いているんだ。間違いない。連中は不慣れな軍だ。凍え死に、溺れ死に飢え死んで、半分も生き残らないかもしれないけど」
「……残りの半分でも我が方より多勢、と仰るか。道理だ」
そう。雪華北嶺にとっては、北嶺越えはあまりに無謀な作戦だ。2000の兵を損耗して、5倍の敵軍が詰めるエクスシアナプールを背後から襲う。主力の精鋭を無理無茶無謀に注ぎ込むなぞ、およそ正気の沙汰ではない。だが、エト=エルゼにとっては違う。砦攻めに3倍の兵力を残しても、慣れぬ山越えで兵の半ばを喪失したとしても、それでもなお雪華北嶺の中軍を上回る数をもって、国境を突破することができるのだ。戦わずに三万余の兵を殺す。単純な数勘定では非効率かもしれないが、白銀八重城を落とすまでの総算で考えたらどうだろうか。こちらの裏をかく北嶺越えは、まっとうに一塁一砦を落としていくより、あるいは安くあがることはないだろうか。
「明朝の一番にも、諮り奉りましょう」
「いや、それじゃ遅いわ。たとえ半日だってどうこう変わるのが戦でしょ」
「無論にございます、が……」
「私が許す。エイネスラウレフィテンスールクリアフォルストロシアナペールの名において、準勅令で認める。オーロス=フェルグナウトはあらゆる準備を整え、全てよいようになさい」
王の指名に基づく軍権の上下で言えば、筋違いの許可だ。中軍に関する限りにおいて、私の権限はオーロスのそれを下回る。おまけに、印璽も玉音官もなしの準勅令など、有効であるわけがない。この言葉を盾にオーロスが横車を押したとして、もしこの瑕疵を突かれたとき、傷つくのが私になるという程度の価値しかない。
しかし、だからこそ、オーロスは驚嘆と畏敬のないまぜになった様子で私を見ているのだろう。禍根を忘れるつもりはさらさらないが、内ゲバなど外患が無くなってからいくらでもすればいい。取らぬ狸より目の前の虎とは正論だが、人間なかなかそう素直になれないものである。
「そのお言葉、真に宜しかるのでしょうな」
「こんな長台詞、二度も言わせんな。その地図も預けるから、早く行きなさい。今すぐ!」
「はっ!」
最後にもう一度軍式の敬礼をして、踵を返したオーロスは足早に階上へ上って行った。その後ろ姿を見送り、やがて足音も聞こえなくなったころ、私とオーロスの話に口をはさめず黙りこくっていたリッテリットが重たげに口を開いた。
「……姫様。本当におよろしかったのですか」
「なに、リッテリット。私の差配に疑義でもあるの」
「めっそうもございません。しかし……しかしあれではフェルグナウトを利するばかりではありませんか。リッテリットには戦のことは分かりませぬが、姫様の無茶はよく知っております。どうか、どうかよくよくご自愛くださいませ、姫様」
リッテリットの憂慮もまんざら理がないわけではないし、何より私のことが心配でたまらないということはよくよく伝わってくるので、あまりむげにもできない。野放図なお墨付きを顕在的な政敵に与えることの危険性など、私だってわかっているつもりだ。だが、今の雪華北嶺が直面する危機が、そんな常識で譲れる程度であればもとより苦労などない。
「どうも、戦争だからしょうがない。こればっかりはね。誰に何をくれてやっても、エト=エルゼにだけは負けられない」
たとえオーロスに政治生命を握られようが、エト=エルゼに北嶺を越えさせるわけにはいかない。彼らがハンニバルでもナポレオンでもないことを思い知らせてやらねばならない。それだけはやり通す心算が私にはある。けれど、その片手間に私自身の足場を守れるほど私の手は長くも器用でもない。
「無理無茶無謀は承知のうえよ。だからね、リッテリット」
私を守ってと囁いた声に、返す言葉はなかった。ただ、熱いしずくと痛いほどにぎゅっと抱きしめることだけが、リッテリットにできるありったけだったのだろう。私にはそれで十分だった。