第六章 saide白銀の髪の少年―銀の徽章―③
「やっと終わったな、酒が飲みてえ。」
ジンは丘の上で大きく伸びをした。
「まだ終わっていないぞ。報告がある。」
ラウルが言った。
「帰ってからお前が書け。」
「お前も書くんだ。」
「嫌だ。」
「書け。」
ユーナは二人のやり取りを笑って聞きながら、少し後ろを歩いていた。
やがて、セイラン側の兵士がこちらへやって来る。
「ジン殿。」
「ん?」
「ルーシェン様がお呼びです。」
面倒だという顔でジンがぼやく。
「嫌な予感しかしねえな。」
ラウルがため息とともに言う。
「俺はバハル殿と最後の確認がある。お前一人で行ってこい。」
「逃げやがったな。」
「自分で言ったことの責任くらい自分で取れ。」
ジンは露骨に嫌そうな顔をした。
ユーナが見上げる。
「僕も行きましょうか?」
ジンは「いや」と言いかけ、少し考えてから「……来るか」と言った。
ルーシェンは、天幕の中で待っていた。
昼間よりさらに機嫌の悪そうな表情で。
「座れ」と一応席を進められるが、ジンは「立ってる」と断った。
伯爵は冷たい目でジンを見る。
「今日の働きについては認めよう。」
「そりゃどうも。」
「だが私は、お前の態度を忘れたわけではない――アルカ本部へ正式に抗議する。」
ユーナがわずかに緊張するが、ジンは眉一つ動かさなかった。
「勝手にしろ。」
ルーシェンの目が細くなる。
「何?」
「苦情を入れたいなら入れればいい。」
「お前の処分を求めるのだぞ。」
「だから、好きにしたらいいって。」
ユーナが少し驚いて師匠を見る。
普通なら、少しくらいは動揺するものではないだろうか。
だがジンには本当に効いていない。
ルーシェンは苛立ったように杖の先で床を叩いた。
「アルカの使者でいられなくなるかもしれんぞ。」
その言葉にだけ、ジンの目がほんの少し険しくなったのを、ユーナは見逃さなかった。
だがジンはすぐ、いつもの表情に戻る。
「それを決めんのはあんたじゃねえよ。」
「……。」
「俺が規則破ったなら、ゼインが処分する。俺が間違ってたなら長老にでも怒鳴られる。」
ジンが肩をすくめる。
「でも、あんたに嫌われたから使者辞めるほど安くねえんだよ。」
ルーシェンの顔がますます険しくなる。
「随分な言い草だな。」
「……ついでに一個だけ言っとく。」
嫌な予感がしたユーナが小さく、「師匠」と呼んだ。この先を言わせない方がいい気がしたのだが、遅かった。
ジンはルーシェンを真正面から見た。
「領民の命より自分の体面の方が大事なんだろ、あんた。そんなに自分が好きなら、次からアルカじゃなくて鏡にでも相談しろ。」
沈黙。
ユーナは目を閉じた。
「……師匠。多分、それです。」
「何が?」
「苦情の理由です。」
領主の顔は完全に引きつっていた。
「出ていけ!」
「はいはい。」
ジンはまるで気にした様子もなく踵を返した。
ユーナも慌てて頭を下げる。
「失礼しました。」
不満そうにジンが言う。
「お前が謝るな。」
ユーナが呆れて言い返す。
「師匠が謝らないからです。」
「俺、悪いこと言ったか?」
「内容ではなく言い方の問題だと思います。」
「お前、ラウルみたいなこと言うようになったな。」
苦々しい顔でこぶしを握り締める領主を残して、二人は天幕を出た。
帰路。
夕暮れの草原を三人の馬が進んでいた。
ラウルはルーシェンとの話を聞くなり頭を抱えた。
「お前……。」
「なんだよ。」
「苦情入れるって言われた直後に、なんで余計なことを言うんだ。」
「腹が立ったから。」
「子供か!」
ユーナは少しだけ笑った。
そしてふと、ジンの腰から下げれた徽章を見る。
銀の徽章が夕日を受けて光っている。
「師匠。」
「ん?」
「アルカの使者でいるの、好きなんですね。」
ジンが怪訝な顔をする。
「急になんだ。」
ユーナは言葉を探した。
「今日、領主にアルカのことを言われた時、師匠自身を悪く言われた時より、ずっと怒っていました。」
ジンが黙る。
ラウルが口元を緩めた。
「こいつ、こう見えてアルカ大好きだからな。」
「ラウル。」
「酒場で月に三回は『こんな組織辞めてやる』って言うけど」
「数えてんじゃねえぞ。」
「本当に辞めるって言い出したことはないからな。」
「うるせえ。」
ユーナはジンを見る。
「誇りに思っているんですか?」
「そういう恥ずかしい聞き方すんな。」
「違うんですか?」
「……。」
ジンは少しだけ腰の徽章へ触れた。
指先が、無意識のように銀の縁をなぞる。
そして夕日を見ながら言う。
「まあ……、悪くねえ仕事だよ。」
それだけだった。
けれどユーナには十分だった。
その夜。
宿の小さな部屋で、ユーナは荷物を整理していた。
ジンは机に向かい、剣の手入れをしている。
酒場へ行くと思っていたが、珍しく部屋に残っていた。
布で刃を拭き、油を薄く伸ばし、鞘の状態を確認する。
やがて剣の手入れが終わると、ジンは腰に下げられたアルカの徽章を外した。
ユーナが何となく見ていると、ジンは別の布を取り出して銀の表面についた埃を丁寧に拭き取った。
「師匠。」
「ん?」
「それも手入れするんですか?」
「まあな。」
ユーナは少し意外だった。
「大事なんですね。」
ジンの手が一瞬止まったが、すぐまた動き出した。
「錆びた徽章つけてたら格好つかねえだろ。」
「銀は簡単には錆びませんよ。長老に習いました。」
「爺さん余計なこと教えやがって。」
ユーナは微笑む。
ジンは磨き終えた徽章を灯りにかざした。
国も持たず、領土も持たない、王もいない。
それでも、それを身につけた者たちは七ヶ国を渡り歩き、互いに剣を向ける者たちの間へ立つ。
ユーナにはまだ、その重さをすべて理解することはできなかった。
ただ、師匠がそれを大切にしていることだけは、よく分かった。
ジンは徽章を腰のいつもの位置へ戻した。
まるで、そこにあるのが当然であるかのように。
翌朝になれば彼はまた酒を飲みたがり、報告書をラウルに押しつけようとし、長老に叱られるのだろう。
それでも、ユーナはその夜初めて知った。
ジンが「アルカの使者」という立場を、口で言うよりずっと大切にしていることを。
そして数日後。
セイラン皇王国から、一通の正式な抗議文がアルカ・パクシスへ届けられることになる。領主ルーシェンの署名入りで。
その書簡は、やがてゼインの執務机の上へ積み上げられる数多くの苦情のうちの一通となった。




