第8話:助けに来たとは言っていない
シエルは空を見上げた。
青かった。
今日はよく晴れていて、雲が少ない。遠くまで青が続いている。
あの青の向こうから、何かが来た。
最初は小さかった。
オレンジと白と茶色の、ふわふわした何かが、南西の方角からすごい速度で飛んできた。
絨毯だった。
茶白の模様の、ふかふかした絨毯。乗っているのは、エプロンをつけた茶白の猫。首元の純金の鈴が、朝の光を受けてきらきらと光っている。
「ルウ!!」とシロが叫んだ。
「ニャーーーッ!! シエルーーッ!!」
ルウが絨毯に立って、大きく手を振っていた。
カラスたちがざわついた。突然現れた乱入者に、隊列が乱れる。
リーダーだけは動じなかった。ルウの絨毯を一瞥して、値踏みするような目になった。それから、ルウの首元の純金の鈴に視線が吸い込まれた。
ギョロリとした目が、ぎらりと光った。
「ルウ! 鈴を隠して! 鈴を見せちゃダメ!」
シエルが叫んだが、遅かった。
リーダーカラスが急転換して、ルウに向かって急降下した。
「ニャッ!?」
ルウが素っ頓狂な声を上げた。
鈴を狙ってきたリーダーを、ルウはとっさに腕で払いのけた。爪が首輪にかかって、金の鈴がちりんと鳴った。
「俺の鈴に何するニャーッ!!」
ルウの目が据わった。
シエルは、その目を知っていた。
料理の火加減を間違えたときの目だ。失敗作を出してしまったときの目だ。絨毯の端を焦がしてしまったときの目だ。
つまり、やらかした後の、全力で取り返しにいくときの目だ。
「俺の純金の鈴を、ネコババしようとしたニャーッ!!」
「ルウ、落ち着いて!」
「落ち着けるかニャーッ!! これはな、七代前のご先祖様から受け継いだ由緒正しい純金の鈴なんだニャーッ!!」
「今そういう話は……!」
「絨毯の白い部分を叩くニャーッ!!」
ルウが自分の絨毯のお腹部分、白い毛並みのあたりをぽんぽんと叩いた。
次の瞬間、絨毯からふっくらしたものが次々と飛び出してきた。
パンだった。
温かくてふかふかのロールパンが、十個、二十個、三十個と、勢いよく空中に放出された。
「な、何してるの!?」
「食らえニャーッ!!」
ルウが絨毯を急加速させた。
大量のパンが、カラスたちに向かって飛んでいく。
カラスが慌てて散った。フォーメーションが完全に崩れた。一羽が別の一羽にぶつかった。リーダーが指示を出そうとしたが、突然の展開についていけていない。
そして。
カラスというのは、キラキラしたものが好物だが。
それと同じくらい、食べ物が好きだ。
温かいパンの匂いが、風に乗って広がった。
カラスたちの目が、一斉にパンに向いた。
「ガッ……」
リーダーが何かを叫んだが、手下たちはもう聞いていなかった。
一羽がパンに飛びついた。それを見た別の一羽も飛びついた。三羽目が横取りしようとして、二羽目ともみ合いになった。
隊列が、完全に崩壊した。
「今ニャ、シエル!!」とルウが叫んだ。
「わかった!!」
シエルは絨毯の紐を限界まで引いた。
まともに動かない絨毯を、力ずくで方向転換させる。リーダーカラスに向けて、真っ直ぐ。
リーダーは一瞬、驚いた顔をした。
自分の手下がパンに群がっている隙に、突っ込んでくるとは思わなかったのだろう。
シエルは絨毯をリーダーの真横にねじ込んだ。
「シロ、今!」
「わかった!!」
シロが絨毯の端から身を乗り出して、リーダーカラスが抱えていた配達鞄をひっつかんだ。猫の爪が、鞄の持ち手にがっちりかかった。
「離せニャーッ!!」
「ガーッ!!」
引っ張り合いになった。
リーダーの力が強い。シロが絨毯ごと引っ張られる。
「シロ!!」
「離さないニャーッ!!」
シロの四本の爪が、絨毯にめり込んだ。全体重で踏ん張って、鞄を離さない。
ルウが横からルウの絨毯を突っ込んできた。
「どけニャーッ!!」
ルウの絨毯がリーダーカラスの横腹に激突した。
リーダーが鞄を手放した。
シロが鞄ごと、絨毯の上に転がり込んだ。
「取った!!取ったニャ!!」
「逃げるよ!!」
シエルは南に向けて絨毯を走らせた。ルウがぴったりと横についてくる。
リーダーカラスが、怒声のような鳴き声を上げた。手下たちに向けて何かを叫んでいる。
でも手下たちは、まだパンに夢中だった。
シエルたちが距離を稼ぐのに、誰も追ってこなかった。
オルフェル島の外縁まで逃げたところで、シエルはようやく絨毯を緩めた。
ルウが横に並んだ。
「大丈夫ニャ、シエル?」
「……なんとか。ルウ、なんで来たの」
「シロの声が聞こえたから」
「聞こえたの? あんなに遠いのに?」
「カフェの窓開けてたから。それに」
ルウがちりんと鈴を鳴らした。
「配達中にシロが叫ぶって、普通じゃないニャ。何かあったと思って」
シエルは少し黙った。
「……ありがとう」
「どういたしましてニャ! でもパンを全部使ってしまったから、今日のランチメニューが変わるニャ」
「それは申し訳なかったわ」
「まあいい。あのカラスたちに食べてもらったと思えば、宣伝になるかもしれないし」
「カラスが客として来ても困るでしょ」
「それもそうニャ」
シロが配達鞄を抱えたまま、ルウを見上げた。
「ルウ、強いニャ」
「まあね!」
「あの突っ込み方、かっこよかった」
「でしょ! ルウの絨毯は突進力がすごいんだよ! ふかふかしてるけど、案外頑丈なんだよニャ!」
「鈴、大事にしてるんだね」
シロが、ルウの首元の鈴を見て言った。
ルウは少し照れたように、前足で鈴に触れた。
「まあね。七代前のご先祖様からの……」
「嘘ニャ」とシエル。
「え?」
「三話前に聞いたとき、五代前って言ってたよ」
沈黙。
「……記憶違いニャ」
「じゃあ何代前なの」
「……二代前ニャ」
「だいぶ縮んだわね」
「お父さんから受け継いだんだニャ! それでも大事な鈴なんだニャ!!」
シロがぷっと吹き出した。
シエルも、ため息をつきながら少し笑った。
絨毯の裂け目が、また少し広がっていた。今日の仕事を終えたら、ちゃんと修理に出さないといけない。
でも今は。
「鞄、無事だった?」
シロが鞄を開けて確認した。
「中身は大丈夫ニャ。荷物も、書類も」
「よかった」
シエルは前を向いた。
残りの配達先が、まだある。
「行くよ」
「うん!」とシロ。
「俺も行くニャ! ランチメニューを考えながら!」とルウ。
「仕事に戻りなさいよ」
「ついていくニャ! 今日は店じまいして旅するニャ!」
「勝手に決めないで!」
「出発ニャーッ!!」
「聞いてる!?」
三人と一匹分の絨毯が、青い空を南へ向かって走り出した。
はるか後方で、カラスたちのギャーギャーという声が、まだ聞こえていた。
パンを巡って、言い争っているらしかった。
リーダーだけが一羽、静かに旋回しながら、シエルたちが消えていく方角を見つめていた。
眼帯の下の目が、細くなった。
また来る、と言っているような目だった。




